レッテルが思考をとめる
スマホアプリ「BiSE(バイス)」の開発や、オープンコミュニティ「.ippo(ドットいっぽ)」の運営をしている小林慶志郎です。
今日は日記のような投稿です。
少し前の話ですが、勉強会的なものに出たときに、その人がやってる活動のことを、
「そんなことやって何になるんだろう」
「意味あんのかいな」
と心の中でバッサリ切り捨てたものがありました。
でも、それって、その活動をしている人たちにとっては何らかの課題意識、目的意識があるからやっているはず。
そして、それが続いているということは、その人たちにとっては意味があることなはずです。
そう、意味がないはずがないんです。
にもかかわらず、自分が興味を持てないもの、理解できないものは、
「これ、好きじゃない」
「こんなの価値がない」
とレッテルを貼り、蓋をしてしまう。
そんな思考に陥っている自分に、ふと気づいたのでした。
そのせいで、本当ならそこから学べるものもあるはずなのに、それを得るチャンスを失ってしまう。
素直に、すごいな、おもしろいな、ふしぎだな、なんでだろう、と、心で感じることができれば、そこから何か学ぶことができるかもしれない。
言葉にするのは難しいのですが、物事を素直に受け止められる「心の置き方」を意識しておかないといけないなと思ったのでした。
人のことを理解するとか、共感するとかいう感じではなく、もっと内向きな感覚です。
自分の在り方、心の置き方、ですね。
もっと意識して、物事をインプットしないと知識が偏るし、結果的に損するよなーと思ったのでした。
年とともに、自分の思考も偏るし、凝り固まっていきます。
今まで以上に心をフラットに保たないと、新しいものが入ってこなくなるなーという危機感を覚えたのでした。
<蛇足>
みんなお金のことが大好きなのに、お金儲けを汚いことのように話すのは、これと近いかもしれません。
自分が理解できない仕組みで稼いでいる人のことを理解しようとせずに、嫌いだ、汚い、悪い奴だとレッテルを貼って、その人が傾いたときに一斉に叩く、という行為に出るのではないか、とも思いました。
いずれにせよ、今回は自分の偏った思考プロセスに対する自戒の投稿です。
そして、勉強会中に、「あ、俺いま、バッサリ切り捨てたな」という感覚に気づき、この思考に至った自分をちょっぴり褒めてあげたいワタシなのでした。
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小林慶志郎
昨春、緊急事態宣言が出た頃、外出自粛が謳われ、会社にも行けず、飲みにも行けず、ひとりひとりが孤立していくような気がして、この先コミュニティって重要になるよね、という本を書きました。(Kindleで発売中です)
「コミュニティと生きる時代 〜withウイルス時代の仕事と組織のカタチ」--小林慶志郎
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