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たったひとりに届けたいなら、手紙を書けばいいと思う。

何かを表現することは、根本的に気持ち悪いことだと考えている。文章はもちろん、音楽もそう。気持ち悪さを自覚することが表現者としては大切ではないだろうか。

だって、そうでしょう。人間はクリエイティブな表現なんかしなくても、ただ生きていれば十分である。生きている存在自体が表現だ。なのに誰かに分かってもらおうとか、自分の表現したもので何かを与えようとか救済しようとか、十分をわきまえない他者への要求は、総じておこがましいことだ。

そのひとの存在は、現実世界のいまそこにいるだけで、かけがえのない価値がある。個性のない人間なんていない。生まれてきただけでユニークだ。そして人間の価値は分かるひとには分かるだろうし、分からないひとには分からない。それでいいじゃないか。

「分かってもらいたい」「届いてほしい」などというのは押しつけがましい。他者に要求する時点で甘えていると思う。というよりもストレートにいえばSNSの表現に関しては「(分からなくてもいいから)スキをぽちっと押して評価してね」「(届かなくても構わないから)kindle書籍を買ってね」がホンネだろう。

分かってもらえること、誰かに届いて伝わることは、基本的に読者の問題だ。読者の問題にまで関与するのは書き手の傲慢である。純粋に文章が好きで書きたいひとは、分かってもらえなくても届かなくても書く。なぜなら、書きたいからだ。シンプルでまっすぐな動機こそが尊い。

あらゆるSNSは気持ち悪いと思っていたが、noter(なんですかそれは)などと自称する人々の文章にうすら寒いものを感じている。といっても、その気持ち悪いプラットフォームを使っている自分も、気持ち悪い仲間たちのひとりです。他人のことはいえませんね。気持ち悪くてすみません。

失恋のあまりSNSを書き始めるひとがいてもいい。しかし、全世界に向けて怨念を発信する人間が文章術を語るとすれば、どんなものだろう。個人的には読みたくない。何よりもスタート地点がそこじゃない気がする。

まず、しっかり自分のリアルに向き合うことから始める。それが大切ではないのだろうか?

失恋した相手に恨みがあるのなら、SNSにコラムなど書いている場合ではない。顔の見えない不特定多数のフォロワーを獲得して、スキをたくさんもらって何になるのか。そんなことよりリアルの自分を内面と外面の両方から磨き、とっとと新しい誰かを好きになったほうがよほどいい。

こそこそ文章を書いて、裏切られた誰かに復讐しても何にもならない。いちばん認めてほしい大切なひとには認められずに、不特定多数に認められたとしても、人生の姿勢として痛すぎる。そんな目的で文章の技術を磨いているなら、書き手として「文章に失礼」だと思う。

ところで、たくさんフォロワーや評価を獲得しているひとが「届かなくてもいい」と語っている場合もある。

いやいや、そんなことまったく思ってないでしょ?と白々しい。「書き続けることが大事なんですよね!」という読者からの共感を得て、自分の評価を高めるあざとい手口にみえる。まあ、その手口に騙されてフォロワーや評価が多いのだろうけれど。

「評価なんてどうでもいいんだけどね」と書きながら、アクセス解析の結果を公開している方々もどうだろう。

一時期、年収を公開する投稿がSNSで盛んになった。胡散臭いひとたちの投稿で賑やかだった。年収の公開もアクセス解析の結果の公開にしても「露出趣味の一種ではないか?」と考えている。

たとえば、自分の体重を公開するだろうか?

もちろんダイエットにあたって、見せしめというか自分の気を引き締めるために毎日の体重を公開するひともいる。ただ、記録は自分の目安になれば十分だ。ぜんぜん改善が見られないデータを公開しているのは恥ずかしい。自分の首を絞めて自己嫌悪を促進するだけの効果しかない。

歩数、血圧、体温を記録していたとしても、公開する必要はない。公開されたものを読んでもつまらないだろう。もしかすると役立つ奇特なひとがいるかもしれないが「私の体温と体重データ、ひとりでもいいからSNSの誰かに届いてほしいの!」と言われても困る。届いてどうすれば?

アクセス解析のデータは、自分の指標を得るためにある。

そもそもSNSの解析ツールは、企業が自社サイトを分析するログ解析のためにあった。ビジネスにおいて解析結果は、一般公開すべきものではなかった。もちろんページビューが大きくなれば公開して信頼(というよりも顧客)を得ようとしたし、メディアであれば広告出稿のクライアントを獲得するための媒体資料として訪問者の統計データを公開した。

ただ、多くのふつうの企業にとって、ログ解析の結果は自社コンテンツの改善に使う指標である。場合によっては機密データとして扱われていた。ところがアクセス解析が簡単にできるようになり、SNSに機能が搭載されると、なぜか自己表現の一部になってしまった。

プライベートな記事も同様だと考えている。紙であろうがデジタルであろうが、クローズドな日記に書けば済む。遠い昔に掲示板では「チラシの裏に書いておけ」というスラングがあったが、いまやチラシの裏ばかりがSNSのオモテになってしまった。

なんでもかんでもSNSで公開すればよいものではない。公開すべきことと公開しないものを見極めることが、大人の分別やふるまいとして大切ではないだろうか。

このまま露出趣味が進展すると、いずれ未来には自分のDNAをSNSで公開するようになるかもしれない。

SNSで公開する以上、不特定多数に読まれることを前提としている。誰も読まないだろうと思っていたものが注目される場合があれば、多くのひとに読んでほしいものが誰ひとりとして読まれなかったりする。

もし、たったひとりに届けばいいと思っているなら、手紙を書けばいい。

できればメールではなく便箋を使って書く。手書きなら最高だ。デジタルではないからコピペができないため、何度も紙を無駄にするかもしれない。だからこそ手書きの手紙には価値がある。

そうやって、ていねいに書いた手紙であれば必ず誰かに届く。ただし届いたとしても「こんなものもらって、私が喜ぶとでも思った?」とゴミ箱に破り捨てられることもある。それはそれで仕方がない。

コミュニケーションとは、そういうものだ。届いてほしいものは案外、届かない。それでも書き続けるのは書きたいからだ。書くための理由はそれで十分である。

2024.03.04 BW


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