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【#理系の読み方 第3回】小説を「近似」する──〝よくわからない小説〟をどう読むか?

なぜ片付けで夫婦喧嘩が起こるのか?

 我が家は夫婦と子ども3人の5人家族で、妻は会社員をしています。コロナ禍以降、妻の会社でもリモートワークが導入されるようにはなったものの、基本的に出社をする仕事です。そのためほとんど外に出ることのない小説家が家事の多くを引き受けることになるのですが、それにより幾度となく血で血を洗う激しい戦闘が繰り広げられてきました。
 妻のことを少しだけ紹介すると、彼女は〝理系〟です。メーカーで技術職やらなんやらかんやらをしていて、よそのひとから見ると我々ふたりは「いかにも理系」な性格をしている──つまり「似ている」とのことなのですが、ぼくに言わせれば似ているところなどまったくありません。なぜならば、ぼくは数学物理系の理系で、妻は生物化学系の理系だから。またあるいは、ぼくは理論・シミュレーション系の理系で、妻は実験系の理系だからか? とりあえずアメリカとロシアくらい遠いとイメージしてみてください。
 さて話を戻すと、我々は「信条」の相違から幾度となく家事紛争を繰り返しています。開戦¹⁾から10年が過ぎてもなお、食器の片付ける位置や洗濯物の畳み方で意見が衝突します。
 なんとなくわかると思うのですが、ぼくは整理整頓というものが苦手です²⁾。洗い終わった食器を食器棚に戻すとき、特に何も考えず棚に入れていくのですが、妻にとってはそれが許せない。お椀や皿の位置や積み方が元通りでないと厳しく咎められます。しかしぼくは何度言われてもそれを改める気はありません。なぜならば、それはぼくにとって「片付いている」状態だからです。

 なぜこんな誰も幸せになれない口論が起こるのでしょうか?
 ここまで読んだみなさんなら「大滝が完全に悪い」と思ったのではないでしょうか。ぼくはそれに反論しようとは思いません。大事なのはどっちが悪いとかちゃんと片付けろとかではなく、もっと根っこの部分です。つまりぼくと妻で「片付いている状態」の定義が違っているのが本質的な問題³⁾なのです。

1) 進んだ注:結婚ともいう。
2) 整理整頓をがんばる必要性を感じなくて、そんなものに頭を使うくらいならその分を小説を考えることに回したいと思う。
3) すぐに「本質」や「本質的」などの言葉を使う連中を信用してはならない。

近似の問題

 辞書的な意味での「片付く」とは「物が、置いておくのに適当な場所にきちんと納まる。散らかっていた物が整えられた状態になる。」⁴⁾とのことです。そしてこの「適当な場所」というのがぼくは「食器棚のなか」で、妻は「食器棚のなかの特定の位置」だったわけです。つまりどちらも片付いていないわけじゃない。ぼくの「片付け」は「グローバルな片付け」であり、妻の片付けは「ローカルな片付け」だったわけです。要するにモデルの不一致が前提としてあったのです。
 モデルとは近似方法の問題ともいえます。ぼくのようにざっくりした片付けモデルだと実用性に欠け、妻のような厳密さを持った片付けモデルだと他者による再現が難しくなる。つまり、どこまで特定してどこから無視するかの判断が「良いモデル」を作るための検討ポイントになります。
 これは「関数の近似」とまったく同じ問題です。
 ある閉区間上の任意の連続関数は多項式関数で近似できる⁵⁾ということが知られているのですが、ここでは厳密性に目を瞑ってざっくり「あるひとつの関数は他の複数の関数の和で表現できる」といったん飲み込んでください。
 そこで知ってもらいたいのが「テイラー展開」と「フーリエ変換⁶⁾」というものです。前者はある点近傍で関数をべき関数の和として、後者は周期関数を三角関数の和で表現する数学手法です。フーリエは熱力学ですごい業績を残したあのフーリエと同一人物です⁷⁾。
 ここでテイラー展開の式を見てみましょう。

