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私の死生観。

現実から逃げるために、自ら命を絶つことを、私は否定的に受けとめたりしない。

実際に、友人は首を吊って、死のうとした。
結果的には上手くいかず、命を絶つ寸前で失敗し、首元や喉の治療をした。

私も、昨年の秋、仕事を辞めて、精神疾患の調子がかなり悪かった時に3度、自宅で首を吊ろうとした。

思ったよりも苦しかったので、怖くなってやめた。
それに、自宅で倒れていたら、第一発見者が妻になってしまうので、それは避けたかった。

そんな出来事があった時に、高校時代のちょっと変わった友人を思い出した。
彼は「俺は40前後になったら、東尋坊で美しく死ぬんだ」と言っていた。

そう、死にかたは自由に選んで良いのだ。

自分から死を選ぶことは、それほどやむを得ない状況にあるということなのだと思う。

また、亡くなった祖父は生前こう言っていた。
「俺が死んだら、海にでも散骨してくれ」

自分なりの美しい死にかたを選ぶ自由があると思うし、自ら命を絶つことに対して、「命を尊重していない」という言葉を向けることは、私にはできない。

なので、私の死生観は、「自ら美しい死にかたを選ぶこと」と「その人が死んだ時が、その人の寿命である」ということです。

過酷な現実に向き合っている方が、少しでも逃げる道を考えて探して、その末に命を絶つことを選んでも、私は責めない。

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