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自己免疫疾患(指定難病)とともに生きる (5) - JANGAN MALU-MALU! Living with an Autoimmune Disease

【私の原点 (1)】

 今回、皮膚筋炎という指定難病の診断を受けてから、自分でも、どうしてこんなに前向きに感じる気持ちがわいてくるのだろう、と考えたとき、今の私を作っている原点ともいえるエピソードがあるので紹介したい。この連載のサブタイトルに入れた、「JANGAN MALU-MALU!(ジャガン・マルマルー)」(インドネシア語で、Don’t be shy!、恥ずかしがらないで、遠慮しないで、の意味)である。
 18歳のころから参加し現在まで私が続けている多言語活動ヒッポファミリークラブで、19歳のときにインドネシア・ジャカルタでのホームステイ交流に参加した体験である。ヒッポファミリークラブでは、赤ちゃんからシニア世代まであらゆる世代の仲間たちが集まって、多言語(世界中の様々な言語)を母語のように自然に楽しく身につける活動をしていて、世界中とのホームステイ交流を盛んに行っている。
 この体験から私が気づいたのは、受け身で外からやってくる楽しさを待つよりも、自分から行動を起こして得る楽しさや喜びの方が格段に大きい、ということであった。それからの私は、常に「JANGAN MALU-MALU!」を胸に、自分から一歩踏み出してなんでもやってみよう、線を引かずに飛び込んでみよう、と思いながら生きてきた。どんなことでも面白く楽しく感じたり、前向きに感じたりできる今の自分につながっているのだと思う。
 その後、国際交流プログラムのコーディネートに従事することを選択し、人材育成・青少年育成に関わることになったのも、この体験が大きな影響を与えていることは間違いない。

【JANGAN MALU-MALU!】

※ 以下の文章は、今から31年前の1993年6月1日に当時20歳の私が書いたものから抜粋し、なるべく当時の原文に忠実に、わずかな修正を加えたものである。(インドネシア語や英語を混ぜた表記には、なるべく日本語を追記した。)


 1992年8月、僕はIndonesiaのJakartaでHomestayをしました。そのときの僕といったら、Indonesiaに行きたいという気もちだけは強かったものの、Bahasa Indonesia(インドネシア語)なんてほとんど知らず、対面式でHost familyと会ったときも、ちょっとBahasa Indonesiaであいさつをして、その後は英語になってしまいました。そのときに、Host familyのFeri(当時23歳)がこんなことを言ってくれたのです。「Homestayは1週間くらいしかないけれど、絶対、帰るころにはすごくBahasa Indonesiaがわかるようにしてあげるよ。みんなでいっぱいBahasa Indonesiaを話してあげるから、とにかくまねをしてごらん。何か言いたいときは、分からなくてもいいから、とにかく口に出してごらん。」僕は、ウンウンとうなずいて話を聞きながら、自分はだまっていました。そのときなんです、初めて「JANGAN MALU-MALU!(ジャガン・マルマルー)」を聞いたのは。そのまま耳を通りぬけてすぐ忘れてしまいましたが、「Don’t be shy!(恥ずかしがらないで、遠慮しないで)」という意味なんだよ、と言ってくれたことは心にのこりました。
 そして、Jakartaでの生活が始まりましたが、はじめはやっぱりBahasa Indonesiaはよく分かりません。ああ、これがBahasa Indonesiaなんだ、と思いながら、Bahasa Indonesiaの波にひたっていました。みんなもいっぱい話しかけてくれるのですが、自分からはなかなか言葉が出てきません。そんなとき、Feriがまた、「JANGAN MALU-MALU!」と言ってくれるのです。僕はもともと無口な方で、日本語でも口数は少なく、友達からは「無駄なことは全然しゃべらない人だね」なんて言われたりしていましたから、静かなのはしょうがないのですが、Orang Indonesia(インドネシア人)のHost familyは、兄弟も多く、みんな冗談が好きで、とにかくずっとべちゃべちゃしゃべっているのです。そして、「静かな人だね。なんで静かなの。JANGAN MALU-MALU!」なんて言うのです。そんな感じで、本当に毎日何回も「JANGAN MALU-MALU!」と言われたわけです。食事のときにも、「Makan banyak!  Makan!(たくさん食べて)」と言うので、「Kenyang!(お腹いっぱい)」と言うと、また「JANGAN MALU-MALU!」と言われました。遠慮してるのはMalu(シャイ)だってことかな、こんなときにも使うんだな、という感じでした。
 そしてあるとき、Feriがこんなことを言ってくれました。「”JANGAN MALU-MALU!” is your keyword!  Don’t forget it!(”JANGAN MALU-MALU!”があなたのキーワードだから忘れないで)」そのときから、僕の心の中に「JANGAN MALU-MALU!」が住みついたような気がします。それからは、いつも「JANGAN MALU-MALU!」を思いながら自分から話してみよう、と心がけました。そして、あっという間に楽しい一週間は過ぎてしまいます。帰るころになって、まだまだ自分の言いたいことはなかなか言えないけれど、もうすっかりBahasa Indonesiaの波には慣れ、まわりのみんなが言っていることは、だいたい分かるような気がしました。「Bahasa Indonesia?うん、分かんないけど、分かっちゃうって感じ」でした。
 日本に帰ってきて、Bahasa Indonesiaを使いたい、もっともっと話してみたい、と思いました。それからは、Indonesiaからの留学生や研修生などに会うとすぐに近寄っていき、話しかけるようになりました。Bahasa Indonesiaで話をするのが、とても楽しかったのです。話しかけると、相手はちょっとびっくりして、「Bisa Bahasa Indonesia?(インドネシア語できるの)」なんて聞いたりして、僕は「Sedikit-sedikit!(少しだけ)」なんて答えます。僕が「Saya belum pandai Bahasa Indonesia.(まだインドネシア語うまくないから)」と言うと、みんなが「Nggak.  Pandai.  Bagus!(そんなことないよ、上手だよ)」なんて言ってくれます。自然に話がすすむのがとても気持ちが良かったです。Bahasa Indonesiaを話したいと思ってから、本当に不思議なくらいOrang Indonesiaの友達が増えました。自分の中にいつも「JANGAN MALU-MALU!」があったからだと思います。
 そんな感じでBahasa Indonesiaを楽しんでいて、Homestayに行ってから4〜5か月たったころのことです。僕の頭の中はBahasa Indonesiaがいっぱいでいつでも頭の中をぐるぐるまわっていました。何か言おうとすると口からはBahasa Indonesiaが出てきてしまったりします。そして、自分の言いたいことを自然にBahasa Indonesiaで口にしている自分に気がつきました。何かものすごく話せるようになった気がしました。でもそれは外国語を話しているようではないのです。Homestayが終わったころは、頭で考えながら話していたような気がするのですが、このときはもうそうではなかったのです。Indonesiaの家族や友達みんなが話してくれたBahasa(言葉)を自分も話している。そんな感じでした。自分では何だかよく分からないけれど、母語みたいに話しているのかなあ、そんなふうに思ったら、何かとてもうれしい気がしました。
 「JANGAN MALU-MALU!」IndonesiaのFeriがくれたこのKeywordは、僕にとって、とっても大切なKeywordです。このKeywordで、自分の心を開け、そしてもしかしたら、みんなの心のとびらを開けるのにも少しは役に立てるのかな、と思いました。
 最近、人と出会うのがとても楽しいのです。いろいろな人に出会い、いろいろな話をして、結局、自分を見つけるということをしているのだろうな、という気がします。


(つづく)

(カバー画像:インドネシアのホストファミリーFeriとその弟妹と一緒に)

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