 テイラー展開は関数のある点aの近くを想定した近似です。ある点から近いところにあれば接線の傾きさえわかれば大体の値がわかるだろう……という発想で、だから導関数が出てきます。そして同様の操作を何回も繰り返せばどんどんホンモノに近づくはずですので、このようにズラッと並んでいくわけです。
 ただこれを見てわかる通り、全部やるのはめっちゃダルいですよね。具体的には洗った皿を食器棚の所定の位置に戻すくらいダルいです。というかうか無限に続くわけですし、どこかで手打ちにしないといけない。導関数が高次になるほど全体への寄与は小さくなりますので、2次以降を微小項として無視して使うなどがよくある使い方です。つまり、ぼくと妻の片付けの違いとは、テイラー展開を何次の項まで使うかという問題とまったく同じだったわけです。

4) goo辞書より。
5) ワイエルシュトラスの定理による。ワイエルシュトラスはなんかギザギザした関数で有名。
6) 実用的な利用例として「音の分析」があげられる。音は空気の粗密の波。「大きさ(振幅)」や「高低(周波数)」は単純でわかりやすい一方、「音色」は複雑でむずかしい。グラフとして現れる元の音波はひとつだが、明らかに膨大な情報量がそこに含まれていると直観でき、それを分析する方法が「フーリエ変換」だ。これで複雑なひとつの波を単純な複数の波に展開し、それらがどれほどの強さで全体に寄与しているかを調べることができる。こうして音波の構造の複雑さがわかると同時に、音色を聞き分けられる人間の耳の性能もまたおもしろい。音波は鼓膜を震わせ、その振動はかたつむり管を満たすリンパ液に伝わり……というように人間は音を知覚するらしいのだが、この蝸牛菅というところが周波数成分によって違う場所が振動するようになっている。つまり、複雑な音を複数の音に分解して感知するという、フーリエ変換そのままのことが行われている。
7) フーリエは偏微分方程式である熱拡散方程式を解くためにフーリエ変換を考案した。

なぜ文章群が〝小説〟に見えるのか?

 ぼくらはAをAと呼んでいいかを判断する際、なんらかのモデルを用意し、それとどの程度似ているかを検討します。食器の片付けにしても、ぼくの片付けは妻の食器棚整理モデルと比較して厳密さに劣り、「片付け」と見做されなかったわけです。
 これを踏まえて小説のことを考えてみると、読んでいる文章群を「小説である/ではない」と判断できるのはなぜでしょうか? 多くの場合、それが「小説」として流通している文章群とかたちが似ていたり、あるいは「小説です!」とそれ自体が自称しているからです。

 小説の定義の話をするのはぼくには荷が重いのですが、個人的な経験として重要なものがひとつあります。
 第0回でも書いた通り、ぼくは熱心に小説を読むような子どもではなく、24歳ごろに思いつきで読みはじめた人間でした。その時期にもっとも影響を受けたのが川上未映子さんの『先端で、さすわさされるわそらええわ』(青土社)という本で、これは中原中也賞を受賞した詩集なのですが、本屋さんの日本文芸の棚で見つけて買ったせいか読み終わるまでずっと「小説」と思い込んでいました。本を閉じて中原中也賞をググったときにはじめて「詩」だったと知ったわけです。そのとき「これは小説か否か」を論じることの不毛さと同時に、「小説とはどんな文芸表現か」を考えるおもしろさに触れました。あのとき川上未映子さんの詩集を小説と思い込んで読んでいなかったら、絶対に小説家になっていなかった気がします。
 ここで大事なのは、「小説とは何か」を考えるのは難しいけれど「小説に見えるもの」についてなら手がかりがありそうだということです。たとえばデタラメな文字列でも、それが小説っぽいレイアウトで並んでいれば小説に見える・・・。物語の有無や起承転結といった議論よりはるか手前ではありますが、まずはここを検討してみましょう。

 ではここで問題です。
 以下の文章群は「小説」でしょうか?

