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現実を変えるかもしれない、フィクションの行方。

人間の考えることは既に現実の一部であり、人類は「想像力」を「創造力」に変えて世界を革新し続けてきた。だから、ファンタジーやSFの世界をあなどってはいけないと思う。作品に描かれた世界がフィクションであっても、いつか遠い未来には現実になるかもしれない。

シリコンバレーのスタートアップで活躍した人々は、スターウォーズ・フリークスが多かったということをどこかで読んだ。ウイリアム・ギブスンのSF小説『ニューロマンサー』は、VRなどのテクノロジに影響を与えたといわれる。まだ読んでいないけれど。

SFの名作で読んでいない作品が多い。そんな名作を攻略しようと考え、フィリップ・K・ディックの『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』を読了したところだ。『ブレードランナー』の原作として遠い昔に購入した文庫だが、冒頭がごちゃごちゃしていて読み進められなかった。積読というよりも本棚に放置されて、なかば置物になっていた。

なぜ再び読もうと思ったかといえば、森博嗣さんのWシリーズ1作目『彼女は一人で歩くのか?』のエピグラフに取り上げられていたからだ。ちなみにエピグラフは、小説の最初や章のはじめに記される短い引用をいう。

森博嗣さんの作品には、人工生命体ウォーカロンが登場する。主人公は、人間とウォーカロンを識別するための研究を続けている博士である。

『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』に登場するリック・デッカードは、火星から逃亡したネクサス6型というアンドロイドを狩る懸賞金バウンティ ハンターだ。人間とアンドロイドを識別するには、フォークト・カンプフ検査装置を使う。しかし、レイチェルというアンドロイドと恋に落ちる。

人間と人工物を分けるものは何か?というテーマは、フィリップ・K・ディックの作品から森博嗣さんの作品に引き継がれていると感じた。『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』は1968年の作品だから、未来観にレトロな印象がある。一方で森博嗣さんのWシリーズは、人工知能やネットワーク上に介在する知能が描かれている点で、いまのリアルに近い。

とはいうものの『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』が、めちゃめちゃ面白かった!

物語は第三次大戦後の世界。放射能によって荒廃した世界では、動物を飼うことがステイタスになっている。貧困な人間は電気羊のようなアンドロイドの模造生物を飼い、裕福な人間は本物のヤギなどを飼う。絶滅した動物も多く、昆虫すら珍しい。この設定がうまい。

動物を殺すこと/人工物であるアンドロイドを殺すこと/人間を殺すことの違いを考えさせられた。感情移入できるのが人間であり、デッカードは相手を殺めるときに悩む。ところが、ネクサス6型アンドロイドは感情移入ができないために容赦ない。

感情と身体性の問題は、AI時代のいま、とても重要ではないかと考えた。人工知能は確かに賢いのだけれど、人間ではない。壁打ちの相手としては便利だが、相棒として握手するには物足りない。あんぜなら、身体と感情がないからだ。

ちょっと脇道に逸れると、コミックスの『葬送のフリーレン』を読んでいて「魔物は人工知能に似ているな」と思った。

断頭台のアウラ、黄金郷のマハトのあたりで感じたのだけれど、どこが似ているかといえば「人間と同じような言葉を使うが、感情を理解しているわけではない」ところだ。

フリーレンで描かれる魔物は、人間を捕食するために言葉を操る。人間を油断させて喰らうために相手に訴える。したがって、人間と魔物は分かり合うことができない。

「助けて」とか「お母さん」とか、人間のこころを揺さぶる言葉を使うのだが、魔物にはそれが何だか分からない。外側だけあって中身の内容がない言葉だ。そういう言葉を使えば人間が意のままになるという理由から、言葉を使って罠にかける。

人工知能も基本的には、過去のテキストから機械学習をして言葉を使う。だから当然のことながら、その言葉には意味内容が存在しない。対話にみえるのは統計的な演算処理であり、感情や身体があるかように感じられるのは、受け取る人間のほうが感情移入をしているからだ。

生成AIが表現したすべてに対して、このことがいえる。どんなに完成度の高いイラストや動画や音楽を生成しても、その背景に感情や制作のプロセスはない。大切にしたい思い出もなければ身体感覚もない。あるように見えるのは、受け止める人間のこころが「動く」からである。

ということを考えていて、感情を排除した言葉で他人を操ろうとするのはAIに限らないかもしれないと思った。

狡猾なマーケターや巧妙な詐欺師の言葉にも、そういう言葉がありそうだ。買ってもらう、いいね!をもらう、お金を巻き上げる、相手を論破する、SEOの上位を狙う。そんな目的達成だけに表層的な言葉を操るのであれば、人間は魔物と変わらない。

機械化した人間による末路を描いたディストピア小説も多い。人類の選択によっては起こり得るかもしれない未来像であり、描かれた物語のような現実が実現する可能性がある。

SF小説であれば読み終わって本を閉じればおしまいだが、現実は閉じられない。だから、フィクションから学ぶことに意義がある。楽しかっただけでは終わらせられない何かを感じる。

閑話休題。

現実世界がSFやファンタジーの世界に近づいてきたな、ということを考えていたら、遠い昔に自分が作った曲を思い出した。『輝きのアリカ』という曲であり、もともと音楽にするつもりはなかった。SF小説として完成させたかった。

書くことができなかった小説のあらすじは、こんな感じだった。

仲のいい小学生の男の子がふたり。ひとりは数学が得意な少年で、もうひとりは文章を書くのが得意な少年。ふたりは校庭の隅にあるプラタナスの木陰で「21世紀はこんな風になるんじゃないか?こんなだといいよね!」と空想しながら、ノートに未来予想図を書き留めていた。

6年生の夏休み、そのうちのひとりがフロリダに旅行に行くことになった。飛行機に乗って飛び立つ彼を見送るのだが、どういうわけか旅行中に飛行機が消息を絶ってしまう。事故ではなく、残骸はどこにもみつからない。まるで空に飲み込まれたように、友達の乗った飛行機は消えてしまった。数学の得意な少年を喪失感が襲う。

残された男の子は、ノートを大切に保管しながら大人になる。科学者の道を選ぶ。といっても不眠症の科学者で、眠れない夜には祈りを捧げている。ある偶然から友達が消えた謎に関するヒントに気付き、時間と空間を超えるテクノロジを開発する。その完成とともに、彼は旅立つのだが・・・・・・。

Bw

小説にならなかった音楽がこちらになります。

2024.05.01 Bw


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