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たんぽぽの親心~恩返しではなく恩送りを~

愛犬の散歩をしていて、思わず立ち止まってしまった。

もちろん、愛犬の散歩中に立ち止まることはしょっちゅう。おしっこしたところに腰にぶら下げているペットボトルの水をかけたり、うんちは用意しているトイレットペーパーにくるんでうんちバッグに入れたり。よそのワンちゃんとにらみ合いが始まったら、慌ててリードを引き寄せ、立ち止まって成り行きを見守ったり。

ただ、私の足が止まったのはそんな自発的なものではなくて、ふと目を奪われ、足を止められてしまったのだ。その正体がこれ。

たんぽぽ

ツツジが私の膝くらいの高さ。そのツツジを見下ろすまでに茎を伸ばしたたんぽぽ。思わず写真に収めてしまった。なぜなら、そこにたんぽぽの親心を見たような気がしたから。

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このところ、子どもたちからもらうカードや手紙を読んで気になることがある。上は大学生、下は中学生。多感な思春期真っただ中の彼らは、決まって「ありがとう」と書いて「いつか必ず恩返しするからね」と締める。うん。嬉しい。嬉しいけど、なにか違う。気持ち悪さが残る。

もしかして、もしかして、私の子育てが間違っていた?

確かに、塾や習い事のことになると「高いお金を出してあげている」という恩着せがましい言動が多々あった。それは認める。でも、それ以上に、親への感謝が美学化されたドラマや映画、本などの影響を受けているのではないかとも思う。

そんなこんなで、おそらく我が子たちは、「恩返しをする」ことが最高の親孝行だと思っているのだろう。

でも、恩返しってなんだ?

彼らは「大きな家を買ってあげる」とか「使いきれないくらいのお金を送ってあげる」なんて言っているけれど、果たして、その時がきたら、私はそういうことを求めているだろうか?

今の私なら、「そんなお金があるなら私になんかに使わず、自分自身に投資しなさい」と言うだろうし、その時彼らに子どもがいるなら、当然彼らの子どもに使ってもらいたい。我が子たちからお金を巻き上げようなんてことはこれっぽっちも思ってなく、どうしても受け取ってほしい、と言われたとしても拒むかもしれない。前澤友作さんが突然私に100万円くれるという話なら、もちろん二つ返事でありがたく頂戴するけれど。

親に恩返しなんて要らない。どうしても親に恩を返したいっていうのなら、私が大切に育んできたその命を大事に、そして少しでも楽しい人生になるように常に前向きに生きている姿を見せ続けてほしい。それを見ていることが私の生き甲斐になるだろうから。

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愛犬が、ぼうっと立ち止まってたんぽぽを見ている私を「早く行こうよ」と促した。愛犬が茂みに飛び込み、たんぽぽの横をすれすれに通るから、私は思わず「あっ」と声をあげてしまったではないか。幸い、ぎっしり詰まったフワフワの綿毛は、形を崩すことなく一塊のまま大きく頭を揺らした。

「まだ準備が整ってないんだね。」

ちょっとだけホッとした。

私もこのたんぽぽ母さんと同じだ。子どもたちが飛び立つ前に、しっかり世の中を見ることができるよう、少しでも高い所へ子どもたちを連れて行きたいと思っている。いつか子どもたちが飛び立つ時が来ても、高い所からの方が遠くまで見渡せ、自分の行きたいところがよくわかるだろう。子どもたちが未熟な間は、私は絶対に彼らの手を放さない。彼らの準備が整った時、私は風に吹かれるままに手を放すだろう。少しでも遠くへ飛んでいけるよう手を大きく振るつもりだ。

高い所にいると、私にもいいことがある。それは、子どもたちが飛んで行く姿を見届けられることだ。彼らが行きついた場所に根を張り活躍する姿を、遠くからずっと見ていたい。もし、彼らが疲れてしまったり、行き詰ったりした時は振り向いてほしい。遠くからずっと見守っている私の姿が見えるだろうから。

さらには、子どもたちが親になって、「ああ、母さんもしてくれたなぁ」なんて思い出しながら、自分の子どもたちと関わってくれたらそれでいい。親に恩を返すのではなく、恩を子に送る。それが親心。

そうだよね、たんぽぽさん。


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