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フルメタルジャケット ~       海とサーファーが教えてくれた


はじめに

  この記事は2013年の夏、風前の灯にあった自分の会社の存続を企てた私が、ブログ(ameba)に投稿していた記事をかき集め、整理し、私小説にまとめたものです。この記事を持ち込んだ先の出版社の評価も良くて、出版に前向きな回答をもらいました。
 しかし、無名の者が出版するにはいくらかの負担金が必要でした。先方もいろいろ勉強してくださって、出版のための敷居をかなり低くしていただきました。それでも、5月に社員全員を整理解雇し、賃貸契約中のオフィスを解約して3畳ほどのレンタルオフィスに逃げ延びた私にとっては、そのお金さえも用意することができませんでした。
 結局、出版の話は立ち消えとなり、私の会社もそれを追う様に藻屑と消えました。それから苦しい時期がありましたが、ここでは触れていません。
 病気を克服した私が会社を設立し、資金集めに苦労しながらいくつかの成功体験を繰り返しながら飛躍の時を迎え、迎えたと思ったら東日本大震災が起って苦境に陥ります。そんな中、休日にウォーキングをしながら何とか挽回しようと画策する七転八倒の話です。
 今はコロナで多くの人が苦しい思いをしています。それでもなお、自分の技術やアイデアを形にして会社を作って売ってゆきたい方や、お店を作って多くの人に喜んでもらえる商品やサービスを提供したいと考えている方に読んでもらって、少しでも役に立てればと思っています。また、様々な悩みや苦しみを抱えている方々に、ウォーキングを通じて元気になる方法もお伝えできればと思います。
 この記事を発信するチャンス(プラットフォーム)を作っていただいたnoteの皆様に感謝いたします。また、6年ほど更新が途絶えていた私のブログをしっかり残していてくださったAmebaの皆様に感謝いたします。

 それでは、頭の中の時計を10年ほど巻き戻してお読みください。


第1章 闘病生活から社会復帰

[1].ブログからのプロローグ

 最近では実にたくさんの人たちがブログを書いています。遅ればせながら私も2011年の1月からアメーバでブログを書き始めていて、自分の会社のホームページからリンクを貼っています。
 横浜で半導体用フォトマスク検査装置の開発と販売を目指すベンチャー企業を興した私は、ブログの開設当初はホームページの変更には至らない程度の会社のビジネスに関する日々の出来事を書くつもりでした。
 ところが、この最近の多くのベンチャー企業と同様に、資金調達が困難を極めたために思うようにビジネスを進展させることができていませんでした。ベンチャー企業に対する資金の出し手であるはずのベンチャーキャピタルは、過去の投資先の成果があがらず、不良案件の処理も進まずで、投資意欲が極端に低下していました。当社で開発する装置を待っていてくれるはずの顧客企業も、リスクを恐れて様子見を決め込む習慣が蔓延し、当社に対する投資の話などでは、なかなか自社の幹部を説得してはいただけない状況でした。だから、開発や製品化が思うように進まず、ブログで公表するようなネタもたまにしか出てきませんでした。
ブログを始めるにあたって読んだ教科書本には、ブログに掲載するようなネタがなくても、毎日何らかの更新をすることが薦められていました。そこでウォーキングの習慣がある私はウォーキングをブログの主題にして、ビジネスのネタができたときにはそれを掲載するスタイルでブログを始めました。
そのブログのタイトルを「フルメタルジャケット」としました。フルメタルジャケットとは、もともとはベトナム戦争を描いたアメリカの映画のタイトルです。ベトナム戦争に派兵されたアメリカの若者を描いた映画で、過酷な状況に置かれた兵士たちの精神状態を描いています。
私がブログのタイトルにこれを選んだのは、今も通っている神奈川県立循環器呼吸器病センターの主治医の先生が、9本のステントが入った私の心臓のような状態を「フルメタルジャケット」と言うと教えていただいたことに由来します。
 また、ブログの最初の写真には2006年の9月に横浜市立みなと赤十字病院の7階の渡り廊下から携帯電話のカメラで撮影したランドマークタワーの写真を載せました。
 これまで、海岸線を歩き続け、数え切れないくらいの写真を撮ってきた現在でも、一番大切にしている写真はこの写真です。

みなと赤十字病院の入院棟から観たランドマークタワー

[2].1回目の急性心筋梗塞

 私は2005年から2006年、そして2007年と3年連続で急性心筋梗塞を発症し、カテーテル手術を受けました。
最初は2005年の5月5日の子供の日のことでした。当時私はビンテクノロジーズという技術コンサルタントを個人事業として営んでいました。1986年に神戸商船大学(現在の神戸大学海事科学部)の大学院修士課程を修了した私は、大手精密機器メーカH社の八王子工場から社会人生活をスタートしました。仕事の内容は半導体用フォトマスクの生産技術や品質保証に係わるものでした。
 半導体用フォトマスクというのは、LSIやICなどと呼ばれる、半導体チップを製造する際に、ステッパーに搭載してウエハー上に回路を焼け付けるための原板、少し昔の写真で言うところのネガのようなものです。ガラスの板の上に金属の膜で回路が描かれています。
 半導体用フォトマスクはいつの時でも、その時の最先端の技術を使って微細で高性能な加工で製造されています。
 1995年から5年間は外資の半導体検査装置メーカの日本法人で働きました。この分野では全世界で圧倒的なシェアを持つトップ・メーカで、その当時最新鋭であったフォトマスク検査装置の日本でのアプリケーションサポート業務でした。そして、2000年10月に独立して技術系コンサルタントとして日本の大手電機メーカN社で装置開発のアドバイザーの仕事を始めました。
 2005年の5月といえば、その年の3月でこの仕事が終了となり、次の生活の糧を探しながら不安な日々を送っている時でした。技術コンサルタントとして5年のキャリアを積んできたとはいえ、実質的には身分が不安定でその分だけ、報酬が高いサラリーマンのようなものでしたから、半分途方に暮れながら仕事を探していた時期でもありました。
 また、それまでの不摂生な生活で、体重が80キロを超えてしまい、健康にも良くないと感じたので、自宅の近くのフィットネスクラブに通い、汗を流して体重を減らす努力をしているときでした。
 5月5日も午前中からフィットネスクラブに行き、マシンジム、そしてその後の水泳といつものメニュー通りのトレーニングをこなしました。
 トレーニングの後も、いつも通りサウナで汗を流しました。体重の増加を気にしていた私はいつもよりも長い時間サウナに入っていました。 サウナの後は、いつもならば水分補給をするところでしたが、この日は家に帰ってビールを飲もうと思い、水分補給をせずに喉の渇きを覚えながらも午後1時ころに家路につきました。
 私の自宅は50mほどの高さの丘の上にある5階建てのマンションです。 東に向いたバルコニーからはみなとみらい地区やベイブリッを望むことができ、この眺めが気に入って2000年に購入しました。
 駅前のスーパーに立ち寄って買い物をして、自宅への坂道を登って行きました。 坂を上り始めて直ぐに突然、身体に力が入らなくなり、冷や汗が出てきました。 それでも無理して登ろうとすると、心臓の鼓動が早くなり、時折心臓がシャックリをしたような不整脈が出るようになってきました。
 それでも数十メートルを歩き、自宅のマンションが見える最後の急坂のところまでたどり着きました。しかし、そこから先は坂道を登れなくなり、ついには道端に座り込んでしまいました。
 数分のあいだ座っていると、心臓の鼓動は多少収まってきました。その一方で身体の力は益々入らなくなり、その場に横になってしまいたい気分になってきました。 坂道から崖下に人やクルマが落ちないように設置されたガードレールを背もたれにして寄りかかり、ほとんど動けなくなってゆきました。
 坂の上のマンションのエントランスを見ると、白い軽ワゴン車が止まっていました。運転席の窓ガラスの下には赤い郵便のマークが付いていました。
 郵便局から委託され郵便物の配達をしている運送会社の軽ワゴン車のようでした。 待っているとこの坂を降りてくるかもしれないと見ていたら、予想通り、そのクルマは坂を下りてき来ました。
 ガードレールにもたれ掛かるようにしたままでそのクルマに手を振ると、運転手が気が
ついてくれて、クルマを降りてきてくれた。 運転手は30代くらいの女性でした。
 事情を話して、坂の上のマンションまで乗せていって欲しいと頼んだら、快くクルマに乗せてくれた。マンションのエントランスまでクルマで運んでもらって、さらに3階の自宅まで一緒にきてもらいました。 自宅に戻れた私は、水を飲んで少し落ち着くと思いましたが、水を飲んで安静にしていても、症状はなかなか良くはなりませんでした。この日は休日だから病院も休みなので、念のために休日診療所に連れて行って貰おうと、救急車を呼んで貰いました。
 救急車はほんの5分ほどで到着したようですがそれまでの時間がとても長く感じました。
 救急隊員の方が自宅に入ってこられたので、郵便配達のお姉さんに御礼を言って、もとの仕事に戻って貰いました。
 その後私は簡単な身支度を調えて、部屋の鍵を閉めて救急車に乗り込みました。救急車中のベットに横になって、心電図を撮られました。その波形を見て救急隊員の方は大方の予想がついていたのでしょう。休日診療所ではなくて、ちゃんとした病院に行かなければダメだと言うことを告げられました。そして、救急隊員同士で、“あそこの病院はもう開いているのだろうか”などと、会話をしていました。
 やがて、消防本部と病院との調整がついたようで、救急車は走り出しました。窓は白くブラインドを施されているので外の景色を見ることはできませんでしたが、坂道を下ったり登ったり、カーブの方向などで、救急車が首都高速狩り場線に入って行ったことは判りました。
 やがて救急車は病院の救急患者用の入口に止まり、ストレッチャーに乗せられて中へと運ばれてゆきました。

[3].横浜市立みなと赤十字病院

 このときに私が運ばれた病院はその当時できたばかりの横浜市立みなと赤十字病院でした。病院の救急処置室に運ばれると、大勢の医師と看護師が待ち構えていて、即座に心電図用のセンサや血圧計など様々なものが身体に取り付けられました。
 そして、ものの数分のうちに先生から
「急性心筋梗塞です。」
と病名が告げられました。先ずは血栓を溶かす薬が注射器を通して血管に入れられました。この薬で血栓が溶ければ手術を免れる可能性もありましたが、結果はダメでした。よって、この後はカテーテルを使った手術を行うことを告げられました。切開手術ではないので非常に楽ですが、何しろ数時間前までマシンジムで汗を流し、プールで気持ち良く泳いでいたのに、こんな大きな病気になるなんて、心の準備が全くできていませんでした。
「いったん、家に戻って準備をしてきても良いですか?」
と先生に尋ねたところ、
「今家に帰ると死にますよ。」
と言われたので、覚悟を決めて手術に臨むことになりました。
 
 その当時、既に心筋梗塞の手術にはカテーテルを使って、血管に詰まったプラークを取り除き血液の流れを再開し、バルーンで狭くなった部分を広げ、ステントを置いて再狭窄を防ぐ治療法が一般的になっていました。開業したばかりの最新鋭の設備を備えた病院の中は、まるでその当時の流行していたテレビドラマERを見ているような感覚を覚えました。黒く塗りつぶされて光が反射しない手術室で手術が始まりました。途中で一度重篤な状態にはなりましたが、カテーテル手術は無事に終了しました。
 手術後の先生からの説明では、右側の心臓の冠状動脈が真ん中より少し根本寄りのところで完全に詰まっていたそうで、軽症―ふつう―重症で言うならば、ふつうと重症の中間くらいの症状だったそうです。
 2週間の急性期の治療が無事に済んだ、誕生日の1日前の5月19日に退院しました。

みなと赤十字病院

[4].神奈川県立循環器呼吸器病センター

 退院後はしばらく自宅で療養をしていましたが、近所のかかりつけの先生に心臓リハビリの施設を紹介して貰って、リハビリを行うことにしました。現在の状況はわかりませんが、その当時のみなと赤十字病院には心臓リハビリの施設がありませんでした。
 そこで紹介していただいたのが、現在も通っている神奈川県立循環器呼吸器病センターでした。
この病院に週に2回通ってリハビリをすることになりました。心臓リハビリは主にトレッドミルというローラーにベルトを巻き付けた器具の上を、ベルトの回転に合わせて歩く器具と、エアロバイクを使って行われました。週に2回、30分枠のリハビリが6ヶ月間続きました。その間、私はもっぱらトレッドミルを使い、徐々に歩く時間とスピードを増してゆきました。そしてリハビリの後半では、1°や2°の傾斜を付けて歩きました。運動の時間中には心電図を装着し、理学療法士と看護士が常に付き添って事故の無いように看ていてくれます。
 この週に2回のリハビリタイムは、同じような境遇にある患者さんや、療法士の先生、看護士さんと話しが楽しみの気晴らしタイムにもなりました。
 また、リハビリ期間中は月に1回、先生の診察を受けますので、しばらくの間は県立と市立の二つの病院の高度医療を受けるという恵まれた環境下にありました。そのことが、3回目の心筋梗塞で命を落とさずに済む結果に繋がるのですが、その時はそんなことなど全く考えてもいませんでした。それ以前に、心筋梗塞など1回でこりごりだと思っていました。

神奈川県立循環器呼吸器病センター

[5].1回目の社会復帰

 治療やリハビリも進み、そろそろ仕事を探さなければと思っていたところ、新聞で懐かしい顔を発見しました。以前努めていた外資系の半導体用検査装置メーカの元同僚達が興した会社が名証セントレックス市場で株式の公開を果たしたというニュースです。
 さっそく、その会社のホームページを調べ、常務取締役になっていたT氏に連絡を取り、T社長とも再開をして、しばらく置いていただくことになりました。こうして私は2005年12月の始め、知り合いの会社に居候という形で1回目の社会復帰を果たしました。
 その当時は未だ病み上がりの身でしたが快く迎えてくれた彼等にはとても感謝しています。
 その会社の仕事でとても印象に残っていることがあります。2006年の4月から、韓国からのエンジニア4人のグループと一緒に、東北のある街のビジネスホテルに泊まりながら半導体製造装置の立ち上げ作業に携わりました。実際の装置の立ち上げ、調整は韓国人のエンジニア達が行って、私はその現場監督と片言の英語を介しての通訳、お客さんとの交渉役という役割でした。韓国人のエンジニアのリーダーは流ちょうな日本語をしゃべることができましたので、通訳の仕事は殆ど必要なく、引率の先生のような役割になりました。
 装置の立ち上げ作業は、何度かに及びトータルで4ヶ月ほど彼等と仕事をしました。2006年当時は、半導体の世界市場規模が2,500億ドルになり、日本メーカの市場占有率が北米地域に次ぐ第2位の地位にあり、その額はその他のアジアの総計よりも大きな状況でした。
 しかし、好不況を繰り返しながら拡大を続ける半導体市場の中にあって、日本メーカの市場占有率は1980年代の終わり頃をピークに一貫して下げ続ける、いわゆるじり貧状態にありました。
 その当時、日本に代わって力を付けてきていたのが韓国勢でした。その当時既に、韓国=サムスン電子と言ってよい状況になっていたと思いますが、伸び盛りの国からやって来たエンジニア達の元気の良さとチームワークの良さには感心しました。
 毎朝、お客様の工場に行き、現場に入る前にミーティングを行います。このミーティングは韓国語で行われるので、私は後でまとめを聴くまで何が話されているのかは判りませんでした。しかし、毎回、必ずもめる。いつも若いエンジニアがリーダーに不満をぶつけ、激しく口論が始まりました。廻りには他の業者の方達もいたのですが、端から見ると、いつも喧嘩をしているようでした。
 そのくせ、ミーティングが終わると何事も無かったかの様に、チームワーク良く作業が始まります。彼等はとても良く働き、着々とスケジュールをこなしてゆきました。その姿を見て、半導体産業で日本が韓国に追い抜かれるのはそんなに先の話ではないということを実感しました。
 一日の仕事が終わり、滞在先のホテルに戻ってからはそれぞれ自由行動になりました。私はたいてい一人で食事に行きましたが、時々彼等の食事に誘われました。そんな時には彼等は一段と快活になり、よく食べ、よく飲み、そして良く笑いました。彼等との風変わりな共同生活からエネルギーを貰って、私自身も急速に元気を取り戻して行きました。

[6].2回目の急性心筋梗塞

 2006年8月からは地元の神奈川で新しい仕事が始まりました。大手電機メーカT社の子会社で、半導体用フォトマスク検査装置の製品化のお手伝いをすることになりました。本来の技術コンサルタントとしての仕事への復帰です。
 しかも、この装置の基本開発を行ったのは、このT社と、かつて私がお世話になっていたN社が合弁で設立した、装置開発が目的の時限会社A社です。T社の川崎の事業所内で懐かしい連中との再開を果たし、これからの仕事に意欲を燃やしていました。
 そんな矢先の、2006年9月2日の土曜日、2回目の急性心筋梗塞を発症してしまいました。前日の夜、横浜スカイビルのレストランで遅くまで仕事関係の人達とお酒を飲みながら、今後の進め方について話し合っていました。翌日の土曜日は、目覚めてから何となく胸の周りが気持ち悪くなってきました。最初は二日酔いのせいだろうと水を飲んでじっとしていました。しかし、ますます気分が悪くなってきたので、病院から貰っていたニトログリセリン錠を続けて2錠なめました。ニトロは血管を広げる働きがあるので、狭心症にはかなり効果がある薬です。しかし、血管が完全に詰まってしまう心筋梗塞の場合にはニトロでは効果がない場合が多いとも聴いていました。
 
