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過去を片付けながら、春。

過去に幻想を抱いてはいけない。記憶が化石化する過程で嫌なことが剥がれ落ちてしまう傾向にある自分は、きれいなことしか覚えていない。だから、きらきらした過去と同じテンションで懐かしいひとに会う。

ところが相手はすっかり忘れてしまっていて、逆に嫌なことをたくさん思い出させてくれちゃったりする。

「なぜそんなに他人を見下した話し方ができるのだろう?」というひとがいる。そういうひとは、5年や10年の年月が経っても変わらないばかりか、むしろ劣化が進んで老害道まっしぐらの貫禄をつけている。

たまに話してみようかと思い立つのだけれど、話してみると幻滅すること甚だしい。連絡しなければよかったと後悔することが少なくない。

そんなことを考えながら思い出したのは、ジム・ジャームッシュ監督の『ブロークン・フラワーズ』という映画だ。

成功して悠々自適な生活を送っている中年のドン(ビル・マーレイ)は、ある日、差出人不明の手紙を受け取る。その手紙には、あなたとの間に生まれた19歳の息子がいる、と衝撃の告白が書かれている。

モテモテの日々を送っていたドンには、その相手が、どの元カノだったか思い出せない。そこで、記憶に残っている限りの元カノに会いに行く。再会して昔のような関係になる好意的な女性もいるが、まだ自分を好きでいてくれているだろうと思う相手に、こっぴどい仕打ちを受ける。

まあ、だいたい過去などというのは、そんなものだ。

「昔はよかった」などという思い込みはひとりよがりに過ぎず、自分勝手な幻想である。相手にもよるが、びみょうに思い出は食い違っている。

相手と食い違うのは、思い出の話だけではない。現在の悩み、不安、問題についてもいえる。別々の時間や空間を生き、離れていた時間が長くなればなるほど、それぞれが抱えている問題の焦点にズレが生じる。

悲観主義をベースに生きている自分は、現在進行中の問題や不安をたくさん抱えている。しかし、プライベートな課題や不安をまるごと誰かに話すべきものではないという強固な自戒がある。というのは、どれだけ親しくても他人とは分かり合えないと考えているからだ。

他人によいしょっと重荷のような課題を渡しても解決できるものではないし、渡された他人も困る。ほんとうに困っていることは誰にも話せない。笑い話にすらできない。にも関わらず勇気を出して深刻な話題をさらっと打ち明けたとき「ああ、そんなことあるよねー。あるある」などと軽々しく片付けられると腹が立つ。傷つきもする。

そこで他人と会うときには、現在と未来にフォーカスした楽しい話に花を咲かせたい。「いまこれが面白い!」あるいは「未来には、こんなワクワクすることが起こりそうだ!」という話がいい。過去の思い出とか、抱えている課題とか、とりあえずそうした話題は封じるべきだと考えている。

悲観主義がこじれた楽観主義なのかもしれないが、昔から自分には「ここで縁がなくなっても、もっと素晴らしいものにきっと出会える」という根拠のない自信があった。その反面、手放したら二度と会うことがないと感じたものに対する執着も強かったので、わけがわからないのだが、最近は執着する体力がなくなりつつある。もはやどうでもいい。

したがって、過去の遺物を可能な限り減らし、来るものはてきとうに拒みつつ快適なものだけ最小限に残すという、アバウトな自然主義を貫くことにしている。

3月が終わり、4月が始まろうとしている時期、いろいろなものを捨て始めた。最大の感謝とともに過去を葬り、ようこそ未来!と新たな春を迎えるためのキャンペーン期間を絶賛進行中だ。

やがて来る春は厳しい季節なのかもしれないが、きれいに終わらせることが、さわやかに新しい何かを始めるためには大切である。

ところが、過去の遺物があまりにも多すぎて、途方に暮れている。

がらくたは大量に発掘されるのだが、ほんとうに大切なものがみつからない。大切なものみつける? 過去にこだわらないはずではなかったのか。そもそも過去に何を求めているのか。過去を片付けながら、得体の知れない悲しさが漂う。

たとえるなら、谷川俊太郎さんの次のような詩の心境だ。

あの青い空の波の音が聞こえるあたりに
何かとんでもないおとし物を
僕はしてきてしまったらしい

透明な過去の駅で
遺失物係の前に立ったら
僕は余計に悲しくなってしまった

『二十億光年の孤独』より『かなしみ』

春は、悲しい。何が悲しいのかさえ分からないのが悲しい。

2024.03.26 BW


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