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現代文の入試問題が解けるとはどういうことか?

昨日、朝からたまった原稿をシュババババババっとやっていて、昼過ぎに集中力が切れた。それでちょっと気分転換でもしようとおもって大学入試共通テストの現代文を解いてみることにした。15分はかって大問1に挑戦だ……!

やってみた結果

出題は香川雅信「江戸の妖怪革命」。未読の評論なのだけれど、問題文のところだけでもじゅうぶんにおもしろかった。内容はというと、フーコーを下敷きにしたアルケオロジー的方法にのっとった近世から近代への「妖怪観」の移り変わりの批評であり、そこにリアリズムとフィクションをめぐる考察もはいってくる。近世リアリズムとしての「妖怪」、フィクションとしての「妖怪」、そして私の不可解さという近代的自我の文脈で捉えなおされたリアリズムとしての「妖怪」へと論は続いていき、ふつうにたのしく読んでしまった。

結果は47/50で、しっかり1問まちがえた(解答番号10)。
ぜったい満点でしょ〜とおもって自己採点したらこのザマなので、こういうテストでは調子にのらないようにするのが大事だなと改めておもったのだった。

現代文の勉強は無意味か?

ちなみにぼくは受験生のとき、国語がとにかく苦手だった。
理系だとセンター試験の国語の傾斜が大きく、漠然と物理がやりてぇなとおもっていたぼくにとって、センター国語の点数で受験先が決まる。第一志望は理学部で国語のウェイトが高く、失敗したら工学部……みたいな、そういうかんじ。
で、本番はたしか130点か140点かそれくらいで、ふつうにコケた。
詳しい内訳はわすれたけれど、ふだんは落とさないはずの漢文でだいぶやらかしていて、「終わった……」と絶望した記憶はある。むしろセンター試験は国語以外もいろいろやらかしているので、記憶がすっかり虚無!ってかんじで、気がついたら大学生になっていた。

国語、とくに現代文といえば、よく「対策しても無駄」とか「ちっちゃい頃に本をたくさん読まなくちゃもう取り返しがつかない」とか言われていた。
ぼくは高校生のころ本をまったく読んでいなかった。もっといえば、大学4回生で研究室に配属されて実験の待ち時間が暇すぎて本を手に取るまでまったく読書なんてしてこなかった人間でだった。現代文はセンター試験だと7割とれたらじゅうぶん、ふだんは6割、下手したら半分切る、という典型的な「理系科目しかできないヤツ」で、ぼく自身もそれはそういうもんだと諦めていた。
しかしそれから15年経って小説や書評・批評を書く仕事をするようになるのだから、人間どうなるかわからないものである(←クソ適当な慣用句)。

今回、大学入試の現代文を久々に解いてみて「高校生のときとは全然ちがう解き方をしているな」という感覚はあった。
じっさいに解いている最中もむかしとはぜんぜんちがっていて、「本文は超おもしろいのに、なんでこんなクソだるい選択肢を細かくよまなあかんねん」みたいな気分になった。
むかしはといえば、とにかく「点をとれるかどうか」にしか興味がなく、先に傍線部を読んで、その近くにある指示語や接続詞に◯△□などの怪しげな記号を書き込んでオリジナルの印を結んで念じれば答えがひとりでに浮かび上がるという呪術的な解法を採用していた。つまり、そもそも文章を読んでいないのであって、解けないのは当たり前だった。
問題集を解くとかある程度は時間をかけて勉強はしていたにもかかわらず、文章を読む習慣がそもそもついていなかったんだと今ではおもう。

「ふつうに読む」のむずかしさ

ともあれ、15年経って入試問題というものと完全に無縁な立場になってはじめて「ふつうに読む」ことの大切さに気づいたぼくであった。なのでもしいまのぼくが高校生のぼくに国語を読むなら「ふつうに読め。本を読む習慣をつけろ」とかいい出すだろう。そもそも現代文の入試問題はそこらへんの新書くらいの文章がよく出題され、それをおもえば新書1冊ろくに読みきれないやつはロジックだのテクニック云々以前に「文章を読む」体力をつけなければ話にならない。
そんな話を妻(現代文苦手)に話してみると、「それができればね……」と暗い声が返ってきた。たぶん、高校生のころもおなじことばをおなじ口調で返しただろう。つづけてこういった。