 その後、10分くらいじっとしていましたが、ニトロ錠でも症状の改善が現れないことがはっきりしてきました。やがて冷や汗が出るようになり、1年前の心筋梗塞の発症時と全く同じような症状を感じるように成りました。こうなると病院に行くしかないと決意し、診察券と財布を持って自宅の前の道路でタクシーに乗りました。
 タクシーで向かった先は、1回目の手術を受けたみなと赤十字病院でした。その時はすでにみなと赤十字病院での通院治療は終わり、かかりつけの医院に毎月通いながら2ヶ月に1度、循環器呼吸器病センターに通う治療体系になっていました。だから、循環器呼吸器病センターに向かおうかとも思いましたが、前回手術をして心臓の冠状動脈に挿入したステントが詰まっているものと思い込んでいたのと、自宅からタクシーで向かう際の時間の短さから、みなと赤十字病院へと向かいました。
 20分ほどで病院に到着した私は、正面横の急患用の受付窓口で診察券を提示して、症状を話し、処置室のベッドに横になっていました。程なく救急処置室へと移され、前回と同じように心電図のモニターや血圧計などが装着されて行きました。
 そんな中でも私は心筋梗塞になるのが2回目なので比較的に落ち着いていて、先生を相手に、前回と全く似た様な症状が出たので、ステントのところが詰まったのでしょうと話しをしていました。
 しかし、そんな余裕も、直ぐになくなりました。心電図を見ていた先生曰く
「残念ですけれど、今度は左側の環状動脈が詰まっています。」
その後は前回と同じく、緊急のカテーテル手術を受けることになりました。この時は、左側の冠状動脈のかなり根元の方で血栓ができていたそうです。はっきり重症だと言われました。
 幸い、処置が早かったので命をとりとめることができましたが、自宅で直ぐに救急車を呼ばずにタクシーを使ってやって来て、しかも病院の敷地内も歩いて来たことは、後で叱られました。なにしろ、救急処置室のベットに横たわってからは起き上がれないくらいの状態になりましたので、正に紙一重だったようです。
 手術は途中で典型的な心不全の症状になりました。心臓のポンプとしての機能が弱まり、肺に溜まった水が抜けずに、咳き込みました。それでも無事に終了してICUへと移されました。前回の手術から1年と4ヶ月しか経っていなかったこともあり、ICUには見覚えのある看護師の方も何人かいて、驚いた顔と共に、
「お帰りなさい。」
と言って迎えていただきました。
 それにしても、この時期での2回目の発祥はショックでした。1回目の手術の2週間後、その半年後と1年後の合計3回、カテーテル検査を受けて心臓の状態を確認してきていたし、薬を正しく飲み、体重を始め健康状態のコントロールに人一倍気を遣ってきたのに、こんなに短期間で2回も心筋梗塞になるなんて、自分はもちろん、先生方も驚いていました。
 2回目の緊急入院も、前回と同じく2週間で退院を迎えることになりました。ただ、前回は右側、そしてこの時は左側の心臓にダメージを受けてしまったので、退院前日になっても心臓の機能が前回以上に低下しているのが判りました。
 大きな建物の、みなと赤十字病院は上層部の入院患者がいる階は、文字の”H”のような形になっています。その7階の西側が循環器病患者の部屋になっています。その循環器科の一部を歩くのもやっとの状況でした。H型の形で言うならば、左側の縦棒の、下半分を1往復するだけでも息が絶え絶えという状態でした。
 退院を翌日に控えた9月14日、先生との話の中で聴いたのは、そのときの状態は身体障害者の2級相当であり、自分でカッターシャツを着るなどの軽微な動きには支障が無いが、それ以上の動きでは支障が出て来るというものでした。もちろん、それから徐々に良くなって、体力も回復してくるだろうとも言われましたが、不安が一杯だったのを覚えています。
 先生とのカンファレンスを終え、7階に戻り、携帯電話を使っても良い場所に指定されていた渡り廊下から撮影したのが、ブログの最初に掲載したランドマークタワーの写真です。そのとき、頭の中は不安で一杯でしたが、
”もし元気になった、とにかく社会復帰をしよう。社会復帰したならば、いずれ会社を作ろう。その会社が上手く成長したならば本社をあのランドマークタワーに構えよう。”
そう前向きに、前向きに物事を考えるようにしながら、ランドマークタワーを見ていました。その時の思いは現在も続いています。
 退院の際、ICUに挨拶に行ったら当直の看護士の方から、
「もう、二度とここに戻って来たらダメですよ。」
と、声をかけてもらい、見送っていただいたのを今でも覚えています。

[7].中山道てくてく旅

 退院して1週間は母親が大阪から来てくれていましたので、気がめいることもなく不自由もありませんでした。しかし、母が自分の家に帰り、一人になると精神的に酷い落ち込みに陥りました。いわゆる心が折れた状態になっていたのかも知れません。とにかく、これから先のことが心配だったのと、前回の心筋梗塞から様々な苦しい思いをしながら、健康面と経済面でようやく立ち直り、自分の本来の能力を発揮できる仕事に就けた直後に2回目の発病になった巡り合わせの悪さで重く、暗い気持ちになっていました。
 
 自宅で療養中にたまたま見たテレビ番組がNHKの街道てくてく旅・中山道編でした。それも、土曜日か日曜日のウィークリーダイジェストだったと記憶しています。私は中学高校と滋賀県の栗東市で暮らしました。番組では元スピードスケートショートトラックのオリンピック代表選手の勅使川原郁恵さんがリュックサックを背負って、京都の鴨川の三条大橋をスタートして、大津から滋賀県に入り、草津の旧本陣を通り、栗東市内で東海道と分岐して中山道に入り、守山市から、野洲町へと向かう当たりまでが放送されました。
 その画面に現れる風景の全てが見覚えのある、懐かしいものでした。この番組を見て思ったことはひとつ、いつか自分も元気になって、彼女のように遠くを歩いて旅してみたいということでした。精神的な落ち込みが大きかった分、感動も大きかったようです。
 その後、この番組を追いかけるように、県立循環器呼吸器病センターで2回目のリハビリテーションを開始しました。ここでも、理学療法士の先生に、驚きと共に
「お帰りなさい。」
と言って、迎えていただきました。
 
 発病からちょうど1ヶ月後の10月、私はその年の8月からお世話になりだしたばかりの元の職場に復帰することができました。コンサルタントという立場で契約を貰って僅か1ヶ月で病に倒れ1ヶ月間の離脱でしたから、てっきり契約を解除されるものと覚悟していましたが、そのまま仕事に復帰することができ、しかも通院やリハビリに行く時間も確保できました。あの時はとても嬉しかったです。
 
 社会復帰してからは、前回よりは1カ月短くなった5ヶ月間の心臓リハビリを続け、リハビリ期間が終了した後は自宅の近所を中心に、日々のウォーキングを続け、1回に歩く距離を少しずつ伸ばしてゆきました。1回目の発病の時も2回目の発病の時も、退院した後数ヶ月間は、毎日の食事と体重、体脂肪率、そして運動や活動の内容をエクセルシートに記録していました。その後パソコンは何台も買い換えてきましたが、このファイルは今でも継承しています。この記録を見ると、毎日、街角1つ分ずつを刻むように歩ける距離を伸ばして行った痕跡が残っています。そして、健康状態も一本調子で回復して行ったのではなくて、好不調を繰り返しなら徐々に健康を取り戻して行ったのが判ります。
 今振り返ると、言葉では言い表せないような辛い時もありました。死にたくないから毎日必死に歩いたし、時には死んでも良いと思って歩いていたときもありました。その積み重ねの結果が現在の様に普通の健常人と比較しても、より遠くにより長く歩ける体力と脚力の獲得に繋がったのだと思います。

当時住んでいた家の近くにあった「室の木坂」


 やがて、診て貰う病院が、現在も通う神奈川県立循環器呼吸器病センター一つになり、主治医の先々も代わり、現在は循環器部長の先生にずっと診て貰っています。

[8].3回目の急性心筋梗塞

 2007年の5月には、循環器呼吸器病センターでカテーテル検査を受けました。検査をして下さったのは若い先生でした。検査後のカンファレンスでは1カ所、僅かに血管が細くなりかけているところがありますが、未だ大丈夫なのでしばらく様子を見てゆきましょうと言うことでした。
 その夜は病院で一泊することになっていました。夜に主治医の先生が病室にやって来て、過去2回の発病の経験があるから、今回見つかった血管の狭くなった部分にもステントを入れて処置する方針だと告げられました。そして7月15日に治療のためのカテーテル手術の予約を入れました。本来ならばこの程度の狭窄では、保険の関係などもあって手術に踏み込めないそうですが、この時の先生の判断が結果として3度目の命拾いへと繋がりました。
 
 7月15日の当日、循環器呼吸器病センターでの手術が始まりました。カテーテルの先端が心臓の冠状動脈まで届き撮影が始まった直後、先生が驚きの声を上げて、スタッフに1ヶ月半前の映像を出すように指示をしました。
 前回の検査で見つかっていた血管の狭窄部分では既にプラークが破裂して、血管が殆ど詰まりかけていたそうです。ただ、この時は完全に血管が詰まった状態ではなく10%弱程度、血流が保たれていました。もし、この状態であと1ヶ月も放置していたならば、血管は完全に詰まり、既に2度に渡るダメージが残る私の心臓は持ちこたえることができなかっただろうと言われました。
 この時の手術はそれまでよりも長い時間がかかりました。途中で血管の内側が裂けてステントを3個連ねて入れるなどの処置が取られました。それでも、この時は血管が詰まる前の処置だったので、新たな心臓へのダメージも無く、手術中も比較的リラックスしたままで手術台に横になっていました。
 それまで、手術と検査を含めて10数回のカテーテルでしたから、自分もすっかり慣れたものになっていました。そしてこの時点で、私の心臓に入れられたステントは全部で9個になり、血管の破裂しそうな場所は破裂してしまい、詰まりそうな場所はステントで守られたフルメタルジャケット状態になりました。
 
 私の様に、極めて厳重に管理された中での短期間で、3回も急性心筋梗塞になるのは極めて希だそうです。みなと赤十字病院の先生も、2回目の治療のあとで、3回目の発症があったら医学界で発表できるほどの珍しい例になるので、先ずその心配は無いでしょうと言っていただいていましたが、しっかりとその3回目を経験していまいました。
 
 しかし、その後は血管が詰まることはなく、心臓のダメージを受けた部分はそのままで、左右とも下半分は動かないままですが、ここからそれ以上に、あり得ない状況で身体状況が回復してゆきました。
 そしてその奇跡をもたらしたのは、支えてくれた人達の暖かさ、強くはないけれど負けない精神力、そして毎日のウォーキングでした。

第2章 会社の設立と成長

[1].転換期

 2006年8月から始めた最先端のフォトマスク検査装置の事業化サポートの仕事は2008年3月で終了となりました。その当時は半導体産業全体が不況期にあり、特に日本国内は長期凋落傾向に拍車がかかってどんどん市場が縮小して行く過程でした。そんな中で2度の心臓の手術を行い、健康に不安を抱える私との契約を続けられなくなった先方の事情もよく納得のできるものでした。
 4月からは、東京の港区浜松町にあった知人の会社にお世話になりながら、新規のビジネスの構築を考えていました。
 
 健康面では、安定期に入り、ウォーキングの距離を徐々に伸ばして行きました。自宅の周囲にイトーヨーカ堂が3店舗在り、それぞれ歩いて行くことができます。上大岡店、上永谷店、別所店です。その3つの店舗を廻る「ヨーカ堂めぐりコース」など、自分で名前を付けた散歩コースを開発してゆきました。特に、上大岡店には日本のデニーズ発祥の地となったデニーズ上大岡店があり、お気に入りスポットとして私のブログでもたびたび紹介しています。
 2か月に1度の通院では、先生が私のウォーキングの状況聴きながら、もちろん、種々の検査結果を見ながら、投薬する薬の調整してゆきました。特にアーチストという薬は心臓を保護し、最も危険な心臓の拡張やリモデリングのリスクを減らす効果があります。その一方で、この薬は心不全を引き起こす潜在的なリスクもあるので、弱った心臓にはあまり多くの量を投与できません。2回目の手術直後の投与量は1日2mgでしたが、その後の回復で徐々に投与量が増えて行き、現在は1日20mgまでになりました。
 
 知人の会社にお世話になりながら、新しく始めるビジネスの内容を考えていました。自分はこれまで半導体用フォトマスクという非常に狭いフィールドで生きてきたので、そこから大きくはずれることができないだろうという保守的な考を持っていました。その中で日本の半導体メーカの行く末を考えたときに、微細化や最先端のLSIで競争力を保っていけるのはそんなに長くないだろうということははっきりしていました。隣国の企業達のバイタリティー、変革のスピード、投資の規模とタイミングに比較すると日本の企業は半導体、フォトマスク共にこれらの全てで劣勢状態でした。
 そこで考えたのが、最先端のLSI用ではなく、ミドルからローエンドの半導体チップを対象とした、それらを製造するために使用するフォトマスクのための検査装置でした。この、一般的にはなじみの薄いニッチな市場でのビジネスの構築を目指したのですが、その考えが後々まで苦労の種になりました。
 その話は徐々にすることにしまして、ミドルからローエンドクラスのフォトマスク検査装置でのビジネスを目指したのにはそれなりのしっかりした市場の読みと勝算がありました。お客様に当たるフォトマスク・メーカ各社を廻り、このクラスの検査装置の需要が依然としてある一方で、年月を経た古い検査装置の退役がどんどん進んでいました。その一方で、世の中で製造されている検査装置は、メーカの寡占化が進み、最先端のフォトマスクを対象としたものか、せいぜいその2クラスくらい下のクラスをターゲットにしたものしかありませんでした。半導体は技術の進展のスピードが速く、年々パターンの微細化が進んでいました。この流れについて行くためには、半導体メーカは常に最先端の装置への投資を行い、より前の装置への投資は殆ど行っていませんでした。それ故に、製造装置メーカも先端品の開発用の装置か、せいぜい試作から量産に移行する時期に合わせた準先端品向けの装置に事業をフォーカスしていました。
 その中で見えて来たのが、将来のパワー半導体市場の盛況です。パワー半導体というのは、電気、電力を制御する半導体の総称です。一方で、メモリやCPUなど、電気信号の制御、保存、伝達に係わる半導体デバイスのことを、シグナル半導体と言います。先に述べてきた、早いペースで微細化の一途を辿る半導体はシグナル半導体の方です。シグナル半導体は2008年の半ば当時で、設計ルール45nmクラスのデバイスの開発が盛んに行われていました。パワー半導体の方は、微細化はあまり進展せず、設計ルールで1μmよりも大きなデバイスがまだまだ主流でした。
 しかし、パワー半導体の優越を決める性能の中には、節電とか省エネという、電力消費に直接関わる性能が含まれています。その当時アメリカの大統領はブッシュ大統領(Jr)でしたが、それでも既に地球温暖化の問題はクローズアップされ、CO2削減のためのグリーンテクノロジという言葉も普及し始めていました。
 CO2削減には、再生可能エネルギーなどクリーンなエネルギーで起こした電気エネルギーを広く効率的に利用することが最も効果的ですが、そのあらゆる段階でパワー半導体は重要な役割を果たします。
 さらに、その当時にはSiCやGaNなどの化合物半導体を用いた新世代のパワー半導体の実用化がそろそろ見え始めていたときでした。
 これらのことを熟慮した結果、大手装置メーカが手を付けておらず、市場規模もそれほど大きくならず、ニッチな市場としてのミドルからローエンドのフォトマスク検査装置の市場の誕生を信じて会社の設立を決意しました。

[2].会社の設立

 意を決した次は、何等かの行動に移す段階になります。
 そこで、毎年、年に1回のペースで横浜にて開催される「横浜ビジネス・グランプリ」に自分の事業プランを書いて応募しました。一次審査向けにエントリーシートにビジネスプランを書き上げて、事務局に提出した日が2008年 9月15日でした。その日にアメリカで投資銀行であるリーマン・ブラザーズが経営破綻しました。いわゆるリーマンショックの始まりでした。私も翌日以降、リーマン銀行の破綻のニュースは把握していましたが、当初はそれほど深刻な問題になるとの意識はなく、マネーゲームに走ったアメリカの投資銀行の一つの破綻という認識でした。
今にして振り返ってみると、この半導体用フォトマスク検査装置の開発と販売を目指した当社の事業は、ビジネス構築の節目・節目の、ここが勝負所というタイミングで、世の中の困難な事態に遭遇してきました。めぐりあわせの悪さというものを感じましたが、それが運命というものかも知れません。
 
 その年の年末にかけてリーマンショックはサブプライムローン問題を誘発して100年に1度とも言われる世界恐慌へと進展してゆきました。その中での会社の設立準備だった訳ですが、11月に誕生したオバマ政権には期待をしました。石油業界とのつながりの深い共和党のブッシュ政権に代わって、若い民主党政権が誕生したことで、その当時の不況対策としてのグリーンテクノロジのいっそうの推進が期待できました。
 2009年になると、神奈川産業振興センターにて、企業家のために設けられたビジネスプラン実践講座に参加し、会社設立のためのノウハウを勉強しました。その一方で、仕事で知り合った相棒S氏に手伝って貰って、設立のための定款作りや登記を薦め、知人からの出資を仰いで資本金を準備しました。 
 そして、S氏を取締役に迎え、2009年4月7日に、神奈川産業振興センター7階のインキュベーションオフィスにて株式会社アジャイル・パッチ・ソリューションズを設立しました。
 
 その時から日本のベンチャー企業と同じ、資金調達の問題に悩まされ続ける日々が始まりました。本格的に装置を開発するためには、十分な資金を考えると5億円程度の投資を必要と考えていました。これは後に様々な技術検討や協力会社や部品の選定を経て、最終的には1億5千万円まで圧縮できたのですが、それはもっと後になってからのことでした。
 当初は、S氏の伝で、いわゆる日々の食いつなぎのための収入を得る見込みが立ちました。それも開発に係わる仕事でした。また、彼は2000年に自分の会社を設立いて、ベンチャーキャピタルから多額の資金を集めた経験があり、資金調達に自身を持っていました。

[3].資金調達の壁

 会社の設立の少し前、2月頃から二人で事業計画書を持ってベンチャーキャピタル各社を周り始めました。もちろん、5億円は一揆に調達するのではなく、段階を経て、事業の伸展に併せて調達するプランにはなっていました。 
 ベンチャーキャピタル各社を周り始めて直ぐに、ベンチャーキャピタルから資金を調達することは容易でないことが判ってきました。相棒が自分の会社のための資金調達に成功した2000年と言えば、ちょうどITバブルの頃で、1990年のバブル崩壊以降、日本経済も立ち直るかに思えた頃、投資も盛んに行われていた頃でした。それに比較して2009年はリーマンショックに端を発した不況、新興市場の冷え込みなどで、ベンチャーキャピタル各社の運営状況も非常に厳しく、彼等の投資意欲は最悪でした。
 自分では冷静に深く市場を分析し、強力な競合が出現しにくくニッチで確実に成長が見込めるビジネスプランを練って交渉に臨みましたが、殆ど相手には伝わりませんでした。
 半導体業界と言うだけで門前払いをされたこともありましたし、当社とは全く違った事業計画を持った他の会社への投資の失敗の恨み辛みを聞かされることもたびたびでした。この頃は、自分の説明能力、相手に伝える力の物足りなさを痛感すると共に、違った形の資金調達を目指さなければならないと考え始めていました。
 
 資金調達の方法として次に考えたのが、国や自治体、その関係団体などが行っている制度融資による調達です。この制度を利用して当面の開発資金を調達しようと考えましたが、それも直ぐに難しいことが判ってきました。各種の制度融資のパンフレット、小冊子の中には、融資の金額の上限と、利率、貸出期間などと一緒に、融資を受けられる企業の条件が掲載されていました。この条件を満たしている有し案件が多くあり、その意味では融資を申し込む資格はありました。
 しかし、問題はそこから先にあって、審査を申し込んでも実績がない上に、開発する装置の金額が大きな当社の事業計画はことごとく審査に不合格になりました。国や自治体が行う制度融資の場合、最終的に融資の可否をするのは、たいていの場合は現在の日本政策金融、その当時の国民政策金融公庫、いわゆる国金でした。国民政策金融公庫といえども、銀行であることには変わりありません。もとより、銀行はリスクを嫌うものであり、リスクマネーであるはずのベンチャーキャピタルからの投資も得られない当社の事業計画に、国民政策金融が融資に応じてくれる可能性はあまり期待できませんでした。
 それでも、会社を設立した当初は少ないながらも安定した仕事があり、それが自分のキャリアを活かせるものであったために、充実した時間を過ごすことができました。

