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法律を越えて自由を抑制することへの疑念と、「若者よごめん」てな言葉が帯びる欺瞞について。

2022年10月07日のツイートより

近年の演劇界のハラスメント防止にまつわる議論に対して、僕が特に疑問を抱いているのは、先輩は後輩に○○してはならない、といったハラスメント規約が明らかに法律を越えた禁止、すなわち自由の抑制を含んでいる場合に関してだ。恋愛禁止などもそうだが、その、本来保障されるべき個人の自由を抑圧している権力の主体は何なのか? 誰なのか? 

仮にその権力を振るうのが劇団の主宰者個人であれば大問題だし、運営サイド、主催者サイド、などの集団であったとしても大きな問題を孕むだろう。法律を越えて個人の自由を抑圧する権限は、集団においてしばしば内規として現れるだろうが、そういったものの増大は権力の増大を意味するばかりではないだろうか? これが僕の違和感の核心だ。

ハラスメント防止にまつわる約束事が、権力者に過大な権力を与えないことをひとつの目的とするならば、法律を越えて個人の自由を抑圧する権限などを劇団/運営/主催者サイドなどに、ましてや主宰個人などに与えていいはずがないではないか。適正な運用がなされなかった時に誰がその権力を指弾するのか。

ハラスメントの問題に関しては、誰かが悪いことをしたら「上の人」に取り締まって欲しい、などと考えてはならない。上の人、こそがハラスメントの主体であることが多いからだ。やはり参加者個人がイザという時には揉める覚悟、下剋上をする覚悟を持たなければ、フェアな現場は形成されまい。

だからアマヤドリで常設している「コンプラ委員」の一番の仮想敵はいつでも主宰者である僕、広田だ。委員の選定に際しても「この人なら広田に物怖じせず言いたいことを言えそうだ」ということを必須の要件としてきた。法律より厳しく個人の自由を抑制するルールを作って、その違反者を主宰者が個人的に判断して罰する、などというやり方では独裁権力が強化される危険性が高い。

「誰か上の人」が公正で安全な場所を作ってくれたらいいのに、という考えではいつまで経っても権力に追従してしまうだけだ。不適切な権力の行使があったらいつでも反乱を起こす、という覚悟がそれぞれの参加者に求められているはずだ。その責任を背負ってこそ、自由な現場が勝ち取れるのではないだろうか。

ハラスメント関連の話題でもう一点。僕もつい自分で言ってしまっていたことで、よくよく考えて、あれ、おかしいぞ、と思い直したことがあるので追記しておきたい。それは年長者から「若者」に対してなされる「謝罪」について。

「若者のみんな、もっとフェアな世の中を作ってあげられてなくてごめん」みたいな、そういう言動が世の中にはちらほらあるかと思う。私たちの世代の責任だった、という話。まあ、心情的には、わかる。わからないこともない。僕自身もそういうことをかつて言ったことがあるような気もする。でも、思う。そんな謝罪って、本当に真っ当なものなんだろうか?

少なくとも僕は、自分が若い時に年長者に対して「もっとフェアな世の中をなんで作ってくれなかったんだ!」なんて思わなかった。それぞれの世代で精一杯やったんだろうし、その恩恵を受けている部分もすごくあるし、それでも解決できない人間のバカさ加減というものはどうしたって残るよね、その程度のもんだよね、と思っていたからだ。それに、自分でおかしいと思ったことは自分で変えるよ、とも思っていた。実際に僕らの上の世代というのは灰皿ぶん投げ、とか、ぶん殴り、みたいなことが演出-俳優間でも俳優-俳優間でも横行していた時代なのだから、少なくとも明白なバイオレンスはやめようや、ということを僕らは心がけてきた世代でもあるんじゃないか、という思いもある。もちろん、こんなことをさも「世代の功績」みたいに語るのは奇妙な話だろう。でも、だったら「若者よ、ごめん」という世代論だって十分おかしいだろう、と思ってしまうのだ。

恐らく、こんな話をすると「1000万円あった借金を998万円に減らした! 俺たちは偉い!」みたいなバカ話に聞こえるのかもしれない。そういうことを言いたいわけじゃない。今の状態がベストだとか、問題はすべて解決されたとか、「俺達の世代はいいこともした」なんていうつもりは全くない。単純にそれって世代論で語るべきことなの? という違和感があるという話。

自分のことを思い返してみると、年長者に対しての被害感情を抱いていたというよりは、勝手に越えていくつもりだから相手にしてなかった、みたいな部分が強かった。今の若者だってそれでいいんじゃないか、と思う。若者は必ずしも年長者を敬うばかりではないし、年長者を否定することでこそ新しい時代を切り開いていくものだろう。だから「若者よ、ごめん」みたいな発言を、若者だったころの自分は別に欲していなかった。知らねーよ、と思っていた。

それに「若者よ、大人たちがしっかりしてなくてごめんね」という言葉が発せられる時、若者に対して、同じ大人としてのリスペクトが本当に払われているのか、どうも疑問が残るのだ。なんだか自分より未成熟で、力の無い存在と見なしていないですか、若者を? という疑いが、やっぱり僕にはある。むしろ「若者よ、ごめん」という謝罪が受け入れられることを期待する態度の中には、若者は大人に従属していてほしい、という力関係の固定化が暗に望まれているのではないだろうか。その心情の中に僕は清潔なものを感じない。謝られた方も、なんだか身のやり場に困るはずだ。謝られてしまったら、今度は若者が「わかってあげなくてはならない立場」に追い込まれてしまうだろうから。

知ったことか、と思っていていいと思う。若い人は。僕も漠然と若者に謝るようなことはしない。その代わり、大いに生意気を、異論を、反論を、歓迎できる大人でいられるように修行したいと思う。そして、君らもそういった大人であれ、と、望みたいと思う。

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