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ハルキ文学から考える文章作法。

村上春樹さんのデビュー作『風の歌を聴け』は、文章を書くことについて考えさせられる小説のひとつだ。というのは、冒頭の一行目から文章に関する考え方が書かれているからである。こんな風に始まる。

「完璧な文章などといったものは存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね」

『風の歌を聴け』村上春樹著、講談社文庫

この冒頭の一文は、小説内の「僕」が大学生の頃に知り合った作家の言葉として書かれている。完璧な絶望とは何だ?と思うのだが、禅問答のような比喩が村上春樹さんの小説の魅力でもある。

自分なりの考察をすると、文章を書くことは現実の一部を切り取って言葉にすることであり、書かれた文章の向こうには書かれなかったものが存在する。言葉の選択は自分の体験や考えによって偏向する。

したがって、いつだって文章は考えていることや現実世界に対して不完全だ。原稿を完全に黒く塗りつぶそうとしても、余白や欠落部分が生まれる。比喩であるとともに、書く作業の現実でもある。

絶望もまた同様である。暗い絶望のなかには、わずかな明るい希望が混在する。すべて黒く塗りつぶすのは難しい。場合によっては、グラデーションや焦点がぼけた部分もある。

これが文章と絶望に「完璧」が存在しないことを意味するのだろう。物語の主人公である「僕」は、象について何かを書くことはできるが、象使いのことは書けないというジレンマに8年間も悩み続ける。

そして「文章を書くことは自己療養の手段ではなく、自己療養へのささやかな試みにしか過ぎない」という諦めのもとに、いつか「救済された自分を発見する」望みを抱く。何十年先になるか分からないが、文章を書くことによって自分が救済される未来には「象は平原に還り僕はより美しい言葉で世界を語り始める」と夢想する。

なんという詩的で素晴らしい小説の始まりだろう。

あらためて精読しながら、ためいきが出た。この本を初めて読了したのは学生の頃だったが、かっこよさだけに惹かれていた気がする。いま読み直して、村上春樹さんの見事な文章表現に打ちのめされた。

「療養」という言葉は、こころを病んで東京から離れた地方で療養する直子が登場する長編『ノルウェイの森』を連想させる。また象に関しては、飼育係が象とともに消えてしまう不可解な日常を描いた『象の消滅』という短編にもつながる。伏線とは言わないだろうが、デビュー作において別の作品に発展する種が蒔かれている。

『象の消滅』は、2013年にNHKラジオの『英語で読む村上春樹』で取り上げられたことがあった。ジェイ・ルービンさんの英訳をもとに沼野充義さんが解説した興味深い番組だった。いまもテキストをすべて大切に持っているが、英語で読むとまた雰囲気が変わる。

それにしても、デビュー作の冒頭に既に象が登場していたのか。平原に還る象、飼育係とともに消滅する象は、どれだけ書いても救済されることのない「僕」そして村上春樹さんを象徴しているのかもしれない。

文章が自己療養の手段というのは、とてもよく分かる。しかし、文章を書くという手段を使えば、必ずしも自己が救済されるわけではない。もちろん他者も救済できない。

文章に限らず、自分が他者を救済できるという考えのほとんどが傲慢であると考えている。神様ではない限り無理だ。ただし救済できない前提と自覚のもとに、他者を救済しようと試みることは可能であり価値がある。

愛した大切な女性を救済できなかったつらさを描いた小説が『ノルウェイの森』といえるだろう。遠く離れた場所で療養する直子を思いつつ、父親の位牌の前で裸になって脚を開くような、奔放でめちゃめちゃな言動の緑に惹かれていく姿が痛々しい。若い頃に読んだときには無責任な印象があったが、こころの機微を描いている。

『風の歌を聴け』の「自己療養へのささやかな試みにしか過ぎない」という指摘も繊細かつ誠実な表現だ。文章を創作する立場から思い上がらず文章を侮らず、ていねいに考え抜かれた一文だと感じる。

『風の歌を聴け』の冒頭に戻ると、象の話が終わるとデレク・ハートフィールドという作家の人生と作品が語られる。「僕」が文章についての多くを学んだという作家だ。

実は今回再読するまで、ふむふむ、そういう作家がいたのだね、とすんなり信じていた。ところが検索して調べて、デレク・ハートフィールドなどという作家は実在しないことを知った。村上春樹さんの創作だったのである。えっ、そうだったのか!すっかり騙されていた。