[4].インドへの出張

 2009年7月にはS氏と一緒にインドのバンガロールに出張しました。この出張は2005年に病に倒れて以降、初の海外出張であり、とても思い出深いものになると同時に
一段と健康に自信を取り戻し、さらにインドを好きになる出張となりました。
 バンガロールへのルートはいくつかありますが、直行便は飛んでいません。そこで私達はシンガポール航空を使って、シンガポールのチャンギ空港で乗り換え、バンガロールに向かう便を選択しました。シンガポール経由は距離的には長くなりますが、乗り継ぎの間の待ち時間が行きも帰りも、2時間から3時間になっていて、トータルの移動時間は他と遜色がありませんでした。
 成田からシンガポールまでは、その当時就航したばかりのエアバスA380型機に乗り込みました。総2階建ての豪華な旅客機ですが、エコノミークラスは、目の前の液晶ディスプレイが大きいことくらいで座席は他の機材と比較してあまり違わないような印象を受けました。座席に座って、いつかはビジネスクラスで世界を飛び廻るようになりたいと思いました。
 そして、飛行機がボーディングブリッジを離れて滑走路に向かっている時でした。何気なく前の座席のポケットに入っていた「機内安全のため」のしおりを見ていました。その中に、“心筋梗塞を発症して時間が経過していない方や重症の方は、航空機の利用をお勧めできません”という記述を発見しました。既に飛行機は離陸に向けて動き出しているし、飛行機の中でこんなのを見せられてもどうしようもありません。少し焦ってしまいました。

チャンギ国際空港へと向かうシンガポール航空A380の機内


 バンガロールには何事も無く到着し、訪問先とのミーティングもこなして無事に日本に帰ってきたときにはすっかりインドが好きになっていました。以前から、インドを訪問した日本人は、その後、インド再び訪問したくなるか、もう行きたくなくなるかどちらかになると聴いていました。私の場合は間違いなく何度でも行きたくなりました。
 訪問先の会社で会ったエンジニア達はみな、真剣にこちらの言う話しを聴いてくれて、自分の率直な意見を返してきてくれました。その中で、気が付いたのは彼等は一つの案が提示されると、積極的にさらにそれより良い、具体案を出そうと努力することです。こちらの持って行ったアイデアに対して、それよりも自分たちが考えたやり方の方がなお良いと提案してくるのです。その中にはこちらの提案に対する否定も含まれているのですが、それが前面に出てこないのが彼等のスタイルです。もちろん、個々の検討項目に対してYES/NO(肯定/否定)の両方の答えがあるのですが、全体として”こうした方がより良い結果をもたらす”という、ポジティブ・シンキングのスタイルが貫かれていました。
 この会社とは、その後何度かお互いに行き来したり、先方から長期滞在でエンジニアを向かい入れたりもしましたが、終始一貫してこの印象は変わりませんでした。これは、おそらく彼等が受けてきた教育によるところも多かったことと思います。

訪問先の会社が入居しているビジネスセンター

[5].ビジネスオーディション

 2008年の後半から2009年の前半にかけて、相変わらず開発のための資金調達に苦労していた私が次に取った作戦は、各種のビジネスオーディションへの参加でした。装置の形ができていない中でのビジネスオーディションへの参加は不利な面は否めませんでしたが、それでも切々と訴えることで何か突破口が開けるかも知れないと考えての参加でした。
 その結果、大賞などは貰えませんでしたが一定の評価と賞はいただけるようになりました。
 かながわビジネスオーディションでは決勝まで残り、来場者賞をいただきました。来場者賞というのは、ビジネスオーディションを観に来た聴衆の人気投票によって決まる賞です。「環境関連ビジネスの需要に応えるフォトマスク検査装置の開発と販売」という、なかなか一般には判りにくいタイトルと内容での応募でしたので、来場者賞を貰えたのは意外でした。この結果に功績があったのは、スティーブ・ジョブズの有名な2005年6月のスタンフォード大学の卒業式での講演の最後の言葉、”Stay hungry Stay foolish”を使わせていただいたことかも知れません。この言葉は彼の死後、さらに有名になりましたが、私はこの言葉よりも、同じ講演で語られていた”Connecting darts”(布石を打つ)という言葉により強い感銘を受けていました。だから、最後の締めくくりに”Connecting darts”の方を使おうかとも考えましたが、より印象に残るようにと考えて”Stay hungry Stay foolish”を使わせていただきました。この言葉はその当時既に有名になっていましたが、改めてスティーブ・ジョブズの偉大さとカリスマ性を感じました。

かながわビジネスオーディション決勝プレゼンのラストのスライド

 このころ参加したビジネスコンテストには他に、前年に引きつづき横浜ビジネス・グランプリがあります。この横浜ビジネス・グランプリにはほぼ毎年同じネタで、その時々の進捗状況をアップデートしながら、3年連続エントリーしました。その結果は1年目が一次審査を通過して2次審査で落選、2年目と3年目ではいずれも一次予選、2次予選と通過してセミファイナルまで進みました。しかし、プレゼンテーション形式で行われるセミファイナルの厚い壁を破ることができず、結局、ファイナルグランプリには進む事ができませんでした。 しかし、変化の激しい半導体業界にあって3年も連続で同じことを言い続ける事ができたのは、それだけ先見の明があったからだと思っていますし、確たる証拠がビジネス・グランプリに参加という形で残ることになりました。 他には、起業家達を応援する会社である株式会社ケー・エス・ピー主催のビジネスオーディションに参加して最終の4社に残り、川崎市産業振興会館主催のビジネスオーディションに参加して最終審査まで残り、企業家賞をいただきました。  また、インドの会社の協力を得て開発したメモリボードをテクニカルショウ横浜で実機展示し、それを使ったフォトマスク検査装置の開発計画について,フォトマスク関連の国際会議であるフォトマスク・ジャパンでプレゼンテーションを行いました。 実際の装置ができていない中での奮闘としては、よく頑張ったと思っています。


[6].委託事業の獲得

 当社に転機が訪れたのは2010年の6月でした。それまでの相棒だったS氏と別れた私は、外資系メーカ時代の同僚だったK氏に手伝って貰いながら、神奈川県が募集していた厚生労働省のふるさと創生資金を活用した委託事業「グリーンIT活用産業振興事業」、経済産業省の委託事業である「戦略的基盤技術高度化支援事業(サポイン)」、そして独立行政法人・新エネルギー・産業技術総合開発機構(NEDO)の助成事業である「イノベーション実用化開発費助成事業」にそれぞれ応募してゆきました。
 
 資金調達に関して、投資もダメ、融資もダメだった結果、私が次に取った作戦が中小企業支援策の委託事業、助成事業の獲得でした。
 それぞれの委託事業、助成事業共に高い競争率でしたので、応募したからといっても採用されるかどうかは全く判らない状態でした。
 それでも、半導体用フォトマスクのビジネスに関しては誰よりも先見の明があるという自信と、それまでのビジネスコンテストにいくつも参加続けて得たノウハウを頼りに、何とかなるとの信念を持って審査に臨みました。
 その結果、応募した3つとも書類審査を順調に勝ち残ってゆきました。そして最初の6月に面接審査を終えて神奈川県の委託事業「グリーンIT活用産業振興事業」に採択されました。この委託事業は、雇用推進を目的とした事業なので計画書通りに新規雇用を生み出すことが必須条件です。
 その次に、経済産業省の委託事業である「戦略的基盤技術高度化支援事業」にも採択されました。国や地方自治体が民間企業に対して行う委託事業や助成事業は、税金を財源として行われます。そのため、その事業には必ず重複受給の禁止と過度な集中の抑制という制限がついてきます。重複時給の禁止というのは、一つのことを行うのに、委託事業や助成事業で支給される資金から二重に受け取ってはならないというものです。過度な集中の禁止というのは、その会社の規模から判断して、遂行不可能な数の委託事業、助成事業を受けることは避けるべきというものです。
 私もこの条件を把握していたので、グリーンIT活用産業振興事業に関してはハードウエアの開発スタッフを雇用することを書き、そのための人件費を請求項目の大半で占めました。一方、戦略的基盤技術高度化支援事業については組み込みソフトウエアの自動化のテーマに沿って、ソフトウエア開発の外注費やプラットフォームのソフトウエア購入、そしてソフトウエアの開発に当たる研究員の労務費の一部などを計上しました。このようにしてハードウエアの開発のための人員の人件費中心と、ソフトウエア開発のための外注費とソフト購入を中心に性格分けをしていたことが幸いして、両方とも重複と過度な集中の懸念も払拭でき、受託することができました。
 そして、あとに残った、新エネルギー・産業技術総合開発機構が募集していたイノベーション実用化開発費助成事業については、先の2件と重複している部分もあり、過度な収集中にも抵触しそうなので、途中で応募を辞退することになりました。
 委託事業のお金というのは予め用途が定められていて、非常に使い辛い面もありましたが、とにかく多額の資金調達のめどが付き、事業の信憑性に対するお墨付きもいただいたようなものだったので、後は民間の投資資金を得てそれらを使用目的に応じて使い分けながら進むと考えていました。
 そこで、社員、応援スタッフを含め8人に人員を増やし、同じ神奈川中小企業センタービルの7階の同じフロアに大きな部屋を借りて、本格的な装置開発に取りかかりました。
 この年の9月には官民一体で新世代のパワーデバイスであるSiCを使ったパワーデバイスの開発を目指す団体SiCアライアンスにも加盟することになりました。SiCアライアンスの発足当時、民間企業からの参加は全部で29社でした。そのメンバーは大手半導体メーカやその顧客である電気器機メーカ、自動車メーカ、そして半導体製造装置メーカなどでした。いづれも名の知れた日本を代表するような会社に混じって、無名の当社が参加できたのはとても嬉しい出来事でした。

[7].会社の発展と自信

 二つの委託事業の獲得に、SiCアライアンスへの参加、周囲の誰もが当社の飛躍的な進展に驚いてくれましたが、その当時が一つの頂点であったようです。会社のある神奈川中小企業センタービルの会議室に新しく加わった社員と役員全部に、相談役に顧問を加えた11人でキックオフミーティングを行いました。そこで中期計画を発表した私は、ビジネスの成功に対する確たる自信を持っていたと同時に、委託事業が終了する2012年の3月までに一通りの成果を出すことへの決意を述べました。
 
 新しい体制での開発が本格化した9月以降は、SiCやGaN等の新世代パワー半導体用フォトマスクの検査装置の開発を唯一の業務としてハードウエアグループ、ソフトウエアグループの二つの部門で順調に仕事が進みました。
 当社が開発を目指していた装置は、高度な、そして重たい技術開発を伴う最先端の装置ではありませんでした。新世代のパワー半導体用のフォトマスクといえども、ターゲットとする設計ルールは1μmから0.25μmであり、45nmから30nmの領域に到達しつつあるシグナル半導体と比較すると10倍以上大きなパターンを対象にしていました。
 そのために用いるのは過去の技術の焼き直しであり、高性能化と低価格化、小型化が進んだ汎用部品の積極登用と、スキルのある協力会社を集めてのファブレス生産のビジネスモデルを採用していました。そのために、開発スタッフにも、フォトマスク検査装置に精通した者や、CADに精通した者を採用し、当社の開発方針、手法をくどいくらい説明し、理解し納得した上で、開発を進めてゆきました。
 
 会社の規模が大きくなった中で、私は新しい仕事に追われました。規模が大きくなったと言っても協力会社からの常駐社員を含めて10人に満たない人数でした。しかし、私にとっては始めて自分で起こした会社であり、技術以外の様々な仕事や来客対応に時間を取られるようになりました。
 その中で、資金調達だけは相変わらず思うように成果が上げられませんでした。何も無く夢だけを語っていた時とは違い、国と神奈川県のそれぞれから委託事業という形で事業に対するお墨付きを貰い、会社としての体裁も整ってきました。また、開発には大手顧客もアドバイザーとして参加していただけるようになっていました。いつも助言を下さっている周囲の支援機関の方達も、これで資金調達は大丈夫だろうと言って下さる方がたくさんいました。それでも、ベンチャーキャピタルを相手にした交渉は一向に成果をあげていませんでした。そこで判ってきたことは、多くのベンチャーキャピタルは投資する意欲そのものが殆どない状況であったと言うことです。リーマンショックから僅か1年、彼等はまだまだ過去の投資の重荷を背負ったままで、新たな投資を検討するどころか自分達の生き残りに四苦八苦している状況であったようです。

[8].旅への思い

 ”これは手強い交渉が続きそうだ”そう感じた私は、長期戦を覚悟すると共に、少し息抜きのために、何か新しいことを始めてみたいと考え始めました。
 ちょうどそのころ、横浜では11月にみなとみらい地区にあるパシフィコ橫浜をメイン会場として開催されるAPEC(アジア太平洋経済協力会議)の準備が進んでいるときでした。日本全国から警備のための警察官が横浜に招集され、街の中には背中に派遣元の都道府県の名前が入った制服を着た警察官や、それぞれの警察のパトロールカーを多く見かけるようになりました。
 暇を見つけると横浜の街中を散歩する習慣が身についていた私は、細切れでも時間を見つけてはパシフィコ橫浜周辺に散歩に出かけ、会場の設営や、警備の体制が進む光景を見ていました。余談になりますが、私は徐々に警備が厳しくなって行く会場周辺に頻繁に出かけましたが、一度も職務質問を受けたことはありませんでした。よっぽど人相が良いのか、それとも既に面が割れていて、警察の間で”あいつは相手にしなくてもよい”という扱いになっていたかのどちらかでしょう。
 
 ある面では華やかだったAPECも無事に終了し、静かとは言えないけれども落ち着いた横浜の街にもどったころ、新たに始めることの中身を決め始めていました。
 最初の心筋梗塞の発症から5年が経ち、日々のウォーキングで脚力に自信を付けてきていたこともあり、これからも続くであろう長い資金調達交渉をのりきること、そして何よりも自分の健康によりいっそうの自信を取り戻すことについて、遠くに歩くてくてく旅がそれに相応しいだろうと考えました。

第3章 歩きつなぎのてくてく旅

[1].旅立ちの決意

 2010年の秋から少し歩いて遠出をしてみたく思うようになりましたが、もともと歩いて旅をしたいと思ったのは第1章に書いたように、病気療養中の2006年の9月にNHKで放映していた「街道てくてく旅」の第4弾、中山道編を毎日見ていた頃です。スピード・スケート、ショートトラックの勅使川原郁恵さんがリュックを背負って、小さなカメラを持って中山道を京都から日本橋まで歩くシリーズです。あれから約4年経って、ようやく自分も同じようなスタイルで遠出してみることを決意しました。
 といっても、平日は仕事を空けるわけには行きませんので、日曜日や祝日に少しずつ歩き、その日の終わりの地点を、次回のスタート地点としてつないで行くことにしました。 そこで、自分の旅の第1弾として、逗子をスタートにして湘南海岸に沿って西に進み、先ずは小田原まで歩こうと思いました。小田原には2011年の1月16日に到着してしまったので、ゴールをもう少し先に伸ばして伊豆半島の下田で桜を見ることに変更しました。
 この週末毎の旅を続けている途中の3月11日金曜日にあの、東日本大震災が発生しました。
 
 旅の始まりは2010年11月28日。新逗子駅。スタイルはリュックサックの中にコンビニおにぎり2つとミネラルウォータを入れました。ベルトにはiPod nano、これは万歩計として使います。首からはiPod touchをぶら下げて、これは地図と音楽用に使います。iPod touchの相棒に、リュックの横ポケットにイーモバイルのポケットWiFi D25HWを忍ばせていました。これがあるとiPodで地図を見ることができて、自分の位置も表示されます。欠点はD25HWの電池の持ちがあまり長く無いことでした。横浜を離れて長距離を歩くことに少し不安があった私は、D25HWの電池の持ち時間の短さを逆に利用することにしました。つまり、D25Hの電池の持ち時間―だいたい5時間くらいでしょうか―を1日に歩く時間の目安にしました。
 
 そのころすでに私は、横浜市内を平日で1万歩、休日は3万歩以上を歩くようになっていました。いつも1万5千歩当たりを休息の目安として、3万歩歩く時には1万5千歩を何処かの折り返し地点にしていました。ちょうど自宅から横浜市中区の関内にあった会社まで、普通に歩いて1万2千歩でしたので、途中何処かに寄り道して、会社に出勤し、少し仕事や掃除をして、また寄り道しながら帰るというパターンが一番多くなっていました。
 3万歩歩けると何処かのウォーキング大会に出かけてもだいたいのコースは完歩できると思いますが、やはりまだ心臓のことを少し心配していました。道ばたで倒れて座り込んだ記憶はいつまでも鮮明に残っています。横浜市内だと何処で倒れても、直ぐに見て貰える二つの病院があるので、それが安心となって、外に踏み出す勇気が無かったのです。
 でも、そんな不安や弱気を抱えたままでは、これからの難局、会社を継続して行くことなどはかなわないことも判っていたし、何処かで踏ん切りを付けて、前に踏み出さなければならないとも思っていました。
 

[2].シリーズてくてく旅

 京急の新逗子駅を降りて実際に歩き出すと、横浜市内のウォーキングとさほど違った感じとか、心配は起きてきませんでした。心の中では”案ずるより産むが易し”なんだと感じていました。駅を出発して海側に歩き、田井川に沿って下流に歩いて行くと10分くらいで橋のたもとの交差点に出ます。交差点の名前は、橋の名前から「渚橋」になっています。サザンオールスターズのSEA SIDE WOMAN BLUESの歌詞に出て来る渚橋だと思いますが、この橋を左に行くと三浦半島、右に行くと逗子の海岸から鎌倉、江ノ島と続く湘南海岸です。この交差点が歩きつなぎのてくてく旅の出発地点となりました。
 
 2010年11月の末に始めた歩きつなぎのてくてく旅は、翌年の1月の後半から始めた私のブログでは全部で5つのパートになって書き続けてきました。
 最初が2010年11月29日に新逗子をスタートして2011年4月30日に、伊豆急下田駅にゴールインをした「湘南・伊豆てくてく旅」です。この旅が続いている途中の2011年3月11日金曜日に東日本大震災が発生しました。そのときまでに、伊豆半島の伊東市川奈まで歩いて来ていました。震災の発生日は金曜日でしたので会社にて仕事をしていました。それから1ヶ月間は社会がそうであったように、私もウォーキングという”レージャー”は自粛していました。
 そして、世の中が少し落ち着きを取り戻しはじめた4月3日の日曜日に、逗子の渚橋から三浦半島を三崎口駅まで歩くという、近場から反対方向へのコースでウォーキングを再開しました。翌週からは震災前まで到達していた川奈まで戻り、4月中に旅を完了しました。
 
 次のシリーズは5月5日に三浦半島の三崎口駅を出発して東京湾沿い歩き、7月10日に日本橋に到着した「東京湾てくてく旅」シリーズです。この旅は風光明媚な城ヶ島をゴールデンウィークという日本で一番気持ちの良い季節にスタートして、横須賀、横浜、川崎という大都会を通り抜けて東京の都心に入って行きました。日を追う毎に気温が上昇してくると共に、アスファルトに囲まれた大都会の街中を歩く事になったので、後半は熱暑の中を熱中症になりそうな中でのウォーキングになりました。
 