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 これはまさしく意味のない文字列を小説っぽく並べただけです。「文字化けを復元して意味を解読する」というのはないとすれば、この文章がこのかたちをしている必然性がどうにも見えず、「小説」以前に創作物と見なすのは難しそうです。
 ではこちらはどうでしょうか?

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 先ほどと同様に意味のない文字列が小説っぽく並んでいるのですが、途中で「たすけて」の文字が紛れています。
 見たままを言えば「意味のない文字列に意味が通じる文字がある」わけですが、この「たすけて」はどのようなかたちで存在しているでしょうか? 「たすけて」と発する人物がいて、それが無機質な文字列のなかに「閉じ込められている」と解釈すれば、そこに物語を見出せそうです。そうなると「助けて」でなく「たすけて」とひらがな表記であることにも意味づけができます。主観的な読みですが、ひらがな表記は漢字表記よりも音声的に弱っている印象があり、「閉じ込められている存在」の状態を想像する手がかりがあります。

 極端な例ですが、文芸技巧とはこうしたテクニックです。意味を「伝える」のではなく「想像させる」ことに注力した技術であり、読み手が想像力を働かせてしまう・・・・・・・仕掛けは、文芸作品特有の表現でしょう。
 すると「小説とは何か」を考える手がかりもひとつ掴めそうですね。このテーマが持ち上がると決まって「物語の有無」が議論されるわけですが、「物語」とはそもそも決まって作者によって用意されるものなのでしょうか? 文字化けの海のなかに現れた「たすけて」の言葉は、物語の筋書きはなにも明かされていませんが、その背後の物語を想起するのは可能です。物語の有無以前に、読者の想像力と接する文章が議論の焦点になるのではないでしょうか。
 文字が小説っぽく並ぶだけで小説に見え、さらに読者が「表現」を読み取ることに成功すれば、目の前の文章群はその読者に「小説」として受け入れられます。
 この「文字の並び」と「受け取る側の想像力」に注目した小説が円城塔さんの『これはペンです』(新潮文庫)なのだとぼくは解釈しています。

「よくわからない小説」を読む方法

 以前一度、とある大学の文芸創作科で授業をさせてもらったことがあります。
 そのときぼくは「よくわからない小説」を読む方法をテーマに円城塔『これはペンです』(新潮文庫)を取り上げたのですが、この作品を通じて「小説のかたち」を考えてもらいたいという意図がありました。
 ここでまず『これはペンです』の概要を紹介すると、大学生である「わたし」と小さい頃に会ったきりの顔も知らない「叔父」の交流を描いた小説です。叔父は自動生成された論文付きの学位販売(ディプロマ・ミル)事業を手がける変わり者で、世界各地から手紙を寄越してくるのですが、これが普通には書かれていません。あるときは磁石、またあるときは塩基配列で書かれているという具合に。
 ぺダンティックにも感じられる言葉遊びを駆使した小説で、読むのに難儀した学生さんもいらっしゃいましたが、円城作品の「読みにくさ」とはおそらく「誰にも似ていない」ことに由来するのではないかと思います。たしかにこの作品には理系に馴染みのないひとには馴染みのない語彙が多いですが、それは表面的な話で、もっと根っこの部分が違っています。「小説」という表現の受け止め方といいますか、根っこが違うので問題意識もまるで違う。「似ていないもの」が「よくわからない」のは当たり前なのです。

