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聲(こえ)を失くした日々。※追記2本

早すぎる夏風邪なのか、喉を痛めて声が出なくなって1週間以上が過ぎた。声が出なくても何も問題ないだろうと軽く考えていたのだが、これほどまでに絶望感を募らせるものだったのか。甘かった。

声が出ないと、まず仕事ができない。あらゆる仕事や解決すべき課題が詰んだ。次にコンビニ、スーパー、さらにドラッグストアで買い物をするときに困る。さりげない買い物にも関わらず、レジに並ぶのがユウウツになる。

ドラッグストアは、風邪ひきたちの応対をするから親切だろうと思えば、大間違いだった。「は?(聞こえませんけど?)」と促されて、ビニール袋が要らないこと、ポイントカードを持っていないことを伝えるためだけに、ひゅうひゅう息をして手話みたいなジェスチャーをしなければならなくて閉口した。もうちょっと気付けよ、気遣えよ、と思った。

ちなみに、ムリにしゃべらせようとする傾向があるのは、おばちゃんの店員さんに多いようだ。若い店員さんは察してくれる。自分の住んでいる地域に、いじわるなおばちゃんが過密なだけかもしれない。もっと無人店舗が増えればいいのに。

思い起こせば、喉に痛みを感じたのは2日の火曜日のことだ。エアコンの冷房の風にやられたかな、まあ大丈夫だろうとタカをくくって激務をこなしたところ、5日の金曜日を迎えたところで、ぱたっと声が途切れた。電池が切れたように話せなくなった。しゃべろうとしても、ひゅうひゅう息が出るだけである。

七夕の日曜日には38度を超える熱が出た。気温よりちょっと高めだ。真夏日にも関わらず寒気がして、冷房をかけながら冬用の長袖パーカーと長ズボンという季節感のない状態で過ごしていたが、おっと今日は都知事選挙ではありませんか。ということで投票に出かけた。結果、東京は何も変わらなかった。寝ていればよかった。

月曜日は、迷わず通院した。まず行きつけの医院に行ったのだが、入口に「発熱外来はお断りします」と書かれていた。そうだった。そういう病院だった。無理だろうなあと思いつつ受付に立ったところ、案の定、ていねいにお断りされた。壁の向こうには先生がいるのに拒絶感がはなはだしい。

いったん家に戻り、スマホで近所の病院を「発熱 診察」で検索して、評価が高そうな病院をチョイスして電話をかけた。ところが、電話の声がうまく伝わらない。予約が必要になる病院も多く、とにかく近い場所かつ予約なしで診察可能なクリニックに足を運んだ。

ひゅうひゅう言いながら初診の受付を済ませ、汗びっしょりになって丸い椅子に座っていると誰かの忘れ物をみつけた。ひゅうひゅう手振りで看護師さんに渡して、ウォーターサーバーから水を飲もうとしたけれど、水の出し方が分からなかった。断念した。しばらくすると、和やかなおばあちゃんがやってきて、忘れ物を持っていった。よかった。安堵した。

抗原検査の結果、コロナとインフルエンザは陰性だった。ただ、100パーセントの正確さはないそうだ。火曜日にそのことを職場に伝える報告書を書いていたら、くらくらして倒れて動けなくなった。

そんなわけで水曜日には、すべてを諦めた。ひたすら眠り、医師から指示された薬を飲んだ。そうしているうちに、どういうわけか絶望感は薄れていった。というより絶望する元気がなくなった。

なるほど。「絶望を超越する方法は諦めにある」のだな、と。声を失うことによって悟りに至る。

ところで、喉の痛みに耐えて声のことを考えつつ思い出したのは、6月の終わり頃に観た『映画 聲の形』だ。原作は週刊少年マガジンに連載された大今良時さんのコミックス、京都アニメーション制作による映画である。

物語は、高校生の石田将也が飛び降り自殺をしようとして思いとどまるシーンから始まる。

彼は小学校6年生の頃に、西宮硝子という聴覚障害を持った子どもをいじめていた。ところが、彼女に対するいじめを教師が問題として取り上げた後、逆に将也がいじめられるようになる。過去のしがらみから抜け出せず、彼は小学校の卒業後も、中学校、高等学校と孤独に生きる。そんな彼が踏み出そうとする新しい世界と、再会するクラスメイトたちとの関係を描く。

