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共に育て、共に育つ

今回の『役員の顔』は、びーのびーのが立ち上がってから一番長く濃い関係で、びーのびーのが進む道をおぼつかない足元で歩く私たちを常に確かな光で照らし導いてくれたり、時に後ろに回っては進む背中をそっと押してくれたり・・・。
対人業務の現場と事務方の組織支援と両方の視点を持ち合わせながら盤石にびーのびーのをサポートして下さってきた新澤拓治理事です。

理事 新澤拓治さん

40年近く前になりますが、保育の学校を卒業した私は、保育士として保育園に務めました。当時はまだ保育士という名前ではなく、正式な名称は保母。資格の名称も当然保母資格。そのような中、当時まだ珍しかった男性保育者が多数いる保育園に就職をしたのです。そこは私の父が園長をしていた、東京江東区の神愛保育園という小さな下町の保育園でした。

私の所属する社会福祉法人雲柱社は、明治生まれのキリスト教社会事業家、賀川豊彦が設立した法人です。もともと関西での活動が起源なのですが、関東大震災を機に、東京の支援をということで、活動の拠点を東京に構えました。私の父は、製菓業の長男として生まれましたが、家を飛び出し、賀川豊彦に師事をして、ボランティアとして神愛保育園(当時は無認可)に住み込み、園長を任されることになります。

無認可園から認可へ、障がいをもった子の保育、延長保育、そして保育園の子育て支援センター化と、現在では当たり前のように行われるようになった内容を、先駆的に取り組んでいました。そのような中、生み出された理念が、「共に育て、共に育つ」というものでした。これは今でも私の子育て支援への取り組みの基盤にあるものです。保育園では10年と少しクラス担任として保育をしていましたが、1999年(平成11年)に江東区で最初の子ども家庭支援センター設立の開設スタッフとして子育て支援に取り組み、そこからズボッっとこの世界にのめりこんでいます。

30年前、保育士として保育園で奮闘していた頃

びーのびーのは私の同志

ちょうど、支援センターに異動した翌年だったと思いますが、大豆生田先生が、「見学に連れて行きたい人たちがいるのだけれど」と、言って、引き連れてきたのが、現理事長の奥山さん、副理事長の原さんでした。なんと子育て中のこの二人が、子育て支援の取り組みをしていきたいと、当時はまだ珍しかった、子育て支援の専門施設を見学したいということで、来てくれたのでした。

そこからあまり時間は経っていなかったと思いますが、NPO設立の連絡を受け、非常に驚いたことを覚えています。私は、保育園で行う子育て支援センターのつながりも多くありましたが、その後NPOなどが行う「つどいの広場(当時)」に深く関わるようになり、びーのびーのは、この世界を一緒に開拓してきた同志とも言えます。 

私のスタート地点である、江東区の子ども家庭支援センターは、地域の方々の参加、参画が大きな特徴の一つでした。私の父は、地域に根ざした保育を皮切りに、地域全体で、共に育て、共に育つということを実践してきました。びーのびーのは当事者が行う支援として、スタートしていますが、そうした方向性は、私たちがやろうとしていることと非常に共鳴性があったと思います。

今の時代に合ったものは何なのか?

私が保育を離れ、子育て支援の世界に入り20年以上経ちました。この間、様々な変化がありましたが、非常に大きなインパクトを与えたものにコロナ禍が挙げられると思います。現在は、以前のような対応ではなくなり、日常化されたような感じもしますが、人とのコミュニケーション、距離感など、大きく変わったあり方が、日常化された今も、それぞれの中に定住化しているような気がします。

集まることも、オンラインがよい、リアルがよいといった意見も様々ですが、いずれにしろ上手な付き合い方をしていくことになるのだと思います。子育ての支援も様々にメニュー化され、法律、制度なども整ってきましたが、支援という枠も旧態依然としたものでなく、今の時代にあったものに変容していくことが必要なのだと思います。びーのびーのと共に、新しいしくみ、新しいつながりの形を求め続けていきたいと思います。
                              新澤拓治


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