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中原中也ー「一つのメルヘン」と世界の開け

中原中也「一つのメルヘン」
小林秀雄が最も美しい遺品だと賞賛し、大岡昇平が異教的な天地創造神話だと評した、美しくも優しい永訣歌。この作品は、一つの哲学である。それを「一つのメルヘン」で語ってしまうところに中原中也のすごさがある。

秋の夜は、はるかの彼方に、
小石ばかりの、河原があって、
それに陽は、さらさらと
さらさらと 射してゐるのでありました。

 陽といっても、まるで珪石か何かのやうで、
非常な個体の粉末のやうで、
さればこそ、さらさらと
かすかな音を立ててもゐるのでした。

 さて小石の上に、今しも一つの蝶がとまり、
淡い、それでゐてくつきりとした
影をおとしてゐるのでした。 

やがてその蝶がみえなくなると、 いつのまにか、
今迄流れてもゐなかった川床に、水は
さらさらと、さらさらと流れてゐるのでありました・・・・・

 なぜ、この詩が哲学なのか。その前に、まずこの詩を中也が書いた
背景をみてみよう。彼は、小学校に上がる年齢くらいの時に、弟
を亡くしている。そして、放蕩の限りを尽くして、24歳でやっと
現・東京外国語大学に入学した年(1931年)に、また一人弟を
亡くす。この詩は、その弟の死に接して書いたものである。

この詩は1935年に出版された詩集『山羊の詩』に収められている。
中也は1933年に遠縁の娘と結婚し、翌年に男の子を授かり、文也
という名の息子をそれはそれは可愛がった。だが、詩集が出版された
翌年に文也は小児結核で亡くなる。中也は、葬儀でも最愛の息子の遺体
を抱いて離さなかったそうだ。

同じ年に次男が生まれたが、中也の悲しみは癒えなかったようで、精神
的に不安定な状態に陥る。それどころか、元々、喀血したりして丈夫で
はなかった彼の肉体は、歩行が困難になるまで蝕まれてしまい、急性
脳膜炎で、1937年10月22日にこの世を去る。

若きもの幼きものの死を立て続けに経験し、自らもまた死の淵をさまよ
っていた中也が至った境地、それが「一つのメルヘン」である。

奇しくも、それが愛息への、そして自らの永訣詩となったこの詩。
この詩の眼目は、秋の夜にさらさらと射してゐる陽であろう。それは
月ではなく陽であり、さらさらと音を立てて射してゐるのでる。

不安の無の明るい夜のうちではじめて、存在者そのものの根源的な開示性、すなわち、存在者があるのであって無なのではない、ということが生じる。

(M.ハイデガー『形而上学とは何か』、大江精志郎訳、理想社)

この詩の言葉に、ふとハイデガーの「不安の無の明るい夜」という言葉が
重なった。生死の交錯するあわい。さらさらという音は、永遠へとつながる時間だろうか、、、魂はさらさらという音に導かれゆき、彼岸へと赴く。不安の無がなければ、その明るみにも気づかない。

https://www.street-academy.com/myclass/121225

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