西宮硝子は声が出せないわけではなく、周囲の音が聴こえないことに障がいがある。彼女はノートを持ち歩いていて、筆談で友だちと話そうとする。

いま思ったのだが、声が出せないのなら、彼女と同じようにノートを持って外出して買い物をすればよかった。そうはいうものの少しばかりの勇気が必要だ。周囲の目も気になる。西宮硝子は、そうした環境に幼い頃から身を置いている。

あらためて調べて、幼少時などから言葉を知らないために話せない場合が「ろう」であり、そのほかにも中途失聴や難聴のひとがいることを知った。つまり聞こえないけれど、話ができるひともいる。

聴覚障害と言語障害は密接に関連があるとはいえ、ときには切り離すことが必要かもしれない。障がいというと、まるっと括って考えがちだ。しかし、それぞれの抱える症状や悩みはびみょうに異なる。そのグラデーションや繊細さを健常な人間は理解しにくい。

『映画 聲の形』から離れるのだが、場面緘黙(ばめんかんもく)という症状もある。家ではふつうに話せるのに、学校や職場のような特定の場所で話せなくなってしまう。話せないのではなく、話したいのに身体が言うことをきかない。言葉が出てこない。

風邪をひいて声の出ない状態になって、熱でぼんやりとしたアタマを横たえながら、障がいについて思いをめぐらせた。世界が違って見える。しかし、おそらく風邪が治ってしまえば、この感覚は消える。

障がいを抱えた方々のことを「分かる」とは言えないだろう。そう簡単に分かるものではないだろうし、たかが喉を痛めて1週間ばかり声が出なくなっただけで、障がいのある方々を分かるというのは、途方もなく傲慢だ。

そうはいうものの、声が出ない状態になって、伝えたい言葉を自由に話して伝えられる日常のありがたさを感じた。大切なことは、なくしたときに初めて気づく。どんなに想像力があったとしても、身体感覚のリアリティにまさるものはない。

うつ病にもいえるかもしれないが、障がいや病気のいちばんツラい状態は、傍目にはふつうに見えるにも関わらず、当たり前のことができないときではないだろうか。明らかにやつれているときは周囲も気づいて労る。ところが、見た目で分からないツラさは、案外誰にも伝わらない。

「聞こえないふりしてるんでしょ」
「しゃべれないふりでしょ」
「ふつう起きられるはずだ。仮病だろ」
「頑張ればできる」などなど。

そんな風に思われているんじゃないかと考えて苦しくなる。苦しさを打ち明けたところで「ああ、分かる。そういうことオレにもよくあるよ」と安易に共感や一般化されてしまう場合もきつい。寄り添ってほしいが、分かってほしくないアンビバレンツ。

きみにできることが、あらゆるひとにできるとは限らないのだ。人間のコミュニケーションは分かってもらえないことがデフォルトであり、分からなさは、永遠に人々のあいだに深い断崖として横たわる。

いまはできたとしても年齢によってできなくなることもある。多様性を受容するとは、例外ばかりの現実をそのまま受けとめることだ。だから難しい。きれいごとでは済ませられない。ステレオタイプの一般論にしてはいけない。現実はもっと具体的であり、まとまりがない。そして過酷。

こんな風にも考えられないだろうか。『映画 聲の形』に登場するキャラクターは、どれも美形である。石田将也はつんつんした髪型ではあるがイケメンだし、耳の聴こえない西宮硝子はふつうに可愛い。ところが、それぞれがブサイクだったとしたら、この作品のように美しい救済で終わることができたのか。疑問が残る。映画だからこそ成立する世界であって、どうしようもなく救いのない現実もあり得る。むしろ現実の多くは救いがない。

しょうもない現実は美化できないし、悲劇のヒーローやヒロインを演じるのは気持ちが悪い。ダメなものはダメであり、ダメを受け止め、ダメをまっとうするしかない。

ところで、「聲」という漢字は、声と「るまた(殳)」と耳で成り立っている。殳は棒で何かを叩く象形文字らしい。その意味から、聲にはもののひびきの意味も持つ。ひびきは空間を震わせ耳へと届く。振動の波が音になる。光もまた波。

人間の声はミニマムな楽器であり、ボイスパーカッションのように打楽器的な音も出せる。さまざまな声が合わさればコーラスになり、より美しく響き合う。

声という楽器も進化しているようだ。最近のDAWでは、レコーディングした音声ファイルを別のシンガーの歌声に変換するSoundID VoiceAIというようなものまで登場している。名探偵コナン君が使う蝶ネクタイ型ヴォイスチェンジャーも現実化するかもしれない。