 この「よくわからない」という経験を通して重要な発見が得られます──つまり、鑑賞において我々は「似ている」という感覚を無意識的に重視しているわけです。部屋や食器棚が整理できているかは「整理できている状態に似ているか」を基準に判断しているのと同様に、目の前の文章が「良い小説」なのかを、自分が知っている「良い小説」と比較することで判断します。「小説を読む技巧」とは文章を論理的に整理・読解していくことももちろん大事ですが、それよりもはるかに基礎的な段階として「どんな小説モデルを採用して読んでいくか」になります。
 この小説モデルはたくさんあって、作品ごとに適宜選び、精度を見直したり⁸⁾、他のモデルと組み合わせたりすることで特殊な技巧が使われた作品にも対応できるようになるわけです。「よくわからない小説」を読んでいくとき、実は語彙や読解よりも先に、適切な戦略を選択して読めているのかを疑ってみると見通しが良くなるのではないでしょうか。

8) テイラー展開で何次の項まで使うかを検討することなどがこれに当たる。

パイこねと小説の意外な関係!?

 そうは言ってもわからないものはわからないわけです。
 たとえば学校の勉強なんかがそうですが、特に苦手意識がなかった科目がいつのまにか苦手になっていたという経験はありませんか? 初歩的な問題はきちんと解けるのに、授業が進むにつれてだんだん解けなくなっていく……というような。このケースはほとんどの場合「どこでわからなくなったかわからない」が原因です。
 小説で「わからない」となるのもこのケースが多いのではないでしょうか?
 読んでいるうちにだんだん誰が今何をしているかわからなくなって、視界がゲシュタルト崩壊していくような感覚にとらわれ、本をパタンと閉じてしまう……みたいな。雑学的な知識やパロディが多用された作品では読者がそのような状態になりやすいですが、これもこれで考え方次第で──小説を読むときに使用するモデル次第で──そのこと自体を楽しめるようになります⁸⁾。
 ここで取り上げたいものが「パイこね変換」というものです。「パイこね変換」とは、
 ①横に二倍に引き伸ばし、縦を半分に押しつぶす。
 ②横方向の真ん中で半分に切り、右側の部分をもう片方の上にのせる。
 ③以上を繰り返す。
 という単調な操作です。これをひたすら繰り返すとどうなるか……というのが以下の図です。

パイこね変換の例。上図はWikipediaの「パイこね変換」の項目より引用。

 このように、最初はニコちゃんマーク(?)が描かれていたのですが、だんだんランダムに線が現れるような模様になっていきました。
 ここで注目して欲しいのが「規則的な操作の繰り返しで予測不能のパターンが生成された」ということです。よく考えると不思議だなぁと今でも思います。これは乱数の発生や非線形科学、いわゆるカオス理論、複雑系の学習で最初に学ぶ操作です。
 ぼくが「わからない小説」を読むときに参照するモデルがまさにこれです。究極的には、書かれている一文一文自体は容易に理解できる内容だ。見慣れない語彙こそあっても、意味が明瞭な文章だけで構成されている。だけれども、それが集団になることで「わからなくなる」。「わかる」を積み重ねていたはずなのに「わからない」という全体が生成されていて、そういう経験を与えてくれる本に出会うたび、小説と複雑系の自然科学はかなり近い位置にあると思わされます。円城塔作品は、世間で広く読まれるタイプの「小説」とは似ていないのかもしれない。だけれども参照するモデルを小説以外に広げ、たとえば自然科学の現象に目を向けてみると「似ている」という手応えが得られます。この感覚を繋げていくと「読める」にたどり着けるのです。
 同時に、この「わからない」は読者の想像力によって生み出されているものでもあります。我々は自身が知っている小説に引きつけて──既存のモデルを参照して「これは小説か否か」を判断しますが、その知的操作こそ想像力の基礎的な部分を担っています。「わからない」とはそもそも、そうした手続きで実行される想像力が機能しているからこそ起こる不思議な現象なのではないでしょうか?

 さて、今回はここまでにします。
 ここでは「わからない」がなぜ起こるのか、そしてどのように生成されるのかについてざっと見てみましたので、次回は「わかる」の部分に目を向けてミステリ小説について考えていきましょう。

8) 少なくとも著者は。

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