 3番目の旅のリーズは日本橋を起点として、房総半島の南端、野島崎を目指すコースでした。実質的には三浦半島を起点とした「東京湾てくてく旅」から続いているのですが、日本の全ての道の原点である日本橋をスタート地点にしたかったことと、その当時の世の中の沈滞ムードを少しでも何とかしたいという意味を込めて「南の風を起こそう」という名前の新しいシリーズとしました。
 この旅は2011年7月11日の日曜日に日本橋を出発し、東京湾の沿岸部を館山に向かって歩き、館山からは外房に出て、10月16日に野島崎に到着しました。横浜から東京湾をぐるっと廻った旅になりましたが、はじめの頃はJRの京葉線や内房線を、途中からはアクアラインを通って木更津まで結ぶ高速バス、そして久里浜と金谷を結ぶ東京湾フェリーなどを活用しながら行き帰りの移動時間の短縮に努めました。
 とにかく、熱い真夏を歩き続け、ゴールインする頃には涼しい秋になっていました。
 
 4番目のシリーズは2011年10月23日日曜日に自宅近くの上大岡駅を出発して2012年2月12日に伊豆急行下田駅に到着した「湘南・伊豆各駅ウォーク」です。湘南を通って、東伊豆を下田まで歩くというのは第1シリーズの「湘南・伊豆てくてく旅」とほぼ同じでした。大きな違いは二つ。出発の駅からゴールの駅まで途中にある駅に全て立ち寄りながら歩いたことと、途中で「第8回伊豆急全線ウォーク」という伊豆急行主催のウォーキング大会に参加したことです。
 伊豆急全線ウォークは、毎年秋から春のウォーキングシーズンに開催されるイベントで、伊豆急行の全駅に立ち寄りながら入場券を購入し、クイズに答えて記念品を貰うイベントです。私はそれを延長して自宅の最寄り駅から全線全駅に立ち寄ることにしました。この旅の途中に「サーフィン発電」の登録商標とその形のひとつである「SNB型」の特許を申請しました。自分達の国は、海から大きな痛手を受けたのだから、今度は何とか海から大きな力を貰えないか、そう考えて考案した発電方式です。
 
 5番目のシリーズ、これがおそらく最後の歩きつなぎのてくてく旅になると思うのですが、2012年2月27日の日曜日に伊豆急下田駅を出発して、伊豆半島の先端の石廊崎に立ち寄った後に、伊豆急全線ウォークに参加しながら伊東駅まで到着し、その後も全線全駅に立ち寄りながら6月3日に上大岡駅にゴールインした「元気に帰ろう」シリーズです。この旅をスタートする頃になると、会社の行く末というのもほぼ見えていました。とにかく誰も何も決断したがらない様子見社会。その中で投資を獲得して何とか事業を次のステップに繋げる努力を続けていましたが、薄氷を踏む思いの日々が続いていました。
 タイトルには、何とか会社を次のステップに進めようと、元気な世の中に帰るという願いと、自宅に無事に帰り着く願いをこめて「元気に帰ろう」としました。

[3].いざ鎌倉へ

 話しをてくてく旅シリーズの最初、「湘南・伊豆てくてく旅」に戻します。
 自分たちの会社ではサーファイン発電という商標と、水平方向の波の移動の力を使った発電方法の特許を取得しましたが、この方式の発電については、てくてく旅のかなり早い時期から何となく考え始めていました。
 渚橋の交差点を右に曲がると、白い砂浜が綺麗な逗子の海岸が目の前に広がりますが、その手前に在るのが交差点の名前にもなっている渚橋です。私はこの橋を渡っている途中に、波を集めてエネルギーに変えるという基本的なアイデアを既に考えつきました。
 元々が、グリーンテクノロジ時代の到来を予見して、それに係わる半導体関連ビジネスでの成長を目指して会社を設立しましたので、再生可能エネルギーの一つである波の力の利用に考えが及んだのは、ごく自然な成り行きでした。
 但し、その当時は何となくおぼろげに考え始めた気楽なアイデアの一つでした。当時会社の運営では、なかなか進展がしない資金調達問題に悩んでいて、ベンチャーキャピタルを相手に細かな計画のすりあわせをしている毎日でした。日曜日のウォーキングは自分の体力に自信を取り戻すという意味もありましたが、単純に気張らし役目も果たしていました。そんな中で波を見ながら歩くのはとても気持ちの良いものでした。
 そして、その日はたまたま海が荒れていて、普段は静かな逗子の海にも白波が立っていました。白波の中を、腕に覚えがあるウィンドサーファー達が、勢いよく水面を滑っていました。

 この時はまだ旅のお供にカメラを持って行っていませんでしたので、首から下げていたiPodで海の写真を撮りながら鎌倉方面へと進んで行きました。
 最初の旅は、逗子から小高い山というか高級住宅地の中を抜け、逗子マリーナで再び海岸線に出て材木座海岸を歩き、鎌倉駅まで行きました。
 この日の旅の最後に鶴ヶ丘八幡宮にお参りしました。小さな旅でしたが、自分にとってはとても大きな、自信を取り戻す旅となりました。

歩きつなぎのてくてく旅で、最初に訪れた鎌倉・鶴が丘八幡宮

[4].湘南を西へ

 その後も、休日を使って旅を続けて行きました。
 2010年は12月19日にJR東海道線の茅ヶ崎駅に到着してその年の旅の終了となりました。この間では、江ノ島から茅ヶ崎まで国道134号線の砂よけの向こう、つまり海岸に伸びる長い遊歩道を歩くのがとても気持ちが良かったのを覚えています。
 普段は逗子の海岸よりもこの辺りの方が大きな波がやって来ます。だから逗子の海岸ではウインドサーフィンが主流ですが、こちらはサーフィンが主流です。それでも、ベタ凪と言えるような天候の良い日ばかりだったので、のどかで気楽なてくてく旅を付けることができました。
 
 明けて2011年の1月は正月や出張などがあり2回しかてくてく旅をできませんでした。この2回で茅ヶ崎駅から小田原駅まで到着しました。
 1回目は1月2日。ちょうど、大学対抗箱根駅伝の往路が行われた日ですが、箱根駅伝が通過して、観客がだいぶん帰路についた後の11時過ぎに茅ヶ崎駅を出発しました。空は快晴で空気が澄んでいて気持ちの良い一日でした。
 茅ヶ崎の海岸に出てみると、西の方に富士山がくっきりと見えたのを思えています。そして多くの人達が海岸にやって来て、陽の光を浴びながら日光浴をしていました。お正月休みに海を見ながらのんびりと時間を過ごす。とても気持ちの良い正月の過ごし方もあるものだと思いました。
 そして、平塚のビーチテラスで、途中で買って来た肉巻きおにぎりを食べました。冬のさなか、リュックに2時間も入れていたのでとっくに冷たくなっていましたが、それでも何よりのご馳走でした。
 湘南海岸は車に乗って国道134号線、そして湘南バイパスと通過してしまうことが殆どですが、こうして逗子、鎌倉から海岸沿いをゆっくり歩くというのはクルマで走り抜けるよりも何倍も楽しいものです。そして、単調な砂浜が続く湘南海岸にもいろんな表情があり、いろんなお立ち寄りスポットがあるのをこの時改めて知りました。
 
 1月16日、この日は大磯駅から歩き始めました。この冬一番の寒さで風がとても冷たい日でした。iPodの中のお供の音楽は坂本冬美のカバーアルバム LoveSongsII、冬の曲がいくつか入っていてこのシーズンにぴったりです。余談になりますが、中島みゆきのカバーは良く歌われていますが、このアルバムの中の「ひとり上手」と中森明菜の「悪女」はぞくぞくするほど良いと思います。
 歩き始めて3時間くらいで酒匂川に到着しました。酒匂川は県が管理する二級河川ですが、なかなか大きな川です。橋に出ると川の上流方向から吹きさらしの強い風ががんがん当たってきます。皮のジャンバーを着ていましたが、顔から体温が奪われて行く感じです。
 でも、この寒さを何とか写真に撮ってみたくなりました。吹雪や雪の景色だとすぐに寒さは伝わりますが、晴れて雪もない場所ではなかなか難しいです。雲の形で見せるしかなないと思いました。
 国道1号線に架かる橋のほぼ中央に立って、丹沢の山々を背景に流れてくる川の上流の景色の写真を撮り続けました。そのうち、身体が冷え切って、耳の辺りがずきずきして来ました。急いで橋を渡ろうと思ったら、200メートルくらい有りそうです。じゃあ、引き返そうかと後ろを見ても同じくらい有りそうに見えます。とにかく寒い。かといって、真昼の国道1号線で遭難するのもおかしいので先を急ぎました。ちょうど、イヤフォンからはこの日何回目かの「さらばシベリア鉄道」の唄が聞こえてきました。この時のこの景色にこの体感、そしてこの曲、シチュエーションにはまりすぎています。
“伝えておくれ~1月の旅人よ~♪。”

酒匂川と吹き抜ける冬風

 不思議なことに橋を渡りきり、小田原の街中に入って行くと風はぴったりと収まりました。これまでの歩きと違って、この日のウォーキングは精神修行の歩きになりました。辛くても前に行くんだと。 そして小田原からの帰りの電車は、がんばった自分へのご褒美ということで、グリーン車に乗って、お弁当を食べながら、暖か楽ちんで帰りました。 何処にでもあるような焼き肉弁当でしたが、格別の味がしました。 そして、ひとまず小田原まで進もうと始めたてくてく旅のゴールを伊豆の下田に設定し直したのもこの日です。寒い中を歩いたことで、また少し自分に自信を付けていました。 

[5].ブログの始まり

 1月24日になると、私はブログを始めました。
 この本の冒頭にも書いたフルメタルジャケットというブログです。
 ブログを書き始めたきっかけはブログをやっている他の社長と同様だったと思います。会社の公式WEBページがあって、会社の製品、サービスや公式のニュースリリースは会社のWEBページに書く。しかし、日々の思いや、伝えたいメッセージなどは一段砕けた感じでブログを使って表現して行く。そんな気持ちでブログを始めました。会社のWEBを作って下さっているWEBデザイナーさんにブログとはどういうものかのレクチャーを受け、アメーバに申し込んでスタートとなりました。
 始めた当初は、もっと会社のビジネスの進展に関することを書くつもりでした。しかし、見に来る人を増やすにはどうすれば良いか、それをアメーバのサポート画面や教科書本を読んだところ、とにかく毎日何かを書いて更新することと書いてありました。
 その当時、会社が少し大きくなったと言っても、社員が10人に満たない小さな会社でしたので、会社のことで更新するような内容はそんなに頻繁に出てきません。社内は毎日が厳しくも切なくもおもしろい会社でしたが、それを社長の立場で外向きに発信するわけには行きません。そこで、ビジネスのことを書くことがない日は、ウォーキングのことで日々の更新を埋めて行くことになりました。
 ウォーキングも大きく二つに分けて、週末毎の歩きつなぎのてくてく旅を綴るシリーズと、横浜の街の魅力を紹介するシリーズをメインに書いて行こうと考えました。現在でもこのスタイルを保ちながら書き続けています。
 しかし、当初の予想通りにビジネスについて書くことが殆ど無くて、開設当初よりウォーキング関連のブログとなりました。これって、社長としてはダメなことなのですが。

[6].伊豆半島へ

 2月に入っててくてく旅は伊豆半島の東海岸を南へと進んで行きました。伊豆の東海岸は国道135号線がずっと通っていて、私のてくてく旅も、ほぼ全線を国道135号線を歩くルートに決めていました。心臓の調子はすっかり良くなって、平地を歩く分には全くハンディを感じていませんでした。しかし、心筋梗塞で一度壊死した心臓の筋肉は殆ど復活しません。私の場合は左右の両方とも下半分が動かないままです。平地ではハンディを感じない心臓も、登り坂になると自分の思っている以上に鼓動が早くなり、息が上がります。
 クルマで言うならば小さなエンジンを積んでいてトルクが足りない状態というのがそれに近いかも知れません。
 それでも、逗子から小田原までは殆ど坂道は無く、平坦な海岸線や緩やかにアップダウンする東海道を歩いて来ました。ところが、伊豆半島は東海岸を走る国道135号線やそれに繋がる有料道路が最もアップダウンが少ない道路であって、それ以外は急な坂道や山越えが多くあります。歩行者は有料道路を歩くわけには行きませんので、自然と選択するコースは国道135号線になりました。
 小田原駅周辺の市街地を抜け、早川駅の横を過ぎると、国道135線は海沿いのルートとなります。この当たりから路肩が狭くなり、歩道がない区間が多くなってきます。また岬を廻る毎に細かなカーブとアップダウンが続きます。それまでの湘南海岸や東海道とは違って、とたんに歩きにくくなってきたことを痛感しました。湘南や東海道が初心者でもウォーキングを楽しめる区間とするならば、こちらの区間は上級者向きの区間だと思いました。道が狭く、歩道がなく、カーブやアップダウンが続き、クルマも多く、歩きにくい区間が多い道路です。
 ちょっと不安になって、もしも引き返すことになったり、歩けなくなった場合のことを考えて道ばたのバス停で時刻を確認しました。バス停は長くても1キロに1カ所ぐらいは在るはずなので、バスを使って戻ることを考えました。そして、バス停で時刻表を見て唖然としました。平日は1時間に一本の割合。これは未だ驚きませんが、土曜には1日に一本。そして、日曜と祝日は「運行いたしません」。これを見て私は覚悟を決めて歩いて行くしかないと悟りました。
 ちなみに2911年の秋からは、同じように東伊豆を歩きましたが、この時は伊豆急全線ウォークのルートはもちろんのこと、伊豆急の路線ではない半島の北半分でも積極的に坂道を歩きました。約半年の間にも、心臓の具合がさらに良くなり、そして脚力、体力が確実に増加していることを感じることができました。 

熱海の海岸

第4章 3・11

[1].大阪、そして神戸へ

 2011年の2月頃には仕事の方も充実してきていました。資金調達には相変わらず成功していませんでしたが、親身に話しを聴いてくるベンチャーキャピタルも現れ、彼の言うことを一つずつクリアして行けば年度が変わった4月頃にはどうにかなりそうな感触を得ていました。
 そしてこの頃には二つの委託事業の初年度の成果発表会がありました。1月が経済産業省の戦略的基盤技術高度化支援事業の中間発表会があり、そして2月が神奈川県のグリーンIT活用産業振興事業の発表会でした。初年度と言っても、人材を集めたのが8月、本格的にスタートしたのが9月でしたから実働期間は5ヶ月くらいです。委託事業に応募する際の募集要項から全体のスケジュールが判っていましたので、応募に際しても初年度はあまり多くの成果を盛り込んでいませんでした。本格的な開発は2年目に入ってからと決めていました。その様な割り振りだったので、1年目の達成率はかなり良いものとなりました。 
 ハードウエアのグループも、ソフトウエアのグループも基本設計をまとめ、付き合って行ける協力会社の選定を終えていました。ベンチャー企業が何か大きな装置を作る場合には、この”付き合って行ける協力会社”を見つけることがとても重要になります。大企業と違って、自分たち自身の信頼が小さいので、優れた技術や製品を持っている会社に参加して貰いたくても、相手がこちらを相手にしてくれなければ話しは進みません。社員は当初この意味が肌身に感じていないようなこともありましたが、直ぐに理解をしてそれぞれ良いパートナーを見つけてくれました。
 そして、二つの委託事業の初年度の中間発表会を無事に乗り切り、次年度の計画をまとめ、それも承認されて一息ついた3月の始め、私は久しぶりに大阪と神戸を訪ねてみることにしました。具体的な名前は忘れましたが、前年の2010年の暮れに何かのビジネスショーを訪問した際に神戸市のブースに立ち寄り、名詞を置いてきました。その縁があって、神戸市のポートアイランドで開発が進んでいる最新鋭のスーパーコンピュータとその付属施設のお披露目会の招待をメールで受け取っていました。このスーパーコンピュータは、かつて話題になった”2番じゃダメなんですか?”のあの京速コンピュータです。そして神戸市主催のこの会の目的は、神戸市への企業誘致でした。
 
 神戸には学生時代に2年間下宿していたこともあり、いろいろ思い出の多い街です。阪神淡路大震災の時には東京で暮らしていましたが、直後に救援物資を持って友達と一緒に大学を訪ねました。その後、被災した顧客の会社を応援するために、損傷を受けたビルを解体する重機の音が聞こえてくる三宮のホテルに泊まったことなどもありました。
 しかし、本格的な復興がかなって落ち着きを取り戻した後の神戸にはしばらく訪れていませんでした。
 日程は3月7日。懐かしさを覚えた私はお誘いがあった日に申込みを済ませ、この日を楽しみに様々なスケジュールをこなしていました。それに、計算機科学やシミュレーションの分野で生きている人達がどんな人達か興味がありました。近年では半導体リソグラフィーの分野でも計算機科学や専用のコンピュータが多く使われていますが、残念ながらこの種のビジネスショーやセミナーに出席しても、昔ながらの顔なじみの人達が前面に出て来ることが多く、純粋な開発者にはなかなか出会えません。
 まだまだ漠然としたイメージでしたが、広く波を集めて発電をするには、波の挙動の精密なシミュレーションが必要になると考えていました。そのためには先ずは”シミュレーション屋さんて、どんな人?”そういうことに少し興味を持っていました。

ポートアイランドに構築中のスーパーコンピュータ「京」を観に行くバスの中から

[2].原子力発電とスーパーコンピュータ

 当日の朝は早めの新幹線に乗って大阪に向かいました。
 そして午前中は関西電力の本社に立ち寄りました。関西電力は私が大阪出身と言うことで、遠い将来に関西に来るように誘致のお誘いをしてくれていました。日々めまぐるしく変わり会社の淘汰が繰り返される半導体産業とは違って、電力会社は長期に安定して電力を供給し続けるのが使命ですから、物事を考えるのもずいぶんと長いスパンで考えるようです。その点では早急な変革議論とかみ合わないのは当然だと思います。
 先ずは誘致課長から関西電力の概要を説明していただきました。その際に関西電力管内の原子力発電の比率が52%だと聴き、少し高いと話したのを覚えています。

 そして、私の方からは2日後の3月9日に控えたベンチャー支援ネットワークTSUNAMI(当時の名前)でのプレゼンテーションの予行演習を兼ねて、発表の練習台になっていただきました。 関西電力の訪問を終えた後は渡辺橋から御堂筋を梅田までウォーキングしました。梅田駅から阪神電車で三宮駅まで行き、三宮から集合場所になっている新神戸駅までも、再びウォーキングしました。懐かしい神戸の街をウォーキングし、いくつかの見学を済ませ、その後はポートアイランドの京速コンピュータへの施設へと向かいました。

[3].TSUNAMIでのプレゼンテーション

 大阪、神戸の訪問から横浜に戻った翌々日の3月9日水曜日がTSUANMIでのプレゼンテーションでした。私がここで発表させていただく機会は、これで2回目、2年ぶりでした。前回は会社設立直後で何も無く、ただ夢を語るだけのプレゼンテーションでした。2回目のこの時は、装置そのものはまだできていませんでしたが、基本設計にそれに基づいたCADを使った完成予想図、開発コンセプトなど、かなり具体的な内容を話すことができました。何よりも、立ち上がりが遅れていた化合物パワー半導体の実用化がゆるぎないものとなっていましたので、そこにいち早く照準を定めたビジネスプランに自信を持っていました。
 発表会場となった会議室の後ろでは、当社の社員がコンピュータや一部のパーツを持ち込んで、プレゼンテーションの空き時間を使って訪れた聴衆にバーチャルの出デモンストレーションを実施していました。
 この日の発表会の最後に、名刺交換をしながら、次の年度に勝負を賭ける決意を強くしていました。