そんな時代だからこそ、逆に生の歌声が尊い。ちなみに、女性ヴォーカルではウイスパー(ささやき)系のアーティストを好んで聴いていたことがあった。言語でいえば、フランス語はウイスパーに合う気がする。かすれすぎて息しか出ないウイスパーヴォイス状態の自分には、すこしだけ乾いた音が心地よく聴こえる。自分の内側からの声が聴こえないだけに、外側の声に敏感になっているのかもしれない。

エッセイが支離滅裂になってきたが、7月前半の声を失った日々について、とりとめもなく記録しておきたい。

高熱で意識がない状態、身体を垂直にするのが難しい日々には、プライムビデオで映画ばかり観ていた。ざっと列記してみる。

  • 『不思議惑星キン・ザ・ザ』

  • 『犬ヶ島』

  • 『フィッシュストーリー』

  • 『デスノート the Last name』

  • 『デスノート Light up the NEW world』

  • 『L change the WorLd』

  • 『本格科学冒険映画 20世紀少年 第2章 最後の希望』

  • 『本格科学冒険映画 20世紀少年 最終章 ぼくらの旗』

  • 『キングダム2 遥かなる大地へ』

  • 『SHERLOCK』シーズン1+シーズン2+シーズン3+シーズン4

  • 『K-12』(途中まで)

最初はアート的な作品を観ようと思っていたが、そのうちに精神力が続かなくなり、エンターテイメントばかりになった。しかも1作目以降を追いかけていなかった続きものだ。これって観たことがあったかも、という映画もあった。ときには10分観て意識を失い、目覚めて10分という断続的な鑑賞になり、Xに感想を投稿する余裕はなかった。

『フィッシュストーリー』は伊坂幸太郎さん原作の短編集の映画化であり、売れないバンドの同名の曲が時代を超えて地球を救う物語。レコーディングの風景に、どこかジョン・カーニー監督の作品に通じる雰囲気を感じた。斉藤和義さんが音楽を監修されているようであり、シンプルなコード進行のいい曲だった。

映画のなかのバンドは、一発撮りした音源の間奏部分を1分間、無音にする処理を決断する。ビートルズっぽいかもしれない。持っているCDでは、THE ROOTSのアルバムを思い出した。

伊坂幸太郎さんらしい群像劇というか、人物が多様に絡み合うストーリーに魅力がある。映画を観て『週末のフール』に似ているなと思ったのだけれど、実は未読の本だった。読まねば。

『SHERLOCK』はBBC制作のテレビドラマで、かつてシーズン1だけ観て、この続きはないのか?と悶え苦しんだ作品だ。あらためて最初から鑑賞した。ベネディクト・カンバーバッチは不思議な雰囲気のある役者さんだが、21世紀を舞台とした変人のシャーロック・ホームズを見事に演じている。

ただ、個人的に注目したのはワトソンを演じるマーティン・フリーマンだった。ドラマの中の悲劇と誠実な生き方に打たれた。鼻にかかった声が魅力的でもある。

俳優さんたちの声は心地よい。ただ声を出すのと、意識的に声で演じるのはまったく違う。話すという表現を突き詰めていけば、日本語しか話せないのと多言語で話せるのは大違いだ。

多言語で思い出して、かつて凄いなとチェックしていたKazu Languagesの動画をYouTubeで観た。どうすればこんなに多言語を短期間で習得できるのだろう。さっぱり分からないし、自分にはできそうもないが、楽しそうだ。

ようやく文章を書けるまで体調が回復した。話をするよりも文章のほうが饒舌になりがちだ。しかし、こうして言葉を綴ることだって、いつまでできるのか分かったものではない。声が出なくなるように、文章を綴れなくなる日が来るかもしれない。というよりも、必ずそうなる。

とりあえずいま、のど飴にはまっている。ノンシュガーがよい。

2024.07.14 Bw

■追記1

ようやく声を取り戻してきた。高い声は出ないけれど、低い声がサキソフォンなど管楽器系の低音みたいな音色で、ぼうっと出る。それでもまだ通じないようで、買い物に行くと、店員さんから「え?」と言われてツラい。