あらためて凄すぎる。やられたという心地よい敗北感。何年も騙され続けた自分がとても悔しい。小説をぼんやり読んでいてはいけない。書かれている言葉のすべてを検索して、事実をチェックすべきかもしれない。そんなことをしていたら、本を一冊も読めなくなりそうだけれど。

外部に開かれたコンテクスト(文脈としての背景のつながり)は、音楽に喩えるなら小説のハーモニーといえるだろう。小説のメロディともいえる物語の筋、時系列によるプロットの展開に空間的な幅を拡げる。小説は文字面だけ追っていてはだめだ。ほんとうに大切なことは、目には見えない。

デレク・ハートフィールドつまり実在しない作家は、よい文章について次のように語っている。存在しない書物でありながら、年度が明記されていることにリアリティがある。

「文章をかくという作業は、とりもなおさず自分と自分をとりまく事物との距離を確認することである。必要なものは感性ではなく、ものさし・・・・ だ。」(「気分が良くて何が悪い?」1936年)

『風の歌を聴け』村上春樹著、講談社文庫

小説を書くときには、自分を捨て去ったとき、はじめて物語として生き生きとした文章が書けるのではないだろうか。

距離が近すぎると、自分語りになってしまう。作者の思惑がまとわりつき、個人臭がきつくなる。読書と同じように、書くときにも他者の人生を物語として生きる必要がある。その適度な距離感があってこそ、逆に生き生きとした小説になる。読者も安心して物語世界に入り込める。

『風の歌を聴け』の「僕」は「ものさし」を意識して、自分の周囲のものを捨て続けた。結果として「僕を焼いたあとには骨ひとつ残りはすまい」という状態になった。さらにノートに得たものと失ったものを整理する。書き出した「リスト」は記号の羅列であって、ものさしで「深さ」つまり内容の価値を測定できるものではなかった。

この流れの後に読者に対して「もしあなたが芸術や文学を求めているならギリシャ人の書いたものを読めばいい。真の芸術が生み出されるには奴隷制度が必要不可欠だからだ」と述べて、次のように締めくくる。

 夜中の3時に寝静まった台所を漁るような人間には、それだけの文章しか書くことができない。
 そして、それが僕だ。

『風の歌を聴け』村上春樹著、講談社文庫

この諦観の切れ味。クールな突き放し方が初期の頃の村上春樹さんの小説の特長だ。若い頃にはめちゃめちゃ魅力を感じた。

誠実ともいえるし、自虐による開き直りのずるさもある。アメリカの小説風でもあり、ビーチ・ボーイズのサーフミュージックのように文体から乾いた風が吹く。

しかし、こうしたことを言い切ってしまえるのは、1970年代から1980年代の時代の空気に支えられていると感じた。21世紀のコンテクストで書くならば「夜中の3時に台所を漁るような人間は、noteを書いて稼ぐしかない」になりそうだ。もはや文学的な余裕はこれっぽっちもない。ほんものの文学をやろうとするならば、奴隷を雇うしかない。

ところで『風の歌を聴け』の中で「僕」は彼女から「嘘つき!」と言われる。ボールドの書体になって強調されている。

何かを書こうとすれば嘘になるし、誰かを喜ばせようとしてついてしまう嘘もある。取り返しがつかなくなって、嘘が嘘を呼ぶ。

先日読み終えた、森絵都さんの『アーモンド入りチョコレートのワルツ』に収録されている『彼女のアリア』には、虚言癖のある女の子が描かれている。嘘はいけないことではあるが、自分を含めて誰かを救済しようとするためについてしまう嘘もある。その嘘が重なって止まらなくなる。

文章もまた、現実を完全に再現できない上では、どれだけ誠実に書こうとしても嘘になってしまうものだ。ただ、実用的な文章はともかく、小説に関していえば完璧に騙されるぐらいの嘘が心地よい。デレク・ハートフィールドの存在にやられたように。

想像あるいは創造による人物の言葉であったとしても、それが文章になったとき、それは現実の一部といえないだろうか。

物語には、そして文章を書く行為には、もうひとつの現実を作るチカラがある。たとえそれが嘘であったとしても、すんなり騙されてみたい。心地よく騙される文章が、うまい文章である。

2024.03.19 BW



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