ベンチャー支援機構「TSUNAMI」でのプレゼンテーション

 そして、その2日後、3月11日の震災を迎えることになります。

[4].震災の発生

 2011年 3月11日、午後2時46分。私達のオフィスも大きく揺れました。
 その数日前にも東北沖を中心とした強い地震があったばかりでしたが、今回は、首都圏の多くの人も思ったように、私も首都圏直下の地震が発生したものと思いました。揺れはとても大きく長く、重たい複合機が大きく動き、書棚が倒れて会議用のテーブルを直撃しました。
 東日本大震災の発生でした。
 
 その当時、横浜市中区の関内にオフィスがありました。
 午後2時46分、激しく揺れだした地震で立っていることができません。
 書棚はミーティング用のテーブルに倒れかかり、大きな複合機は数メートル移動しました。
 その時、オフィスの中に居た社員達は皆で倒れそうなもの、落ちそうなもの等を床の上に置き、机の影にうずくまるように座りました。
 烈しい揺れは一旦収まりかけたかと思うとふたたび強くなり、微妙に揺れ具合も違ってきます。後にニュースで報道されていたように、確かに3波の揺れが襲ってきました。あの時は、揺れている時間が非常に長く感じ、ビルが倒れるまで揺れ続けるのではないかと感じたほどでした。
 揺れが収まってしばらくしてから、社員と一緒に地上に降り、ビルの前の交差点に集まりました。その時はまだ頻繁に余震があり、近くの高層マンションが大きくゆっくりと揺れていました。
 徐々に携帯のワンセグなどから地震に関する情報が入ってきて、この巨大な地震が宮城県沖の太平洋を震源地とした地震であることを知りました。そして、頻繁に津波警報が発令されたことを伝えていました。しかし、その時の自分の気持ちは、とにかく身の周りで起こったことを整理し、理解することに追われて、やがて巨大津波による甚大な被害が発生することまで、考えが及びませんでした。
 その後、社員達全員がビルの前に無事に降りてきていることを確認しました。電車は止まっていることが判ってきたので、この日の業務はこれで終了として、暗くならないうちに帰宅するように伝えました。
 私の自宅までは9kmほどであり、普段から土曜日などは往復歩いて会社に来ていましたので、これくらいの距離を歩くのは全く問題がありませんでしたが、所々ヒビが入った歩道や、道路とビルとの間にできた隙間を見ながら地震の大きさを感じていました。

東日本大震災の時、横浜市・関内地区では震度5強の揺れを観測。会社の書棚も倒れました。

[5].震災の後に起こったこと

 地震発生から数日は、身の周りのことや、テレビ、インターネットを通して伝わってくる東北地方の被害の大きさに、心が釘付けになっていました。そして、時間を追う毎に深刻な状況が明らかになってくる東京電力福島第一原子力発電所の状況をテレビを通して固唾を呑んで見守っていました。
 この震災の影響と会社の経営のことを関連づけて考えるようになったのは、震災から1週間か10日ほど経ってからだったと思います。会社は2つの委託事業を梃にフォトマスク検査装置の設計開発を行っているところだったので、まだ外部との直接的な取引は殆どありませんでした。それでも、この頃になると日本の経済活動が大きく萎縮してしまったことを実感するようになってきました。
 経済産業省と神奈川県、それぞれと契約していた委託事業は、翌年度の計画を立案し、審査会を経て計画が了承されていました。そのために平成23年度に実施する内容と予算はほぼ固まっていました。平成23年度は2年計画で立てた開発計画の2年目に当るので、地震でこれが白紙撤回されることはあまり心配していませんでした。その一方で正式な契約書の締結や予算の執行には多少の遅れが出ることを予想しました。
 問題は、民間、即ちベンチャーキャピタル等からの投資の獲得です。
 これは、一旦は白紙にならざるを得ないと感じました。まるで世の中が止まってしまったかのように、最低限の経済活動しかしていない状況ですから、とてもリスクマネーに期待できる状況ではなくなりました。
 それにしても、3月7日に、関西電力を訪問して原子力発電の話しをして、午後からは神戸を訪れ、1995年1月に起こった阪神・淡路大震災から復興した街並みを見て、ポートアイランドに建設中のスーパーコンピュユータ「京」を見学しました。そして3月9日にはベンチャー支援機構TSUNAMIの発表会で、当社のプランをプレゼンテーションをしたばかりの3月11日に発生した巨大地震と津波、またもや巡り合わせの悪さを思いました。

震災後。小型艇を除いた全ての巡視船が救援に向かった海上保安庁・横浜防災基地

[6].てくてく旅の再開

 月が変わって4月3日。しばらく休んでいた歩きつなぎのてくてく旅を再開しました。震災の前は、静岡県伊東市にある伊豆急行の川奈駅まで進んでいました。この日はそこからのスタートではなく、京浜急行の新逗子駅を出発して三浦半島の先端近く、同じく京浜急行の三崎口駅まで歩くことにしました。しばらくのブランクで身体がなまっていたことと、震災による電力不足、そして観光やレジャーなどの自粛ムードの影響もあって、途中の鉄道の運行状況があまり良くなかったからです。とりあえずは近場の三浦半島を歩く事からてくてく旅を再開しようと考えました。
 新逗子駅を降りたときの天候は曇りでした。もちろん天候の影響が大きかったとは思いますが、世の中全体が暗く沈んだ感じを受けました。
 例え曇り空であっても4月の日曜日、普段ならばたくさんのサイクリストやバイクのツーリングが行き交う国道134号線ですが、そのような姿が殆ど見られませんでした。極端に行き交う人が少ないというのではありませんが、走っているクルマの数も少なく、他府県ナンバーのクルマはもっと少なかったようです。
 三浦半島の西側、国道134号線を相模湾の海を見ながら南へと歩いて行きました。途中のスーパーでお弁当を買い、陸上自衛隊の駐屯地の南側に隣接した富津公園でそのお弁当を食べました。目の前に海が広がるこの公園に人影はなく、上空を鳶が一羽、お弁当を狙って舞っていたのを覚えています。
 この日の旅の終盤には広いキャベツ畑が迎えてくれました。緩やかな起伏の三浦半島の台地の上に、広大な畑が広がっています。歩いているところから海は見えませんでしたが、視界を遮る山も無いので、実際以上に広い場所に来たような錯覚に陥るのがこの辺りの特徴です。緩やかなアップダウンとカーブが続く道を歩いて三崎口駅に到着したときには、少し平常に戻ったような感覚を覚えました。
 
 4月10日からは、伊豆半島のてくてく旅を再開しました。この日の旅で印象に残ったのは2つ。先ず、行き帰りの電車のつながりが非常に悪かったこと。2つ目は桜がとても綺麗に咲いていたことです。この電車のつながりの悪には後で伊豆急行にクレームを付けたのですが、それがきっかけとなって、この年の秋から再び伊豆半島を目指して歩くことになりました。
 午前7時30分に横浜の自宅を出発しましたが、途中での列車の遅れや、乗り継ぎの伊東駅で小一時間待たされたこともあり、この日の歩き始めの駅である、川奈駅に到着したのは11時近くになっていました。やはり、電車のダイヤは間引き運転のようで、特に伊豆急行の運転が少なくなっていました。
 この日は、川奈駅を出発して国道135号線に出て、最初のファミレス”ココス”で昼食を採りました。昼食の後、本格的に歩き出しましたが、この日のコースはちょうど伊豆高原と呼ばれるエリアを抜けて行きました。途中にある神祇大社ではちょうど様々な桜が咲きそろっていたときで、とても華やかな雰囲気で溢れていました。神祇大社とは国道を挟んで反対側にあるぐらんぱる公園には多くの観光客が訪れ、おそらく他の年よりも人での数は少ないにせよ、一時震災を忘れさせてくれる明るさを感じました。
 また、そこから続く、長い下り坂のあちらこちらにも桜の木が植えられていて、ちょうど満開を迎えた桜がとても綺麗でした。この日のゴールは伊豆大川駅でしたが、海岸沿いの国道135号線から、伊豆大川駅に向かう途中の坂道に見事な花を咲かせた桜の大樹が有ったこと、そして駅の背後に迫る山の麓も一面が桜でピンク色に染まっていたのが印象的でした。
 

さくらが満開の伊豆大川駅周辺

[7].間引き運転

 この日の帰りの電車は行きの時以上に苦労しました。通常であれば伊豆急行の電車は伊豆急下田から、伊豆急の終着駅である伊東駅、さらにJRの伊東線まで直通運転してJR東海道線の駅でもある熱海駅まで一本で行けます。ところが震災後の臨時ダイヤでは大幅な間引きと細切れ運転になっていました。
 伊豆大川駅で待っていたら、やって来た電車は次の伊豆高原駅止まりでした。そして伊豆高原から乗った電車は伊東駅止まり。伊東駅で30分ほど待たされて、熱海行きの電車に乗り換え、熱海からJR東海道線の電車に乗り換えて帰りました。
 その当時は、震災による電力不足の影響と、世の中の自粛ムードの影響を受けて、横浜の鉄道でも、列車本数の削減、エルカレータの停止、照明や広告灯の消灯などが行われていました。特に計画停電の可能性が未だ残っているような電力供給が不安定な状況であったので、大口の電力消費者である鉄道は、率先して節電に努めていました。そのことが、社会のムードを暗くしている面も指摘されていました。
 その時の私は、世の中の節電ムードを無視するわけには行かないけれども、行き過ぎた恭順の姿勢は、世の中を暗くしてしまうと考えていました。電気はほとんど全て蓄えることはできません。また電力会社が用意したその日の発電能力よりも、実際の消費電力が少なかった場合、余った電力はトランスから熱として大気中に放出しているとも聴きました。従って、必要以上の節電は空気中に棄てる熱が多くなるだけとも考えていました。
 そこでこの日は家に帰った後に、伊豆急行にメールを書きました。極端な間引き運転や細切れ運転は、とても不便だし、客足を遠のけてしまって、伊豆の観光にもマイナスになるのではないかと。それに対して伊豆急行から帰ってきた答えは意外でした。震災後、電車の利用者が前年比30%にも満たない状況で、非常に苦しい状態にあると言うものでした。もともと、伊豆半島という不便な土地を走っている鉄道であり、車両も親会社の東急のお下がりと、お下がりの改造電車ばかりなので、余裕のある鉄道だとは思っていませんでしたが、間引き運転や細切れ運転は、世の中の風潮や国などの要請に強く反応したものだと思っていました。だから、このメールを読んだときに、申し訳ないことをしたなと思いました。それ以降は、自分のブログでは伊豆急行を応援することに決めました。

伊豆大川駅にやってきた電車。伊東止まり

[8].国道トンネル

 ゴールデンウィークの入口とも言える4月17日の日曜日には伊豆大川から河津駅まで歩きました。この日に印象に残ったのは、照明が全て消されてしまった、国道のトンネルでした。これもクレームのメールを送って、感動の対応をしていただきました。
 この日は朝早く家を出て、熱海駅、伊東駅で電車を乗り継いで、伊豆大川駅までやって来ました。ここから国道135号線に出て、南へ向かいます。前の週の行程では途中にトンネルがありませんでした。だから、それまで気づかなかったのですが、トンネルのところまでやって来たら、トンネル内は照明が全て消灯されていて、真っ暗です。その中からヘッドライトを点灯したクルマやトラックが次々と飛び出してきます。トンネルには、中に歩道や、歩道として使える一段高くなった路肩を持つトンネルも多いですが、この辺りの国道135号線のトンネルは古くて小さいものが多く、はっきりとした歩行者用のスペースがありません。路側に敷かれた白線の外側を、トンネルの壁にへばりつくように歩いて行くしかありません。トンネルの入口には、震災による電力不足への対応で、トンネル内の照明を消すことを記した案内板が立てかけてありました。
 この日は結局、全部で3カ所、照明が消えて真っ暗な国道のトンネルを歩きました。正直に言って、とても怖かったです。その代わり、途中で訪れた伊豆稲取の文化公園の足湯では気持ち良く疲れを取ることができ、てくてく旅の楽しみがまた一つ増えました。
 家に帰ってからは、今度は国道の管理事務所にクレームのメールを出しました。節電の主旨は賛同するが真っ暗な状態は非常に危険であること、中を通る歩行者もいるので、人命には変えられないというのが私の主張でした。すると、このメールにも国道管理事務所から丁寧な返答をいただきました。その内容によると、同じような指摘が他からも出てきており、1、2週間の間に、照明を半分点灯させることにしますというものでした。そして、実際に4月30日に、この先を歩いた時にはその通りに、国道内のトンネルの照明の半分が点灯されていました。これには大変感動しました。

節電のために照明が完全に消された国道135号線のトンネル


[9].最初のゴール

 その4月30日には、河津駅からこの旅のゴールの伊豆急下田駅まで歩きました。この辺りは海がとにかく綺麗でした。この日は天気も快晴で、南伊豆は初夏を思わせる陽気でした。この年、始めてTシャツ1枚になって歩きました。歩きつなぎのてくてく旅を始めたのが前年の晩秋、11月の終わりでした。それから気候はどんどん冬に向かい、小田原の酒匂川で寒風に吹き付けられました。それから徐々に暖かくなってきた時に東日本大震災が発生、約1ヶ月間の中断期間を挟んで再開したときには春満開で、そして初夏へと季節が移ってきました。時間をかけて歩くことは、それだけ様々な季節と風景に出会うことができます。
 特にこの日のコースは、岩場の磯辺を歩き、白く大きな砂浜を歩き、高台から大海原をながめるなど、様々な海を眺めることができました。そして、夏の海水浴場として有名な白浜海岸の少し北側、白浜中央海水浴場という標識がある砂浜の入口に、ヘリポートがあるのを見つけました。この辺りはあまり交通の便が良くないので、急患や事故、災害などが有った際にはここにヘリコプターが飛んでくるのでしょうか。精しいことは判りませんが、このヘリポートとその先の海を見ながら震災のことを思い出していました。
 震災後、自分にできることは何だろうかと。
 多くの人達がボランティアとして被災地に駆けつけ、また、裕福な人達は多額の募金をすることが報道されていました。私は、健康が万全ではないので、被災地に行ってボランティアをするのも足手まといになったり、かえって迷惑をかけてしまう可能性だってある。
 かといって、自社の日々の資金繰りに苦しんでいるくらいだから、多額の寄付をするお金も無い。震災直後から、ブログを通じて、それなりの形で被災地に、そして日本全体に向けて自分なりのメッセージを発信してきてはいましたが、それだけではまだ物足りなさを感じていました。
 震災の前から漠然と考えていた波の力を使った発電方法を真剣に考えようと思い出したのはこの頃からでした。南伊豆の雄大な海の景色に刺激されたのと同時に、旅の終わりの日に次の何かをしなければならないという思いが重なったからでしょう。

四月の最終日なのに初夏の気候だった下田の海岸

 この日の夕方、伊豆急下田駅からの帰りの電車の中、この時始めて5月31日まで開催の第7回伊豆急全線ウォークの中吊りポスターを眺めました。それまでもポスターがあるのは知っていましたが、その中身をゆっくりと見ることはしていませんでした。伊豆急全線ウォークというイベントがあるのは知っていたけれども、その内容に気を止めていませんでした。自分は逗子から歩きつなぎのてくてく旅を続けてきたので、伊豆急行沿線内のウォーキングイベントにあまり興味が無かったのです。ところが、その内容を見るとなかなかおもしろそうで、もっと早く気が付いていれば良かったと思いました。
 そして、その年の秋から始まる第8回伊豆急全線ウォークには必ず参加しようと心に誓っていました。
 こうして私の最初の歩きつなぎのてくてく旅は無事に終了となりました。横浜を離れて遠くにウォーキングに出かけることには、最初の内は不安がありましたが、こうして歩き終える頃には、そのような心配は殆どしなくなっていました。やはり、案ずるより産むが易しです。


第5章 2011年の夏

[1].新しい旅

 2011年の5月5日の朝、いつものデニーズ上大岡店で、いつものデニーズモーニングを食べながら、次のウォーキングのことを考えていました。
 元々は会社を力強く発展させるために、自分の体調に自信を付けるべく始めた歩きつなぎのてくてく旅でした。それをやり終えたことで、体調には自信が戻って来ましたが、なにしろ3月11日に発生した東日本大震災が大きく影響していました。直接の被害に遭われた東北地方はもちろんのこと、首都圏でもまだまだ重苦しい雰囲気が強く残り、ベンチャー企業に対する投資の話しなど再開できる雰囲気ではありませんでした。また、委託事業が命綱の当社にとっては、経済産業省との正式契約が遅れていることも経営に重くのしかかっていました。しかし、震災被害の現場の映像を見るにつれて、直接的な被害に遭っていない自分達は、ここはじっと我慢する時だと考えていました。
 ウォーキングの準備だけをしてデニーズにやって来た私は、新しい歩きつなぎのてくてく旅を始めようと考えていました。但し、この時は未だ、何処をどう歩いて行くかは考えていませんでした。
 ”とりあえず何処かに歩き出そう。”そう考えた末に、前回の「湘南・伊豆てくてく旅」で震災後の再開でたどり着いた京急の三崎口駅を出発地点に決めました。三崎口ならば最寄りの上大岡駅から一本の電車で行くことができます。それに波の力を使った発電方法を考えるのであれば、海を見ておきたいとも思いました。それならば、先ずは城ヶ島に行こうということで、とりあえずはその日のウォーキングのコースがだいたい決まりました。

日本のデニーズ1号店が在ったイトーヨーカ堂・上大岡店

 朝食後、上大岡駅から三崎口駅行き、三崎口行きの特急電車に乗り込みました。電車の中で座った席のちょうど正面の天井に東京湾フェリーのポスターが掲げられているのが目につきました。ポスターにはフェリーの大きな写真と共に、「南房総は、直ぐそこに。」というキャッチフレーズが書かれ、右下には房総半島と三浦半島に囲まれた東京湾の地図が填め込まれていました。 また、私の座った席の左側の天井の中吊り広告には、「京急と東京湾フェリーで行く南房総」というキャッチフレーズの電車とフェリーの組み合わせ割引切符の京急のポスターがありました。これにもやはり東京湾の地図が描かれてていました。 この二つの地図を見ながら、次の歩きつなぎのてくてく旅のコースが決まりました。これから向かう城ヶ島を起点に、東京湾をぐるっと廻って房総半島の南端まで歩いて行くことに決めました。これで、伊豆半島の下田から房総半島の南端まで海岸沿いを歩き繋ぐことになります。伊豆半島の南端は石廊崎ですが、ここにはこの旅が終わってから向かうことにしました。  こうして5月5日から10月17日までつづく、東京湾を廻る長いてくてく旅がはじまりました。ブログでは城ヶ島から東京の日本橋までを「東京湾てくてく旅」シリーズとして掲載し、日本橋から房総半島の先端の野島岬に到着するまでを「南の風を起こそう」シリーズとして掲載しています。  三崎口駅から歩き出し、城ヶ島に着いたときにはあいにくの曇り空でした。視界はそれほど良くありませんでしたが、それでも浦賀水道を挟んで反対側にある房総半島の山々ははっきりと確認することができました。 その時は日本中が震災の痛手を受けて重苦しい雰囲気の中にありましたが、東京湾をぐるっと廻って房総半島の南端に行き着く頃には、日本にも活気が戻り、会社の行く末にも展望が開けてきていることを期待していました。