まったく本を読めなくなってしまい、寝ながら映画を観ている。その後に鑑賞した映画は次の通り。

  • 『96時間』

  • 『96時間/リベンジ』

  • 『96時間/レクイエム』

  • 『ベイビーわるきゅーれ』

  • 『A-X-L/アクセル』

  • 『The Witch/魔女』

  • 『BLEACH 死神代行篇』

  • 『亜人』

『96時間』は、最強の父親が娘を守るために行動を起こすストーリー。暴れ過ぎで後片付けはどうするのか、そりゃあ復讐されるだろうなあと思った。

『ベイビーわるきゅーれ』はニート女子の殺し屋ふたりが主人公なのだけれど、後片付けの処理をする人が「いつも言っているじゃないですか。頭を打つのはやめてくださいよ」などとイライラしながら始末の伝票を切る場面がよかった。とぼけたふたりが繰り広げるアクションがかっこいい。続編があるらしい。観たい。

あまりにもエグそうな雰囲気だったので、以前に冒頭をちょっと観てやめていた映画が『The Witch/魔女』。ゆで卵をほおばる無邪気な顔と、一転して人間の能力をはるかに超えた力を発揮して血まみれになって戦うシーン、狂気に満ちた笑顔に圧倒された。二転三転するストーリーで、知能犯のジャユンが怖い。こちらも続編があるらしい。

『A-X-L/アクセル』は、オフロードバイク好きの青年が軍用犬ロボットと仲良くなり、軍や開発者の追っ手から逃走する。ネタバレになるので書かないが、なるほど、こういう再生もあったか、とラストで思った。再生という意味では『亜人』のラストにも通じる。

実写映画の『BLEACH 死神代行篇』と『亜人』は、ともにコミックスが原作。『亜人』は読んだことがあるけれど、『BLEACH』は読んだことがなかった。黒崎一護の役は山崎賢人さんかな?と思ったら、福士蒼汰さんだった。仮面ライダーにも出演されているらしい。超絶的なイケメン。

全体的に、拳銃を打ちまくって血まみれになる映画ばかり観ていた。実は暴力的な映画は、あまり好みではない。おそらく体調不調でぼんやりしていたので、てきとうな刺激が欲しかったのかもしれない。

ノンシュガーの飴を1日一袋ほど消費している。飴なめすぎ。

2024.07.20 Bw

■追記2

やっと声が出るようになった。実に3週間ぶりの復活になる。といってもハスキーな状態で、かきくけこが発音しにくい。

ちなみに前回の追記後に、なんだかお腹がごろごろしてゆるくなるな、と困った。もしや?と、のど飴の袋を確認したところ、体質や体調によってはお腹がゆるくなりますよ、と注意書きがあった。ひとふくろを1日でコンプリートしていれば、そりゃあ腹も壊れるだろう。飴をやめたところ、すっかり治った。のど飴をなめては(あなどっては)いけない。といっても、飴はなめるものだけれど。

今月は本を読む元気がないので、映画ばかり観ている。本つまり活字を読むには精神力と体力が必要だ。それでは映画を観るのに精神力と体力は必要ないのか?といえばそんなことはない。とはいうものの映画は寝ながら観ることができるし、辛くなったらやめられればいいから、自宅シアターは楽ちんである。もちろん劇場に足を運んで観る迫力にはかなわない。

映画鑑賞用の端末は、Fire HD 8(第10世代)のタブレットを使っている。100均ショップで、くねくね曲がるタブレットホルダーを買って、サイドテーブルに固定して使っていた。ところが、あまりに駆使し過ぎてくねくねとタブレットの接続部分が壊れた。ロボットアームみたいな頑丈な機材がほしい。Amazonで探しているのだけれど、買いそびれている。

追記1以降には、こんな映画を観た。

  • 『ダンケルク』

  • 『オデッセイ』

  • 『クローバーフィールド/HAKAISHA』

  • 『ボーダーライン』

  • 『シグナル』

  • 『シェイプ・オブ・ウォーター』

  • 『サリュート7』

洋画ばかり、戦争、麻薬捜査、宇宙が2本、ファンタジーやSFものといった作品である。

このエッセイでは声をテーマに書き始めたので、声が関連する作品を挙げると『シェイプ・オブ・ウォーター』がある。幼い頃に声帯を傷つけられて声が出なくなり、手話で話をするイライザという女性が主人公だ。

1962年のアメリカが舞台であり、フォードの自動車など、当時の風景がノスタルジックな色彩で描かれる。イライザは掃除の仕事をしているのだが、働いている研究所に、アマゾンで発見された生物が運び込まれる。要するに半魚人なのだけれど、発見された場所では、神として崇められている。どうやら男性らしいのだが、その半魚人にイライザは恋をする。そして彼を助けようとして、こっそり自宅に運び出すのだが・・・・・・。