「本を読むための論理的思考力がないわけじゃなくて、本を読むための教養がないんだよ」

よくよく考えれば今回、1問まちがえたとはいえ受験生当時よりも良い点数をとれたのはぶっちゃけ運だ。
出題された「江戸の妖怪革命」の軸はフィクション論であり、これはぼく自身も仕事で書く機会があるくらいには馴染み深い話だ。妖怪やフーコーについても「詳しいわけではないが、知らないことはない」程度の知識はある。もしこうした知識や理解がなかったらとても15分で全部読み、問題を解き終わるなんてできなかった気がする。

こうした現代文の問題に対して、アプローチ方法はおそらく以下の3つだ。

1:読解(ふつうに読む、ロジックを追う)
2:知識の参照(身につけた教養と比較しながら読む)
3:受験テクニック(問題傾向から導かれる選択肢の取捨選択技術)

また、大学入試共通テスト(センター試験)は原則的に「特定の知識がなければ解けない」ということはないので、1だけで対応可能にはなっている。でも前提知識なしに1でがんばっていたら時間がどれだけあっても足りない。

妻がいうに、「本が読めない」っていうのは純粋に何が書いているかわからないっていうケースだけじゃない。ゆっくり読めばわかるんだろうけれど、そんなにがんばれないし気力も時間もないから「読めない」っていうのもある。
1冊の本をストレスなく読了し、ちゃんと理解を実感できるにはその素地となる「教養」が必要なのに、その教養の多くは読書経験で得られる「知識」によるところが大きい。「読書と教養」が「鶏と卵」みたいになっちゃっているのを自覚すると、ますます読書なんてやってらんない。だから「本が読める」力の格差はめちゃめちゃ広がっていく。「ふつうに読む」ができるひとというのは、純粋な読解力の問題じゃなくて、(なんかカンジの悪い言い方になるのだけれど)「教養・知識」の問題なのかもしれない。「ふつうに読む」のは思った以上にむずかしい。

読まなくても解ける

現代文はおそらく時間さえかければ「ふつうに読んだら解ける」し、その「ふつうに読む」を支えているのは教養(知識)だ。でも決まった時間内に「知識ゼロからロジックを丁寧に追って理解する」というのは現実的な話じゃないし、「ふつうに読む」技術を習得するには膨大な時間がかかる。
だから、現代文の成績を効率よくあげようとすると、「ふつうに読まないで問題を解く」方法の開発になる。その結果、高校生のときのぼくはマジックリアリズム的方法によって現代文に取り組んでしまった……。

この「ふつうに読まない」、むしろ「問題文をまったく読まない」で現代文の問題を解くという方法は、なんと1987年に提唱された。「小説現代」に掲載された清水義範の短編小説「国語入試問題必勝法」だ。

この小説は現代文が超苦手な受験生に合格請負人ともいうべき家庭教師がやってきて、現代文の選択式問題の攻略法を伝授するという話だ。最初の授業で生徒に問題を解かせたあと、かれらはこんなやりとりをする。

「それから、もっと悪いのは、きみは読んだ文章の内容を理解しようとした。違うかい」
「ええ。書いてあることの内容を理解しようとしました。でも、むつかしすぎてさっぱりわかりませんでしたけれど」
「それが間違っているんだよ。その文章の内容を理解したって何の役にも立たないじゃないか。そんなことに頭を使うのは無駄だ」

かれの授業で教えられるのは、ぼくが先にあげた現代文の解き方の「3:受験テクニック」だ。それもかなりクセの強いもので、「選択式問題というゲームの攻略法」、誤答選択肢はどのようにして作られるのかがそこで詳細に語られる。
この小説はあくまでフィクションとして書かれているのだけれど、その内容はセンター試験や大学入試共通テストの問題を解いてから読めばかなり思い当たるふしがあり、かなりの「マジさ」がみられる。その証拠になるかわからないけれど、この小説で紹介された「必勝法」を丸パクリした参考書が出たりもしたらしい。

「読まなくても解ける」というのは、当然ながら「入試問題を解く=読解」の図式を否定するフィクションだ。現代文の問題が解ける/解けないと個人の読書への関わり方はまるで関係がないし、そういう意味ではかつて現代文が苦手だったぼくとしても救われる気持ちにもなる。「読まなくても解けるんだよ」、というのは、「本に馴染みがなくても本を読んでいいんだよ」と受け取ることさえできるんじゃないか。

今日のオチ

なんだかとりとめのない話になってしまった(ブログってそういうもんだから許して)。

そういえば大学時代のバイト先(塾講師)の友だちに、

「傍線部がないと小説を読めない」

といっていた奴がいたので、今度「国語入試問題必勝法」を読ませてみようとおもう。

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