[2].記念艦「三笠」

 5月15日のウォーキングは特に印象に残るものとなりました。この日は京急の久里浜駅をスタートし、横須賀市内を回って三笠記念公園をゴールとする”記念艦「三笠」復元50周年ウォーク」が開催されました。自由参加で範囲内であれば自由な時間に出発できるこのウォーキング大会に、参加してみることにしました。
 東京湾てくてく旅は前の週に浦賀駅まで進んでいました。久里浜は少し後戻りになりますが、三笠記念公園は浦賀より北側、即ち東京湾を廻るコースにおいては順路上にあります。当日は浦賀駅をスタートして久里浜駅でこのウォーキング大会に合流して、他の参加者と共にゴールを目指しました。
 三笠記念公園には午後の3時過ぎに到着しました。ここで参加賞を貰って解散した後、私は三笠の中を見学する事にしました。艦内の一角には東日本大震災関連の写真展が開催されていました。津浪で甚大な被害を受けた地域で救助活動をする自衛隊とアメリカ軍の写真展でした。この写真展を観ていて、何もできないでいる自分、会社の経営で手一杯の自分をとても情けなく思いました。そして、波の力を使った発電について、より強く真剣に考えて行こうと思いました。

記念艦「三笠」

[3].再びインドへ

 6月になっても、社会はまだまだ重苦しい雰囲気にありました。難しいときほど、経営の舵取りが大事といわれます。このままの状態で進むならば二つの委託事業が終わる翌年2012年の3月には会社の経営に行き詰まることは容易に想像ができました。
 そこで考えたのが二つ、一つは今の事業計画のゴールを低めに修正して出費を抑えて行くこと、そしてもう一つは海外に資金調達や開発面での協力を求めることでした。
 しかし、委託事業というものは途中での修正や規模の縮小などはなかなか認められません。特にこの頃は「こんなときだからこそ、がんばって下さい。」という風潮がありました。
世の中、通常のビジネスが縮小して、苦しんでいる会社がたくさんあります。そんな時に委託事業で約束された仕事がある当社は恵まれているような気もしました。
 そこで、私はビジネスにおいては海外とのコラボレーションに活路を見出す方向へと傾斜して行きました。
 
 以前に訪問し、一時期エンジニアを受け入れていたこともあったインドのS社に資金協力をお願いしたところ、先方も財政事情が厳しいようでそれはできないとの回答でした。その代わり、ソフト開発を安く請け負ってくれて、技術提携の話しもアナウンスをしても良いという返事を貰いました。その当時、インドは急速な経済成長を遂げていましたが優秀なエンジニアを揃えた彼等の会社は、ビジネスのターゲット、即ち主な顧客を先進国の企業にしていたので、彼等自身は苦戦しているようでした。
 それでも、彼等の優秀な能力を安く提供してくれるというのはとてもありがたいことでした。そして、彼等から提示された開発工数に対する価格は、お友達価格のそれも格安なものでした。
 そこで、5月から7月にかけてのエンジニアとしての私の仕事のメインは、インドのS社に開発を依頼することになるであろう、システムの仕様まとめがメインになりました。
 休日には、東京湾を三浦、横須賀、横浜、川崎と周りながら、徐々に暑くなってくる気候と、都会の喧噪に苦しめられながらのてくてく旅を続けました。そんな中でも、波の力を使った発電の構想も少しずつ温めて行きました。京浜地区を歩いても、あまり大きな波を見ることはできないし、それ以上に立ち入れる海岸はごく僅かです。この辺りは海を見ることよりも、歩きながら、考える時間を取れたことに意味があったと思います。
 私の場合、何か難しいことを考えるときには、だいたい支離滅裂にいろんなことを考えます。頭の中でメモ帳に書いては消し、書いては消しの繰り返しをしてゆきます。その中で自然と方向性が見えてきたときには、それはだいたい正解であるような気がします。
 もっとも、これは後になって、自分の考え方や予想したことが正解であったと思えるだけで、成功であったとは必ずしも言えません。むしろ、考え方は正しかったのだけれども、上手く行かなかった、理解者に恵まれなかった、時代が良くなかったなどと慰みの結果に終わることが多いです。
 この状況を何とかブレイクスルーしたいと日々願ってはいますが、未だに達成できてはいません。
 
 8月になってインドの会社との仕様まとめも終わり、彼等のフィジビリティ・スタディー(実現可能性調査)もほぼ終わったと言うので、インドのバンガロールに出張することになりました。この出張は2泊4日の弾丸ツアーになりましたが、なかなか実り多く、且つ印象深い旅に成りました。
 ざっとスケジュールを紹介しますと、8月15日の月曜日の早朝、自宅を出て成田空港に向かい、シンガポール航空でシンガポールのチャンギ空港に向かいました。チャンギ空港で同じシンガポール航空のバンガロール行きの飛行機に乗り継ぎ、その日の午後9時半過ぎ(現地時間)にバンガロール空港に到着し、ホテルが手配したクルマで市内のホテルに到着したのが、夜中の零時過ぎでした。
 翌火曜日は一日、先方の会社でミーティングをしてその日は同じホテルに宿泊しました。翌朝は夕方まで先方の会社でミーティングと、まとめを行い、先方が手配してくれたクルマでバンガロール空港へと向かいました。
 バンガロール空港からは午後11時30分の飛行機でシンガポール経由で成田に戻ってきました。横浜の自宅に帰り着いたのが18日木曜日の夜でした。
 インドは決して日本から一番遠いところにある国ではないけれども訪問するのに大変時間がかかる国です。あれだけ大きくて急速な経済発展を遂げている国なのに、日本との直行便や日本から乗り継ぎ無しでいける都市の少なさは気がかりです。
 この出張でとても印象に残っているのは、バンガロール空港からバンガロール市内のホテルまでの道のりです。ホテルから手配されて迎えに来てくれたクルマは、おそらくトヨタのRAV4でした。そして運転手が私に会った最初に尋ねてきました。
「今日は国民の祝日なので、ダウンタウンに向かうハイウエイは大変混雑している。2時間がかかるけれどもインター・シティで行くのが良いか? 距離は少し遠くなるけれども、1時間50分くらいで行けるアウト・シティで行くのが良いか?」
 過去2回、バンガロールを訪れたことのある私は、この地域の渋滞のひどさをよく承知していました。そこで、アウト・シティを選択してしまいました。
 これは、長旅の疲れで正常な判断力が鈍っていたことに、この後直ぐに気が付きました。
 クルマは真っ暗な夜の未舗装の道路を、猛スピードで、ホテルへと飛び跳ねて行きました。おかげで,目はぱっちりと覚めて、身体はへとへとになってホテルにチェックインしました。しかも、言っていたよりも20分ほど早く到着しました。
 ホテルはとても清潔でフレンドリーな雰囲気がするいつものホテルです。チェックインした後はぐっすりと眠れました。

バンガロールの滞在先のホテル

 そして、短かったけれども充実したミーティングをこなし、夕食や昼食で歓談を行い、つかの間のリフレッシュにもなりました。 バンガロール市は世界のIT関連企業が集まる巨大都市で、人口が700万人を超えてさらに発展を続けています。道路や鉄道などのインフラの整備が都市の発展に追いついていないのは明らかですが、それがまたエネルギッシュさを感じさせる要因にもなり、沈滞ムードが漂う日本からやって来たら、とても元気を貰えます。

美味しいランチミーティング。辛さが脳に良い刺激を与えてくれます。

[4].むなしい時間

 木曜日の夜中に自宅に戻り、次の金曜日は朝からベンチャーキャピタルが来社しての交渉がありました。2011年も8月になると、私の近辺ではずいぶんと落ち着きを取り戻して、資金調達の話しもできるようになりました。
 もっとも、ベンチャーキャピタル各社は真剣に投資先を考えている訳ではなく、そろそろ仕事をしなければ自分達の立場も危うくなるので、経済産業省と神奈川県の委託事業を遂行している当社は、格好の”仕事先”だっただけでした。いくつかのベンチャーキャピタルがアポイントを求めてやって来ては、事業計画書を観てあれこれ注文を付ける。そして自社開催のセミナーへの出席を要請する、自分の選んだ会計士を連れてきて、彼を使えと言う。実に様々な提案、干渉をするのだけれども、一向に話しが前に進みませんでした。
 業を煮やして、
「弊社に投資していただける考えがあるのですか?」
と単刀直入に聴くと、だいたい次のどれかの答えが返ってきて話しはそこまでになりました。
 「まだ、アーリーステージ(事業が初期段階)なので、装置ができたら検討させて下さい。」
 ”当社の現状は、一番最初に説明してあるはずだ。装置を構築するための資金調達だと言ってもあるのに今更何を。”と思うのですが、これは一番ましな返答でした。中には、
「弊社は半導体業界には投資しません。」
まさに、”だったら今まで何しに来ていたんだ”という怒りがこみ上げてきます。
 そして、ベンチャーキャピタルを相手に資金調達に苦労しているベンチャー企業の社長さん達の殆どが聴いていると言われる台詞があります。
「上手くいったら、投資させてください。」
果たして、上手くいってからベンチャーキャピタルに頭を下げて投資をお願いしたいベンチャー企業の社長がいるものでしょうか?
 結局、この年の夏から秋にかけては、ベンチャーキャピタルを相手にしたプレゼンテーションの準備と実施、事業計画の練り直し等にかなり多くの時間を割かれました。しかし、資金調達は上手く行かず、交渉相手のベンチャーキャピタルを主力取引銀行系の1社に絞って交渉を続けることにしました。

[5].健脚を競う

 時間は少し遡りますが、週末毎の歩きつなぎのてくてく旅は5月5日に三浦半島の城ヶ島を出発して以降、東京湾に沿って北上する形で歩き、7月10日に日本橋に到着していました。私のブログでは、ここまでの区間を「東京湾てくてく旅」としてまとめています。
 この間に私は1日に歩く歩数に興味を持つようになっていました。毎日私はベルトに6代目のiPod nanoを付けて、歩数計として利用していました。1日に歩いた歩数の記録はパソコンを通じてナイキとアップルとのコラボレーションサイト、Nike+Activeへと伝送されます。このサイトでは日々の歩数計が記録されると共に、歩数に併せて地図上の都市を廻ったり、消費カロリーを表示します。その中でも私は、1日毎の歩数の記録を世界中から集め、前日に一番歩いた人を賞賛する”Yesterday's Best"に興味を持っていました。
 一日に何歩歩けばYesterday's Bestに選ばれるか、それはその日によって違います。しかし、傾向としてはやはり、土曜日と日曜日がハイレベルな闘いになっていました。おおざっぱに言うと5万歩以上の闘いになっていました。それに時々は7万歩、8万歩、さらに10万歩歩く超人が出現しました。
 伊豆半島へのてくてく旅で少し自信を付けた私は、今度の旅で二つの目標を立てました。それは、ゴールインするまでに”Yesterday's Bestに10回選ばれること、そして1日に7万歩歩く事でした。この目的を達成するには、必然的に一日に歩く距離を伸ばして行かなければなりませんが、季節はちょうど春から夏へと移り、それは暑さとの闘いにもなりました。
 海を観ながら歩いて行くのですが、横浜市の南端に位置する金沢区の野島公園、ここにある小さな砂浜を最後に、天然の砂浜とはしばしの別れになりました。そこから先は横浜の海の公園や東京のお台場など人工の砂浜や、都市の中に点在する公園をオアシスに見立てて、そこを繋ぎながらのウォーキングとなりました。 
 暑さとの闘いのウォーキングの中で役に立ったのが、ペットボトルに入ったミネラル・ウォーターを冷凍庫で凍らせ、タオルでぐるぐる巻きにして、リュックの底に入れて持ち歩いた”緊急冷却水”でした。タオルで巻くことによって、かなりの保冷効果があり、真夏でも5時間くらいは氷が残っています。
 暑い中でのウォーキングでは、頻繁に水分補給をします。水を飲んで、汗をかきながら体温調節をしながら歩く感じです。特に晴天で直射日光を浴びているときには汗をかいても即座に乾いてゆくので、気が付けば腕に塩を噴いていました。大都会の中を歩いて行くので、自動販売機は至る所にあり、ミネラル・ウォーターやスポーツドリンクを買うのに殆ど苦労はありませんでした。 
 しかし、それでも緊急冷却水には特別な役割がありました。熱くて熱中症になりそうにも感じたときに、木陰に座って緊急冷却水を取り出し、氷で冷やされて冷たくなったタオルで顔を拭き、氷が残るペットボトルで頭を冷やしました。こうすることで、体調が急速に戻り、頭もすっきりして冷静な判断ができるようになりました。この年の夏は3回、緊急冷却水のお世話になりました。
 そして、ペットボトルの氷がとけて無くなって、ただの冷水になったなら、それをその日のウォーキング中に飲む最後の飲料水として、その日のゴールを決めて歩きました。とにかく夏場のウォーキングは多量に水分補給をしました。平均すると1日のウィーキング中に500mlのペットボトルのミネラル・ウォーターやスポーツドリンクを5本飲んでいました。

日陰で飲むペットボトルの冷水が何よりの体力回復剤

[6].房総半島へ

 7月17日からは、日本橋を起点に東京湾を房総半島の南端を目指して歩き始めました。ブログでは「南の風を吹かそう」シリーズとして掲載しています。東京の都心をスタートして、葛西臨海公園、東京ディズニーランドという大きなアトラクション地域を過ぎて京葉コンビナートに沿って歩き、幕張の付近の臨海公園を抜けると再びコンビナート地帯と、工業地帯と都会のオアシスを繰り返しながら徐々に自然の豊かな南房総へと進んで行きました。
 8月28日に、アクアラインの近くまでやって来て、ようやく自然の砂浜に再開することができました。それと同時に海を眺めながら歩く時間が徐々に長くなってきました。
 波を使った発電を考案するのには、やっぱり様々な波を観た方がより効果がありました。次第に波の力を使った発電について考えるのは、歩きながらや、海を観ながらではなくて、帰りの電車やバスの中で考えることが多くなってきました。ウォーキングを終えて心地よい疲れを感じながらその日に観てきた海の景色を思い出しながらあれこれ考え、そしてそのうちに眠ってしまっていました。その繰り返しの中から、徐々に波のエネルギーを集めて取り出す方法として、波が最後に波打ち際にて水平方向の流れに転ずる、その流れを利用する方法に考えが集約して行きました。

 9月4日には、房総半島から東京湾に着き出した富津岬を歩きました。この日は前日まで居座った台風の影響で、東京湾の南側には大きな波が押し寄せていました。そして、その波を遮り、東京湾の北側と南側を分けているのが富津岬です。
 富津岬の先には展望台があって、その展望台から房総半島の方向を振り返るように観ると、岬の北側と南側の波の違いを観察することができます。もし、房総半島周辺の外海も波が穏やかな日にこの展望台を訪れていたならば気が付かなかったかも知れませんが、たまたま台風の影響の残る日に尋ねたから気が付いたこともありました。岬の北側と南側で波の大きさが違うのはもちろんですが、南側でも、砂浜か波消しブロックであるかで、押し寄せる波の大きさが違うように見えました。砂浜と波消しブロックに同じような波が押し寄せて、波消しブロックではブロックにぶつかって波が砕け散るものだと思っていましたが、見た限りでは、波消しブロックのあるところに押し寄せる波は、ブロックに到達する前に、砂浜に押し寄せる波よりも小さいように見えました。
 これが真実なのか間違いなのか、あるいは既に知られていることなのか等は私には判りません。しかし、海岸の地形と材質によって、到達する波の大きさや形に違いが生じているように感じました。

富津岬先端からの眺め

[7].焦りと癒し

 9月に入ってから、本業の面ではかなりの焦りを感じていました。装置の本格的な開発に入るには、どうしてもまとまった資金の調達が必要でした。交渉相手のベンチャーキャピタルを1社に絞り、そのベンチャーキャピタルの要望の通り、彼が連れてきた会計士と契約を結び、双方とも納得ができる資本政策をまとめましたが、それでも彼は結論を出しませんでした。交渉の都度、細かな指摘が出てきて、その修正に数週間をとられることになりました。
 一方で、委託事業の計画の縮小を所管である関東経済産業局と始めました。しかし、9月の時点ではゴールを諦めるのはまだ早いと言う指摘でした。確かに研究開発が順調に進んでいるのならば、この時期は一番速度をつけて成果に向かっていなければならない時期です。他の委託先も苦しいことは予想されましたが、弱音を吐かずにがんばっていると言われると、そのまま続けざる得ないと判断しました。結局、銀行からの融資で繋ぎながらベンチャーキャピタルとの交渉を続けることになりました。
 そのほかには、個人事業時代にお世話になっていた会社の知り合いから、ちょっと変わった英国製の実体顕微鏡、拡大鏡の販売代理店の仕事を廻して貰い、細々と始めました。しかし、世の中の沈滞ムードや、もともとの顧客を持たない当社にとって、新規顧客の開拓は容易ではありませんでした。
 
 会社の事業と経営が苦しい中、週末ごとのウォーキングにはますます力が入ってきました。歩いている間は何よりものストレス発散になります。房総半島を南に進むにつれて路の周囲にも自然が多く残り、東京湾の海岸線もコンビナートから綺麗な風景へと変わってきました。
 富津岬を歩いた翌週の9月11日、日曜日には1日に61,000歩あるきました。そして、この結果がNike+Active のサイトにて10回目のYesterday's Bestになりました。
この日は、JR内房線の佐貫町駅を出発して、稲刈りが始まった里山を、始めて訪れた土地なのに、懐かしさを覚えながら歩きました。この辺りの日本人の持っている原風景にピタリとはまるような気がします。
 田園地帯を抜け、国道127号線を歩くと、穏やかな波の東京湾の景色が次々に現れるようになります。海面に反射する初秋の陽射しからエネルギーを貰っているような気になりました。
 この日は、金谷港まで歩き、東京湾フェリーに乗って久里浜経由で京浜急行に乗り換えて横浜の自宅へと帰りました。歩きつなぎのてくてく旅の欠点は、遠くに行くに従って、その日のスタート地点までの移動時間が長くなり、帰り路の移動時間がさらに長くなることです。行き帰りの移動時間が長くなることは、それだけウォーキングをしている時間が短くなってしまいます。横浜から、東京湾を陸路だけで行き来していたら、この辺りが日帰りの限界になっていたかも知れません。
 ところが東京湾はうまくできていて、木更津まで進んだとことで、木更津と横浜を結ぶハイウエイバスを利用することができ、さらに金谷まで進んだところで、金谷と久里浜を結ぶ、東京湾フェリーを利用できるようになりました。それだけ、移動時間が節約できるようになりました。
 そして、何よりも途中にフェリーに乗ること自体が、私に取ってはとても大きなストレス解消になりました。海の中をゆっくりと揺れる船、そのデッキに座って、空と海と、フェリーについてくるウミネコを眺めると、日頃の心配ごとを忘れることができました。
 フェリーの客室は2階建てになっていますが、各階の屋上、デッキ部にはベンチが設置されています。僅か40分ほどの船旅の間、雨が降っていなければ私は殆ど船室に入ることなくデッキの何処かの椅子に腰掛けて、海を見ながら過ごしました。

