ポルノグラフィティの逆読み③社会運動との関わり

ポルノグラフィティの欠落について述べたい。

否定的見解の優遇と、脱日常がポルノグラフィティの根幹にあるとし、ポルノグラフィティの存在否定が社会の自由度のリトマス試験紙と述べた。実は社会の自由度に幅をもたせることにより、マイノリティに対して極めて融和的になる。代表的なのが性的マイノリティである。

誤解しないでほしいのは、ポルノグラフィティが旗を振って性的マイノリティを前進させたのではない。ということだ。あくまでもポルノグラフィティはサポートメントに徹している。そもそもポルノグラフィティは社会への挑発であるから「主張なき表現」と言える。ドゥルーズの「器官なき身体」のようなセパレート思考と似ている。もし仮に「主張なき表現」が社会の旗振りをすれば、調子に乗ってアナーキズムへと進む。すると俳優や女優の人権なんぞは否定されて血染めの犯罪的な作品が出てくる。そのカラーが浸透すれば、テロルへと悪化の路をたどり、ポルノグラフィティの存在は完全に市民から抹消される。だから社会への挑戦や新世界への憧景は抱きつつも、敢えて作品に主張は取り入れない。

作品に主張がないために俳優や女優が、ポルノグラフィティにアイデンティーを求めても意味はない。タトゥーを見せびらかしたり、モヒカン頭になることで、完璧に否定される存在となった状態でセックスをして大きく呼吸をする。そこには「こういう人間でも、こうして生きている。だから自分の考えがおかしいとか、気持ち悪いとか言われても、堂々と前を向いて歩こうよ。」というエールがある。挑発も大切なのだが、マイノリティとして否定される自己をもっと貶めることで、傷つく人間のサルベージをしているのだ。

もしポルノグラフィティに参加する俳優や女優に「作品にかけるあなたのイズムはないのか」と問うと、彼らは「そんなのないよ」と答えるだろう。

作品にイズムはない。その世界に生きる自分のことを省察して自分とはなんぞやと、答えが到底出ない問題に悩み、無力感しか生まれないために、アルコールや薬物に手を出す。この魔の手を忌避することができる人間は、自分がやっていることを俯瞰的に見ることができる人間だけだ。彼らは作中にイズムを入れない。イズムは社会運動に向ける。動物愛護や幼児虐待の絶無。違法薬物蔓延の防御。表現の自由の確保。そして人種差別の否定など様々な社会に対する主張を、シュプレヒコールをあげたり、インタビューで語ったり、文筆でくわしく説明したりするなどの行動を取ることで「イズム」の存在を確認する。つまりポルノグラフィティに長くまつわる人間は、自分がどうのこうのでなく、社会のムーブメントに敏感な人間であると言える。そういう彼らがお手伝い役に徹することで、今の社会現象である性的マイノリティーの肯定が、活発化していると思う。

では日本ではどうか。残念ながら携わるものが目指すものは、いかに売れるかという、商業至上主義による結果のみである。サポーテーションに回ったとしても、有名な女優に「差別はなくしましょう」と言わせて唯々諾々で単なる掛け声に終わる。だからいつまでたっても性的マイノリティの運動が盛り上がらず、政府による声掛けも水泡に帰す。そして最大の問題は、アダルトコンテンツの人間が、なぜその運動が必要なのかという重要な部分に触れようとする意識が薄いという点だ。

ポルノグラフィティの欠落は、本当にこの国は民主主義なのかというジャッジメントの能力を減退させ、所詮自分たちが何をやっても無意味だという諦観を是とさせてしまう。結果民主主義のクライシスの助長を許すことになり得る。と言うのは、言い過ぎだろうか。


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