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【第5回】なぜ批評家は批評をするのか

 つい先日、「#RTした人の小説を読みに行く をやってみた」でちょっとしたディスコミニュケーションがあり評を取り下げた。ぼく自身は評について落ち度はないとおもうし、作者さんからも取り下げる必要はないといわれたものの、第三者から「筋違いだから作者に謝れ」とみたいたことをいわれ、あまりの程度の低さにめんどうくさくなってしまった。
 これは企画と応募者のミスマッチで、今後二度とこういうことはないようにしたい。そう考えて簡単な募集要項をつくり(厳格にしすぎて敷居を高くしたくない)、あらかじめこちらの趣旨をご理解いただいた方だけを対象にすることにした。ただ、そもそもが挙手制であるこの企画においてどうしてミスマッチなんてものが発生するのか極めて謎すぎる(40作品取り上げたあとに発生するとさすがにちょっと怒りたくもなる)んだけど、これについて考えたところで何の益もないのでやめておく。

 ともあれ作者とのディスコミニュケーションがあると企画そのものが成立しないのではないか、というアドバイスを受け、募集要項だけでなく批評についての態度についてもTwitter上で明示した。これを簡単にまとめると、「キャラクターの造詣、プロットの是非、文章の読みやすさなどのテクニックについて基本的に言及するつもりはないし、批評はそういうものを指摘する行為でもない。より〝良い〟作品を書くためには作者みずからが批評的な眼を持つ必要がある」みたいな話だ。この話を通して数名の方とやりとりをしたが、ひとつ、こんな質問をいただいた。

質問を予期されているかもしれないと思うのですが笑、作者自身が、良い作品を作ろうという意識のもと「批評的」であることは良いことだと思うんです。自分が気になっているのは、批評家が他者の作品を批評するという行為についてなんですよね。
なぜこんなことをお尋ねするかというと、批評として「玉」であるものと、作者への還元として「玉」であるものってけっこう衝突している気がしているのですね。批評家が優れた批評を書いたとき、それが作者にとっては有益どころか、ダメージにすらなることもあるんじゃないかと思うこともありまして。

 これは非常に興味深く、重要な問題だとおもったが、即答できるものじゃない。質問者にすこし時間をくださいとお願いしてこうして書き起こしてみた。これについて、まず個人的に批評についておもうところをまとめながら、順を追って答えていきたいとおもう。

批評するモチベーション

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