東京湾フェリーのデッキで過ごす至福の時間

第6章 挑戦

[1].1日7万歩

 週末のてくてく旅が金谷港まで到着した翌週の9月18日の日曜日には、横浜市内で1日に7万歩歩くことに挑戦しました。房総半島の旅を続けながら1日に歩く距離を5万歩、6万歩と伸ばしてきましたが、いよいよ最終目標である7万歩で、この先どれくらい生きて行けるか不安な時期でした。この年の9月はそれからちょうど5年目にあたることもあって自分の回復具合を確認し、気持ち的にも病後に一区切りを付けるのにちょうど良いタイミングだと思いました。
 どこを歩いて7万歩を達成するかを考えた末に、房総半島の旅の中で行うには、出発地点までの行程と、帰りの行程で時間を取られてしまい、歩く事に充てる時間がその分だけ削られてしまいます。そこで、歩き慣れた横浜の街をコースに選びました。
 ちょうど9月18日と19日は山下公園を中心に世界トライアスロン選手権が開催されることになっていました。18日は国内の一般選手を中心にした大会となっていて、19日は世界の強豪選手を招待しての選手権大会になっていました。そこで、その当時はまだ関内にあった会社を拠点に、トライアスロンの見物を兼ねて市内を歩く計画を立てました。自宅から会社のオフィスまでは片道約12,000歩です。自宅とオフィスの往復で通常24,000歩になるので、寄り道を含めて自宅とオフィスの往復に3万歩を予定し、残りの4万歩をオフィスからトライアスロン見学を含めた横浜市街地ウォーキングで稼ぐように考えました。大まかなコースは関内駅近くのオフィスをスタートして、みなとみらいを廻ってからトライアスロンのメイン会場となっている山下公園を通り、新山下にゆき、本牧ふ頭D突堤の先端にあるシンボルタワーまで行って帰ってくるように設定しました。
 結局この日は朝の7時に自宅を出て、いつものデニーズで朝食を採り、オフィスまで歩いて一休み。午前中はトライアスロンを見学し、午後から夕方にかけて横浜市内コースを歩き、午後7時30分にオフィスを出発して帰宅の途につき、朝食を食べたのと同じデニーズで夕食を取り、さらに遠回りをして夜の10時30分に自宅に帰り着きました。
 iPod nanoの歩数計によると、何度も休憩を挟みながらですが、歩いた時間は15時間19分58秒、歩数は70,448歩、消費したカロリーは3,017カロリーでした。へとへとになりましたが、1日で7万歩歩けたことは大きな自信になりました。もちろん、ナイキのコミュニティーサイト、Nike+Activeでも”Yesterday's Best”を獲得しました。 

一日7万歩を達成しました。昨日の世界1位です。


 ただ、この日の挑戦は、年齢的にも、そして足にもちょっと無謀な挑戦であったようです。それまでも週末毎のてくてく旅で1日に長い距離を歩く事をしていたので、週明けのウィークデーに疲れと足の痛みが残っていることはありました。
 しかし、いつもですとだいたい水曜日辺りで疲れや痛みがとれ週末になるころには良好なコンディションでスタートできました。このように書くと、週末のてくてく旅をメインに据えて、ウィークデーは疲れを取りながら仕事をしていたように思われますが、もちろん本業をメインにウィークデーを中心に生活をしています。ウォーキングで身体が疲れていても、ストレスの解消ができて頭はスッキになったので、精神的にタフな仕事をこなすためにも週末のウォーキングは大変役に立っています。話しが少しそれましたが、7万歩を歩いた次の週は、それまでと少し違っていて足の痛み、特に右足の足首の上、前側の痛みが取れずに残っていました。

[2].アクシデント発生

 それでも翌週の9月24日は足の痛みをおして、金谷港から南を目指すために自宅を出発しました。それがいけなかったようで、アクシデントが発生しました。京浜急行の久里浜駅から東京湾フェリー乗り場の久里浜港まで歩いている時に少し違和感を覚えました。症状としては、歩き出しは全然問題が無いのですが、30分くらい歩いていたら右足の足首が、”じわーっと”、くじいたような感じの痛みに襲われてきました。そして金谷港に到着して歩き出してからだんだん痛みがひどくなってきました。その時は、館山まではムリでも、5キロか10キロ、行けるところまで行こうと歩き出しました。
 ところが、金谷港でフェリーを下りて国道126号線を明鐘岬まで来たところで、さらに問題が発生しました。国道にトンネルが見えて来ました、明鐘トンネルです。このトンネル、中の照明が全て消されて真っ暗闇になっています。しかもこのトンネル、とても怖くて中には入れません。車道が狭く、歩道はおろか、路肩と言えるスペースが全く有りません。歩行者・自転車注意の標識が有りますが、そんなことは全く効果はなさそうです。トンネルの入口には、「徒歩・自転でトンネル内にはいるときは下の赤いボタンを押して下さい」と書かれたプレートがあって、下に押しボタンが設置されています。どうやらこのボタンを押すと、トンネルの反対側の入口上部に設置してある電光標識で「歩行者・自転車に注意」などという表示がされて、トンネルの中に入ろうとするクルマのドライバーに注意を促す仕組みのようです。
 しかし、このような安全策が全く約に立たないのは直ぐに判りました。なぜならそのボタンを押してからトンネルの入口でしばらく見ている間に、トンネル内の暗闇を無灯火で駆け抜けてくるクルマが何台もありました。表示に気が付いて注意するならば、必ずライトを点灯するはずです。トンネルの長さはさほど無くはないのかも知れませんが、中でカーブしていて反対側の出口からの明かりは全く見えません。その暗闇の中から無灯火のクルマが飛び出してくるさまのとても怖いことと言えば、この上ありません。
 ここは迂回するしかありませんでした。しかし、この明鐘岬周辺は昔から交通の難所だったようで周囲に迂回路が全く有りません。唯一通るとしたら、海岸伝いの岩場を歩くことになります。出発前に十分な心構え、ルートの検討などをしてくれば良かったのですが、そのような準備もなく、ましてや足の痛みも相当酷くなってきていましたので、この日はここで引き返すことにしました。歩き繋ぎのてくてく旅で、次の駅なり目的地に全く進むことができずに引きか返したのは、このときが初めてでした。
 
 晴天の金谷港に降りたってから僅か2時間後、やって来たときと同じフェリー「しらはま丸」に乗って久里浜に帰るのは、さすがに意気消沈しました。3階デッキの一番後ろのチェアに座り、ぼやっと海を見ていました。金谷港を出て直ぐに、船客のご婦人方が、船に着いてくるウミネコにお菓子を与え始めました。すると直ぐにウミネコが何羽も集まってきてフェリーの上空を滑空しながら餌を欲しそうに滑空しています。餌をくれるご婦人をじっと見つめながら、時折餌が投げられると、素早くそれを空中でキャッチします。
 このウミネコ達の巧みな滑空技術とユーモラスな動きを見ていると、とてもおもしろかったです。ウミネコは風を捕らえて、巧みに滑空し、船と同じ早さで着いてきます。船のデッキで見ていると、まるで空中に止まって浮いているかのように見えます。そのくせ、ちょっとした風の乱れなどで、姿勢が乱された時の動きもハデで、鳴き声を上げながら羽をばたつかせ、高度を落として行きます。そのうちの何羽かはそのまま海に落ちてしまい、ぷかりと海上に浮かびます。いったん海上に浮かび上がった後は、直前までの騒ぎが何も無かったかのように、すました顔で海の上に悠然と浮かんでいます。大空を気流に乗ってフェリーと同じ早さで飛んで着いてくる巧みな滑空術。気流をつかみ損なった時の慌てよう。海に落ちた後にすまし顔で浮かんでいる様。ウミネコ達の姿を見ているだけで、沈んだ気持ちが一揆に解消されました。

乱気流にあおられるウミネコと近くで平常飛行のウミネコ

[3].感動とリベンジ

 翌週の10月2日、私は再び金谷港に降り立ちました。前週のリベンジで明鐘岬を越えるためです。この日は最初から、海岸沿いの岩場を越えるために、トレッキングシューズを履いて、軍手も用意し、それに相応しい準備をしてきていました。足の痛みも殆ど治まり、今度こそは明神峠の向こうJR内房線の保田駅側に出て、さらに南に進むことを決意していました。
 ところが、明鐘トンネルまでやって来て、とても驚きました。先週は中の照明が全て消えて真っ暗だったのに、今回は照明の半分が点灯していました。どういうことでしょう。東日本大震災から1ヶ月を過ぎた後に伊豆半島の国道135号線のトンネル内も真っ暗でした。この時は、国道の管理事務所にメールを出して危険性を訴えたら、先方から善処する旨の返事をいただいていました。
 しかし、今回は私は同じようなアクションを取りませんでした。震災から半年以上立っても真っ暗なトンネルの照明を直ぐに点灯して貰えるとは思わなかったし、点灯してもこ中でカーブして見通しの良くないこのトンネルを歩いて抜けようという気にならなかったからです。私が取った唯一のアクションは、ブログで明鐘トンネルの照明が全て消えていてとても怖い思いをしたと書いたくらいです。
 ところが、翌週やって来きてみると、トンネル内の照明が半分ですが、ちゃんと点灯しています。もしかしたら、私のブログを読んだ誰かが照明を付けるように言って下さったのか、それとも単なる偶然なのか、今も謎です。それでも、照明が戻って来たことは、とても嬉しいことでした。
 結局、この日は明鐘トンネルは通らずに、海岸線の岩場を歩いてトンネルの反対側に出ました。この地区では、さらに2つのトンネルが続いて在ります。同じようにトンネルを通らずに岩場を抜けるルートを探しましたが、秋に入ったばかりで、密集して生える大きな草がコースを塞いでいて先に進むことができませんでした。そこで、この2つのトンネルは、対向車に注意しながら中を歩いて通り抜けました。トンネル内の照明が半分点灯されていたことと、マグライトを持参してきていたので、接近するクルマに自分の存在を気づかせることができたので、事故やヒヤリとすることもなくトンネルを抜けることができました。
 話しは少しそれますが、伊豆半島も房総半島も岬を廻るように走る古い国道のトンネルには歩行者道が整備されていないトンネルが多くあります。これは他の海岸地域でも同じではないかと想像しています。地震のあとの津波に備えて避難することを考えると、これは非常に危険です。避難者の安全を守るためにも、歩道の付いたトンネルや、周辺の迂回路の整備などを進めて貰いたいと思います。

歩道もなく照明も消えたトンネル(当時)と反対側入り口に歩行者有を知らせる気休めボタン。

[4].太平洋へ

 10月に入っても、ビジネスの方は停滞が続いていました。ベンチャーキャピタルのとの交渉は相変わらずあまり進んでいません。先方の要求に併せてこちらが計画の変更なり、資料の準備をして、ミーティングに臨むのですが、そのつど、新たな条件、即ち、タラレバ話を出して来ます。もっとも、それの繰り返しが頻繁に行われていた訳ではなく、先方の話しは30分で済みますが、こちらの修正には数週間かかるので、私の仕事の中身はベンチャーキャピタルへの対応に多くの時間を取られるようになってきました。
 その一方で、委託事業という仕組みは実に硬直化した仕組みであることを痛感しました。 8月に、神奈川県の委託事業の一環で採用した社員の一人が、事情があって退職しました。普通ならば、当社の現状では補充などできる状態ではありません。しかし、委託事業の性質上、県からは10月までに1名の補充を行うように要請されていました。それを行わないと、契約金額を減ずる処置が取られます。月々の資金繰りが厳しさを増し、ベンチャーキャピタルにはのらりくらりと交わされ、暗澹たる気持ちの中での新規雇用は、このままゆくと委託事業の終了する翌年3月に行き詰まる可能性を感じずにはいられませんでした。
 それでも、その当時はまだ”国がついているからがんばれ”、”県がついているからがんばれ”という委託事業主達の言葉に、何か期待しているところがありました。
 
 2011年10月16日の日曜日は、5月5日に三浦半島の南端を出発して以来の、長かった東京湾を廻る歩きつなぎのてくてく旅が、最終日を迎えました。この日は館山を出発して、外房に出て、房総半島の最南端、野島崎まで歩きました。この日の天候は、朝方まで荒れ模様で、その後、急速に晴天へと回復して行きました。海は天気が回復してもしばらくは荒れた状態が続くもので、この日は一日中、大きな波が立っていました。
 久里浜から金谷港に向かう東京湾フェリーも大きく揺れながらの航海になりました。フェリーのアナウンスでは、外海側、つまり、久里浜から金谷に向かうときには右舷は、波を被るので、船室の外を歩くときには左舷を歩くようにと伝えていました。私もデッキには出ずに前方の船室のソファーに座って外を眺めていました。ピッチングを繰り返しながら進む船の舳先に、時折右前方からの大きな波がぶつかり、その波飛沫が2階の前方の窓にシャワーとなって降り注ぎました。船の揺れはちょうど私が船酔いを始める少し手前くらいの大きさなのでしょうか、これよりさらに大きくなれば気分が悪くなって、早い到着を祈るのみになるところです。ところが、まだ平気な揺れだったので、うんざりする周りの船客を横目に見ながら、大きな波が打ち付けてくるのを、カメラを構えながら待っていました。
 ”このエネルギーを何とか上手く利用する方法を考えなければ”
本業の手詰まり感も重なって、波力を利用した発電方法の検討を加速していたのもこのころです。このころになると、既にサーフィン発電の大まかな構想は固まっていました。海の波は沖合ではばらばらなように上下動を繰り返していますが、海岸に近づくにつれて位相が揃った、正弦波になり、波打ち際で水平方向の流れになって消え果てる。波、即ちエネルギーですが、このエネルギーが消える末端の水平方向の流れを利用しようとするのが私の考えた「サーフィン発電」の最大の特徴です。但し、この頃は、「サーフィン発電」という名前そのものは考えついていませんでした。そして、大きな2つの問題に対して自問、自答を繰り返していました。
 末端の波打ち際の海水の流れは、エネルギーが最も小さくなった、波の成れの果てでもあるので、このままでは大きな出力が得られません。沖合から波を集めてくるにはどのような集波板を作れば良いか、それで集めてこられるだろうか。
 波打ち際の波の動きは往復運動をしている。これを効率良く電気エネルギーに変換するにはどのような構造の発電機が適しているだろうか。
 このころ考え続けていた問題が、現在ではそのままサーフィン発電の特徴となっています。

荒天の中を進む東京湾フェリー

[5].波のエネルギー

 金谷港に着いた後は、内房線で館山駅までやって来ました。午前10時に館山駅を出発し、国道410号線を真っ直ぐに南下し、外房へと向かいました。正午に向かうにつれて天候は急速に回復し、夏を思わせるような眩しい太陽の光が降り注ぐようになってきました。
 途中で山の頂上を深い谷のように切り抜いた峠があり、その峠の先、右手に館山運動公園が有ります。この館山運動公園から先は、道路は概ね下り坂になっていて、緩やかなカーブを繰り返しながら、徐々に周囲の山が両側に去り、視界が開けてきました。だんだん海に近づいて来ていることが実感されました。これまでも何度も海を見ながら歩いて来ました。それでも、東京湾を廻る内海と、房総半島の先に見える太平洋とでは海が違います。里見八犬伝を思い起こさせる名前が残る田園地帯を、早く太平洋を見たくてわくわくしながら歩いて行きました。
 やがて国道410号線に館山から海岸沿いを廻ってきた房総フラワーラインが合流してきました。その合流地点にある平砂浦ふれあいショップで昼の休憩を取りました。ショップに併設したガーデンで素朴だけれども心のこもった昼食を採りました。目の前は起伏のある畑が広がります。その直ぐ奥は太平洋が広がっているのですが、視界には海は全く見えません。それでも空と台地の境の丸っこさと、海からやって来ましたという顔をした雲が、その先に大海原が有ることを感じさせてくれました。
 昼食を採って、一休みしたところで出発しました。ふとウッドデッキに目をやると、大きな赤い沢ガニがいました。ここから海は見えなくとも、沢ガニが散歩でやって来る距離に海があることが判ります。カニさんに挨拶をして、リュックを背負って歩き出しました。
 国道の緩い坂道を登ってゆくと、前方に短いトンネルが見えて来ました。トンネルの向こうに空が見えます。
 「峠の短いトンネルを抜けるとそこには大海原が広がっていた。」
何やら、聴いたことがあるようなフレーズを考えながら、トンネルへと入って行きました。
そして、トンネルを抜けました。そこに見えたのは海岸沿いの集落でした。あらあら、民家が有るので、その先の海が見えません。クルマだったらほんの一瞬に通り抜けてしまう距離を、じらされながら足を進めて行きました。 
 やがて、民家の屋根と屋根の間から、待望の太平洋が顔を覗かせるようになってきました。そして国道は高台の切れ目から海を一望できる布良崎へとやって来ました。青木繁の「海の幸」の記念碑が建つ高台から見える太平洋の雄大な眺めに圧倒されました。
 眼下に広がる芝生と低い木の生えた台地。その向こうには大きな白波が押し寄せる深い青の太平洋。その一部は太陽の光を反射して眩しく光っていました。そして明るく青い空。
そこに浮かぶ白い雲。5月5日に三浦半島の先端をスタートして、歩き繋いで約半年。ようやくたどり着いた太平洋はエネルギーに溢れていました。
 
 海より少し高いところを通るフラワーライン・国道410号線は、南房総市に入り、海沿いの白浜フラワーパークを過ぎた辺りから高度を下げ、海岸沿いへと降りて行きます。
 国道410号線は海岸まで降りてきたところで、いったん海沿いを通る県道と別れて、内陸よりの集落へと伸びて行きます。当然、私は海岸沿いの県道へと進んで行きました。右手には広い砂浜、左手には海風からの緩衝帯となっているのか、広い原っぱが続きます。県道は道幅も広く、広い歩道も完備されています。
 この辺りの海岸は砂浜を中心に大きな岩があちらこちらで海中から顔を覗かせています。
大きな波が岩にぶつかって浪しぶきを上げなら、さらに力強く砂浜へと打ち寄せていました。砂浜にはたくさんの枝が打ち上げられていました。大小無数の枝が散乱し、ビニールやプラスチックのゴミを混ざっているので、決して綺麗な海岸というイメージは受けませんでした。しかし、広い海岸に人影もなく、大きな波が打ち寄せる様はとても野性味が溢れるものでした。
 海岸沿いを歩き始めて程なく、前方に最終目的地の野島崎灯台が見えて来ました。斜め後ろから強い風を受け、海面に反射する太陽の光を顔に浴び、海岸に打ち寄せる波を見ながら歩いていると、まるで自分が海からのエネルギーを貰いながら前に進んでいるような錯覚を受けました。いや、もしかしたらこれは錯覚なんかじゃなくて、案外、人間は陽の光や風や波からエネルギーを吸収している生き物かも知れません。
 その時の私は確かに海からのエネルギーを全身で受け止めながら残り僅かとなった行程を元気よく歩いて行きました。