エグいというかグロい映像もあり、ちょっと目を背けたりしたのだけれど、水中でふたりが抱き合うシーンが幻想的で美しかった。美女と野獣的な対比といえそうだ。

『シェイプ・オブ・ウォーター』はギレルモ・デル・トロ監督の作品であり、この監督の映画は初めてかなと思ったのだけれど『パシフィック・リム』を観た気がする。次は『ナイトメア・アリー』を観たい。

続いて「グロい」という言葉で関連する映画を挙げるなら『ボーダーライン』だ。最初のシーン、麻薬捜査に踏み込んだ家には、壁にも床下にも人質の腐った死体が埋められている。以前ここまで観て、気分が悪くなって中断してしまった。あらためて鑑賞に挑戦した。

その後にもグロいシーンが満載なのだけれど、いちばんグロいのはモノというより敵か味方か分からない腐敗した社会だろう。警官は買収され、誰も信用できない。その腐敗具合は死体よりひどい。

「人間ではない何か」という点から共通する作品といえば『クローバー・フィールド/HAKAISHA』が面白かった。

海から得体のしれない巨大な何かが現れて、突如としてニューヨークの街を破壊し始める。副社長として日本に赴任が決まったロブの送別会が中断され、めちゃめちゃになる。仲間たちと地下鉄のトンネルに逃げるのだが、そこにも何かがいる。ここに現れる生き物もグロい。

この作品は、ビデオカメラで撮影した映像として展開する。騒動の後で瓦礫のなかから発見されたビデオを再生している設定であり、架空のドキュメンタリー形式だ。この設定が臨場感に溢れていて迫力があった。

ロブと彼女のプライベートを撮影したビデオの上に上書きされていて、ぐわんぐわん手振れのために揺れる逃げ惑う人々の光景に、消去されなかったデートのシーンが挿入される。阿鼻叫喚の世界から一転して、のんびりとした平和な風景になる。この演出がうまい。

ビデオを撮影しているハッド(ハドソン)は、空気を読めない発言をしたり臆病を丸出しにして声が裏返ったり、なかなか苦笑ものなのだけれど、壊滅的な状況においては逆にリアルだと感じた。

ビデオ撮影なので巨大な何ものかが見えたり隠れたりして、なかなか全貌が見えない。ビルが倒壊し、戦闘機がミサイルを撃ち込み、機関銃を打ちまくる戦闘シーンが、撮影者の主観からそのまま描かれる。いったいどのようにして撮影したのだろう。CGやVFXを駆使していると思うのだけれど、まったくふつうのビデオのようであり、客観的な映像のSF映画より凄いと感じた。

次に、怪物は出てこないけれどサバイバルものの映画としては、宇宙を描いたリドリースコット監督の『オデッセイ』、ロシアの実話をもとにした『サリュート7』がある。『サリュート7』についてはXで感想を書いた。

『オデッセイ』は火星に取り残された植物学者が、自力でイモを栽培するなどして生き残る物語である。主人公のマークをマット・デイモンが演じる。

誰もいない荒涼とした火星にひとりぼっちで生きるのは、考えただけでも寂しい。しかし、食料や酸素を切り詰めたり、残された装置を修理や改良して通信機を自作したり、生きることを諦めない知恵と努力に感銘を受けた。何もない、もうだめだ、どうせムリだ、と考えるのは容易い。しかし、地球に生還することを諦めない姿がたのもしい。

ここ数日で鑑賞した映画は全体的に洋画が主体だったが、いま日本の作品も観ようと思い、いろいろ探して発見したのが『バイバイ、ブラックバード』だ。WOW WOWで放送されたテレビドラマであり、原作は伊坂幸太郎さん。初めて読んだ伊坂幸太郎さんの小説がこれだったので、おおっアレが映像化されていたのか、と注目した。

物語は、5人の女性と5股で付き合っていて借金で首が回らなくなった星野くんが、ガタイの大きい謎の女性、繭美と結婚を決めて、すべての女性ときっぱり別れるために5人のひとりひとりに会いに行く。別れの挨拶が終わったら、星野くんは謎のバスでどこかへ連れ去られてしまう。

謎の女性は誰が演じるのかな?と思ったら、城田優さんが女装して金髪のかつらを被って登場した。背が高く、なんとなくロシアの危ない組織の人のように見える。ぴったりのキャストかもしれない。演技もうまい。

それにしても映画三昧の7月だった。もうすぐ7月が終わる。

2024.07.27 Bw


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