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【読書】エッセイが沁みる、社会をあらためる視点。

ブログではなくエッセイを書きたいと思ってから、エッセイの本を探している。そうやって目的を定めて本をサーチすると、これは!という一冊にめぐり会えるから不思議なものだ。読書に限らない。音楽や映画も同じ。

ところで、エッセイとは何か。

日本では「随筆」と呼ばれることが多いけれど、海外の大学や高校のエッセイの授業といえば、論文を書かせる印象がある。

随筆と論文は違うのではないだろうか。随筆は、つれづれなるままに日々を送り、こころに浮かぶとりとめのない断片を綴る。論文は論理的な思考を展開して書き、参考文献をしっかり記載する。感情にもとづく随筆、論理的な思考にもとづく論文というイメージだ。

知恵蔵によると、エッセイはフランス語の「essai(試み)」が語源だそうだ。思想家のモンテーニュは、まさにそのタイトルで書物を書いて人間探求と批判を試みた。断片的な思考をいとわず到達点がみえないままに、思考をめぐらせる。

その意味では、どうでもいい日常を気ままに書く日本のエッセイとは異なる。知恵蔵の解説に書かれているように、エッセイを随筆や随想と訳したことを起点として、まったく別の文学に枝分かれしたのかもしれない。

エッセイに似ている文章として、コラムもある。コラムは、新聞や雑誌をはじめとするメディアで主観をもとに書いた短い文章をいう。ネガティブな言葉では「埋め草」と呼ばれることがある。

印刷物は紙を裁断する都合から一般的に8の倍数でページを構成するので、原稿の分量や編集によっては、余ったページやスペースができてしまう。その余白を埋めるために、罫線で囲ったお役立ち記事、ちょっとした箸休めの内容をまとめた文章がコラムだ。

署名記事による連載コラムが人気になって、コラムニストという書き手も生まれた。雑草から大きな樹木になったライターである。テレビに登場するなど、昭和の時代には輝かしい書き手が多かった。

そんなコラムニストに憧れる一方で、個人的には、あんまり面白いことは書けないなと諦めている。「何を面白いと感じるか」は人それぞれだ。ウケるネタを書こうとすると難しい。哲学とはいわないまでも思考をぐるぐる回転させた断片の集まりが面白いと思ったり、どうでもいい日常に面白さを感じたり、自分の感性はどこか偏りがあって平凡だ。

自分には面白いものは書けないという諦めのもとに、エッセイを探して読んでいる。やはり本になったエッセイは素晴らしい。文章力向上のために手に入れたのだけれど、自分で書くより作家さんの本を読んでいたいと思うことしきりである。

書き手には芸能人の方もいらっしゃって、上白石萌音さんの『いろいろ』は素敵だった。全編書下ろしの初のエッセイ集だそうだけれど、タイトルがすべて動詞で統一されている。身体に訴えかける言葉から、彼女の思いが伝わる。本づくりへの意気込みや、難しさに触れた内容もみずみずしい。

上間陽子さんの『海をあげる』は、凪いだ海のように静かな印象の言葉の向こうに拡がる沖縄の厳しい現実、個人の辛い体験、けれども娘の風花さんのむじゃきな日常に生かされている描写に泣けた。もともと自分は声を荒げた批判より、しんどさに耐えながら静かに語りかける訴えに脆い。そんな自分のこころに沁みる本だった。

日本を代表する偉大な漫画家のひとりであり、日本のアニメを世界に向けて発信することに貢献した手塚治虫さんの『ガラスの地球を救え』は、急逝されたために未完のまま編まれた。地球環境の危機と未来への提言は、いまだからこそ読む必要がある本だと思う。

現在進行中で読んでいるエッセイは、宮崎智之さんの『平熱のまま、この世界に熱狂したい』。アルコール依存症を克服しつつも、強くなれない自分と誠実に向き合い、ときどきふふっと笑ってしまう内容がいい。

小説も楽しいけれど、個人の思考の断片がコラージュのように展開されるエッセイに魅力を感じている。

これからもエッセイを読み続けるつもりだ。できれば、素晴らしいエッセイに啓発されて書く。本を閉じたあとに、作者からもらった贈り物をインターネットの海に投げ込んで、誰かの手に渡れば嬉しい。

2024.06.15 Bw

X(旧Twitter)で読了した本の感想をつぶやいています。以下は、エッセイをピックアップしました。


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