南房総白浜の海岸

[6].房総半島の旅の終わり

 2011年10月16日、午後2時52分、野島崎灯台がある野島崎公園の岩場の一角で、波が殆ど入ってこない岩陰の海面にポチャと右足を浸けて、この旅が終了しました。迎える人が誰もいない、誰にも気づかれない一人だけのゴールインでしたが、なんだか誇らしく、そしてまた一段と自分に自信を持つことができたゴールインになりました。そして、野島崎公園を離れて、安房白浜のバスターミナルへと向かいました。途中で北へと続く海岸を眺めながら、波力発電の実現にさらに力を入れなければならないと考えていました。
 安房白浜のバスターミナルからは、路線バスに乗ってこの日歩いて来た道とほぼ同じ路を反対方向に進み、JR内房線の館山駅に戻ってきました。館山駅からはJR内房線の電車に乗って、金谷駅まで戻って来ました。金谷駅ではホームを跨ぐ歩道橋を渡って駅舎へと向かいます。歩道橋の上から見た鋸山は、ちょうど岩肌に夕日が射して、幻想的に輝いていました。
 金谷港のフェリーターミナルに戻ってきたのは午後4時50分。ちょうど夕陽が海に沈みかけている時でした。この時刻になっても岸壁には大きな波が勢いよく打ち付けていました。そして、オレンジ色に染まった西の空には富士山がうっすらと、そして雄大なコントラストを見せていました。
 夕暮れに染まるフェリーターミナルで、久里浜港からやって来る折り返しのフェリーを待つ間に何枚かの写真を撮りました。その中の1枚に忘れられない写真があります。埠頭の先端に「恋人達の聖地」と名付けられた鐘があります。その鐘を、お母さんに抱きかかえられた赤ちゃんが鳴らそうとしているところです。直ぐ横では、小さなお兄ちゃんをつれたお父さんが携帯のカメラをかざして母子を写しています。ちょうどバックには金谷港に入港してくる「しらはま丸」が夕陽を浴びて波を越えながら大きく迫って来ています。私はこの写真の中にいろんなものが詰まっているように見えます。家族の平和、子供達の未来、沈みかける太陽と波のエネルギー、多くの人々を乗せてその波を越える船・・・。忘れられない一枚になりました。
 列の先頭に並び、いち早くしらはま丸に乗り込んだ私は、船内の売店に直行しビールと焼きそばを買いました。普段の旅の帰りの船内や電車内では、波を使った発電方法のあれこれや、月曜日からの仕事のことなどを考えながら、気が付くと眠っているパターンでした。 でも、この日は船室内のソファーに座り、ビールを飲み、船の揺れに身体を預けて、ゆっくりと旅の余韻を楽しみました。最近にはなかなか味わえなかった至福の一時を感じました。

「恋人達の聖地」の鐘を突く家族と迎えにきたフェリー「しらはま丸」


第7章 サーフィン発電

[1].舵取り

 南房総への歩きつなぎのてくてく旅を終えた10月17日月曜日からのその週のウィークデーは、仕事の面では1つの節目となる週でした。国からと県からの委託事業を進める当社にとっては、公的な年度の区切りに従ってスケジュールを組むので、4月から9月がその年度の前期、10月から翌年3月が後期になります。10月17日は前期の成果報告を行う週になっていました。

 委託事業にはそれぞれ事業期間というのが定められています。当社の受けた委託事業は両方とも2年間の事業でした。そしてこの時は2年目の前期の成果を振り返る時となっていました。2年間の委託事業と言っても、初年度は夏前に審査が始まり決定されるのが夏。そして、開始が8月の終わりから9月になっています。従って実質的には後期の半年間しか事業期間がありません。また、2年目の後期は年が変わって1月に入るとまとめの段階に入りますので、前年の12月までにおおよその成果を上げておかなければなりません。こうして考えると、一番事業に集中できるのは2年目の前期と言うことになります。

 その2年目の前期の始まる直前に東日本大震災が発生し、しばらくは世の中の動きが止まったようになり、あてにしていた資金調達が振り出し、いや、振り出し以前の状態に戻ってしまってしまいました。だから事業の進展が思うように進んでいるはずがありません。

 このような大きな天変地異が起こったときには、経営者は何よりも経営の舵取りが重要です。しかし、委託事業と云うのは、やり始めたらなかなか変更がきかない、融通の効かない面がはっきりと見えていました。事業規模の縮小やゴールの変更は認めて貰えません。国や県の担当の方からは、こんな時だからこそ目標を変えずに事業をやり通して欲しいと要請されていました。元々資金が乏しく、既存の顧客、マーケットを持たない当社にとってはそれは非常に厳しい要求でした。それでも、もし、委託事業が無ければ、間違いなく震災後直ぐに経営が立ちゆかなくなり、倒産の憂き目にあっていることは自明でした。それを考えるとまだまだ恵まれた方だとも思っていました。

 そこで取るべき戦略は、できるだけ普段の出費や投資を抑え、後送りにしながらベンチャーキャピタルを中心とした民間からの資金調達の道筋を早く着けることでした。これを航海に例えるならば、成果目標が目的地、社員は船の乗組員、そして航海を行う燃料は公的と民間調達の資金です。船長である私が取った航海術は、目的地と船員の数は変えずに、もっと正確に言うと、変えることは許されずに、燃料の消費をできるだけ抑えながら、なるべく近くの島で燃料の積み込みを行うことでした。

 燃料を供給してくれるのはベンチャーキャピタルということになるのですが、これがなかなかくせ者で、夏頃には、いろんな島から燃料が有るから寄港して下さいと誘われるので行ってみますが、どこも燃料を分けてくれるところはなく、やがて寄港する島も無くなって行きました。そしてこのころには、交渉相手のベンチャーキャピタルを1社に絞って、唯一の航路を島伝いに辿って行きました。それでもなかなか燃料を補給してくれる島はなく、1つの島に期待を持ってたどり着けば、次の島まで行けば燃料を供給してくれると言われることの繰り返しでした。

 こうなってくるとその次の対策も考えなければなりません。委託事業を完了までもって行くことと同時に、委託事業が終了する次年度の4月以降の会社の生業について現業に頼らない方向も考え始めていました。それは、新規に新たな事業を考え出すのではなく、波力発電の推進から新たなビジネスを構築することでした。東日本大震災に大きなショックを受けて、何とか日本を元気にしたい、自分として社会貢献できる何かをしたいと考え始めたことが、徐々に自分の会社のサバイバル方法の柱にもなってき行きました。

[2].再び伊豆へ

 東京湾一周の旅を終えた翌週の10月23日の日曜日、新しい旅が始まりました。
 今回も休日を利用しての歩きつなぎのてくてく旅で湘南から伊豆を目指します。前年の暮れから、今年の4月にかけてほぼ同じコースを歩きました。

 今回は、歩く途中に、鉄道の最寄りの駅に立ち寄りながら、各駅停車ならぬ各駅道草で進みます。そして、伊豆急行の路線では、第8回伊豆急全線ウォークのイベントに参加します。 

 帰りも同じように途中の全線全駅に立ち寄りながら歩いて、翌年、2012年の5月末のゴールインを目指しました。コースとしては、京浜急行線に沿って、逗子の海岸に出て鎌倉に行き、鎌倉からは江ノ電伝いに藤沢まで進み、藤沢から小田急江ノ島線で、片瀬江ノ島の駅に戻り、東海道線、伊豆急行線と進と進んで行く計画にしました。往路のゴールは、伊豆半島の南端の石廊崎です。当初は10月の最初の日曜日にスタートしたかったのですが、東京湾を廻る旅が少し後ろに押してきたので、約1ヶ月遅れのスタートとなりました。

 基本的には、相模湾を海岸沿いに歩くことになりますが、最寄りの駅が海岸から離れている場合には、その分だけ、寄り道をして駅に立ち寄ることになりました。また、伊豆急全線ウォークの区間内では、当然、このイベントで設定されたコースを歩くことになります。

 伊豆急全線ウォークのコース設定は、伊豆の海岸と背後の山との間を登ったり、降りたりのアップダウンのきつい設定になっています。だいぶん調子が良くなったと言え、心臓は左右とも下半分が動かず、血液を送り出すポンプの機能が低下している私にとって、急な登り坂はハンディを感じるところでもありました。それでも、前回の伊豆半島を訪れた旅、そして東京湾を一周して房総半島の南端まで歩いてすっかり自信を付けていた私は、この旅が楽しくてたまりませんでした。それは刻一刻と厳しさを増してくる会社の経営の問題を一時とは言え忘れさせてくれる格好のリフレッシュになりました。この旅の模様は、私のブログでは、伊豆急下田駅までの往路を「湘南・伊豆各駅ウォーク」として、伊豆急下田駅から石廊崎を訪問し、Uターンして自宅に帰ってくるまでの旅を「元気に帰ろう」というシリーズ名で掲載して行きました。

 初日となった10月23日は自宅の最寄り駅である京浜急行の上大岡駅をスタートして、同じく京急の金沢八景駅まで歩きました。こののち、寄り道をして金沢シーサイドラインに乗って、水族館で有名な八景島に隣接する、横浜海の公園に立ち寄りました。大きな人工の砂浜が広がる海の公園の砂浜には、小さいけれども規則正しい綺麗な波が打ち寄せています。波が小さいということは波力発電では大きな出力は期待できません。しかし、初期の小規模な実験を行うには、この場所は好都合です。ゴールデンウィークのころの潮干狩りで大勢の人がやって来る頃や、真夏の海水浴シーズンを避ければ、普段は雄大な砂浜に人影も少なく、ゆっくりと波を観察できます。
 旅の2日目にあたる10月29日の土曜日は京浜急行の金沢八景駅をスタートして、先ずは三浦半島を横断して新逗子駅、そしてお隣のJR東日本の逗子駅へと向かいました。
 JRの逗子駅からは少し南に戻って渚橋交差点のところから海に出て、逗子の海岸、鎌倉の海岸を歩いてJR東日本の鎌倉駅まで到着しました。この日のゴールはここです。
 帰りには再び逗子の浜辺に立寄って、砂浜に座って音楽を聴きながら海を眺めてのんびりしてきました。ぽかぽか太陽と青い海。たっぷり充電できました。
 日曜日に出かけることが多い歩きつなぎのてくてく旅ですが、天気予報を見て、土曜日の方が天気が良いだろうと言うことで、この日の出発になりました。天気は快晴。絶好のてくてく日和ですが、少し平日の疲れが残っていたので、遅めのスタートとなりました。

 金沢八景駅スタートして次の立ち寄り駅は六浦駅です。六浦駅とその先の神武寺駅の間で横浜市と逗子市の境界を越えました。この境界線を越えるときに、次に横浜に戻ってくるのはおそらく半年以上先になるので、その頃は自分を取り巻く環境も大きく変わっていることを予想しました。もちろん、実際には1日歩いてその日のゴールに到着すると、後は電車で横浜の自宅に戻るわけですから、半年以上も横浜を離れるわけではありません。ここでは、現在の生活環境を維持したまま、週末毎の旅を続けて無事に半年先に帰ってこられるかを考えていました。その当時のブログには、心境を
「きっと帰ってくるからね~!!」
と書き綴っています。

 そして午後零時30分頃に、逗子の海岸と三浦半島を分ける田越川にかかる渚橋へとやって来たときには、前年の11月に始めて遠くに歩き出したときの頃を思い出して、懐かしさに浸っていました。

[3].湘南ビーチ

 てくてく旅は2011年の11月3日に、鎌倉駅から江ノ電に沿って藤沢駅まで進み、11月6日に、藤沢駅から小田急の江ノ島線に沿って江ノ島まで戻って来ました。そして11月12日に小田急の片瀬江ノ島を出発し、湘南海岸沿いの遊歩道を西に向かって歩き、JR東海道線の茅ヶ崎駅まで進みました。

 この日の道中に「サーフィン発電」の構造と名前を思いつくことになりました。海に押し寄せる波の最終段階、砕波して水平方向の流れとなった海水の運動エネルギーを電気に変換する方法は、私より先に考えた人も何人かいますし、それは特許公報でも見つけることはできていました。私も自分のオリジナリティーを持った考え方を徐々にまとめつつありました。その中で、頭の中で解決できずにいた問題の一つが、寄せ波、引き波と往復運動をする波をどう扱うかということでした。

 この日は朝から空気が澄んだ快晴で、とても気持ちの良いウォーキング日和でした。午前10時過ぎに片瀬江ノ島駅を降り立った私は、江ノ島の袂で海に流れ込む境川の河口の西側から始まる県立湘南海岸公園から浜辺に出ました。公園の入口付近にあって湘南の海を見渡す広場では、何人もの人が同じように西の方向を向いて立っていました。その中の一部の人達は盛んに写真を撮っていました。そこから見える景色は大きく湾曲して伸びる湘南海岸と湘南の海、そして遠くで左側へと続く箱根から伊豆半島の山々が小さくつらなり、その上に雲がかかっています。その雲の上に雪を被った富士山の頂上が顔を出していました。皆さんは、海の向こうに見える富士山を観ていたのです。私もしばし、その雄大な景色に見とれ、写真を撮り、そして海岸を西に向かって歩き出しました。

 湘南海岸公園の海では、11月の下旬なのに多くの人達がウエットスーツを着て、海の中に入っていました。サーフィンをする人、ウインドサーフィーンをする人、泳ぎをする人、ライフガードなのか、救助訓練をする人など、様々なアクティビティをする人達で、海の中はとても賑やかでした。自分も何でも良いから海の中に入って、波を楽しみたいという思いをしていました。
 この日の波は少し高めで場所によっては3メートルくらいの高さの波が押し寄せてきていました。大きな波が入るスポットでは大勢のサーファーが波を待って海に浮かんでいました。左手に太平洋を見ながら、海岸に沿って延々と続く遊歩道を気持ち良くウォーキングしてゆきました。湘南海岸をクルマで走る場合には国道134号線を走ることになります。国道134号線は左手に防風林が広がり、海を見渡せるポイントは限られています。その防風林の海側に続くこの遊歩道は、お気に入りの散歩道です。ここの辺りをクルマで走るのはもったいないです。是非とも、歩いてみて下さい。 

湘南海岸のボードウォーク

[4].サーファーが教えてくれた

 辻堂駅に立ち寄るために一旦、海岸沿いを離れた私は、県立辻堂海浜公園・交通公園のところで再び海岸の遊歩道へと戻ってきました。茅ヶ崎市に入って、遊歩道の一部には、海側に木で造られたウッドデッキ状のボードウォークという歩行者専用の小道が設けられています。このボードウォークの2カ所に同じく木材で組み上げたスタンドがあります。
 そのスタンドに座って目に見えるものと言えば、砂浜と太平洋です。ただ、海を見て時間を過ごすためだけに設けられたスタンドです。それでも、ここの居心地は大変良いものです。海の中では何処かしこにサーファーが入ってサーフィンを楽しんでいます。だからこのスタンドはサーファー達のライドを見て楽しむためのスタンドであるのかも知れません。午後1時、そろそろ足が疲れてきた私は、そのスタンドうちの一つによじ登り、一番上の席から海とサーファーを見ながら休憩していました。

 この時、一人の女性サーファーがボードをもって、沖合に向かおうとしていました。この頃は3メートルくらいの波が押し寄せ来ていて、沖に向かうサーファー達はその波を巧みにいなしながら進んでゆきます。彼女の目の前で波が立ち上がったとき、彼女は抱えていたサーフボードに被さるようにして波に対峙する面積を小さくし、波の下の部分に潜り込んでゆきました。直ぐざまその波は彼女の上を通り過ぎて、砂浜で勢いよく砕け散りました。まもなく、彼女は先ほど波の下に潜り込んだところの少し前に浮き上がり、ボードの上でパドルしながら沖へと進んでゆきました。
 この一連の動きを見て、「サーフィン発電」という言葉と、SNB型と呼んでいる特許の発電機の部分を思いつきました。

 サーフィン発電は波のエネルギーを使った発電方法の中でも、波の末端、上下動で伝わってきた波が砕波して、水平方向の水流となった部分の運動エネルギーを利用した発電方法です。波は沖合ほど大きなエネルギーを持っていて、海岸に行くに従って海底の抵抗などに寄って減衰し、浅くなるに従って伝搬速度が弱くなり、後ろからの波が重なってきて大きな正弦波となったのちに、さらに浅くなったところでそれが砕け散って水平の流れとなります。だから、浜辺での波の寄せて引いてという動きは、波の末路、エネルギーが一番弱くなったところです。

 それを敢えて使おうと考えたのは、私が2010年の11月から海岸沿いをずっと歩いて来たことが影響していると思います。ウォーキングは安上がりで、健康に良く、ずっと続けられる健康維持向上の方法だから、闘病生活のころからずっと続けてきました。そしてその延長線上に海岸沿いのてくてく旅を始めました。海岸で見える波のエネルギーの形は打ち寄せる波の印象が強く残っています。これがもし、私がお金持ちで、大型ヨットやモータークルーザーで外洋に繰り出していれば、沖合のうねりを使った発電方法に心がとらわれていたかも知れませんし、ウォーキング以外の例えば室内でのトレーニングに切り替えていたならば、波を使った発電方法は考えていなかったかも知れません。海岸を歩きながら何となく考え始めていたことが、3・11の大震災でさらに加速され、本業の苦しさも加わってさらにイメージを研ぎ澄ませてゆきました。全ては不思議な運命の巡り合わせの下に動いているような気がします。

[5].二つの課題

 もっとも、波の末端、水平方向の流れを利用しようとしたのは、私が貧乏で波打ち際でしか考えられないからだけではありません。ここが波のエネルギーを効率良く取り出せるポイントであるからです。沖合に出れば、波は大きくなってうねりとなり、そこには大きなエネルギーが含まれています。一節によると日本の周囲の沖合には平均して1平方メートル当たり10kwのエレルギーを持っていると言われます。それを広大な面積から上手く取り出す方法がなかなか見つかりません。波の上下動を利用した発電や、左右の揺らぎを利用した発電方法は、大きな波を利用しますが、非常に限られた範囲でのエネルギーしか利用することができず、効率の面で優れているとは言い難いものがあります。

 そこで私は、波のエネルギーを最も効率良く取り出せる方法は、砕波した後の、水平方向の流れを利用することだと考えました。次に、水平方向の流れを利用して効率良く発電するために、二つの大きな課題を設定しました。一つ目は、広い範囲から波を集めてきて大きくて強くて安定した水平方向の流れを生み出すことです。もう一つは寄せては返す往復運動が基本の水の流れを如何に効率良く電気エレルギーに変換するかです。

 前者に対しては、波を集めてくる集波板、集波板に続いて手元側に在って理想的な水平流を生み出す整流板を考えることになりましたが、これはだいたいの形を決めた後は、シミュレーションと実験を繰り返しながら高度化、大型化を進めて行くことになります。それを考える以前に、果たして広い範囲から波を集めてくることができるのかという疑問が生じました。これについては、現在でも確証が在るわけでは在りませんが、長い時間にわたって海岸を歩き続け、様々な波の挙動を見てきた結果、私は波を集めてくることができる方に賭けてみることにしました。少なくとも今の御時世では、試してみる値打ちがあると確信しています。

 一方、後者に対しては、茅ヶ崎の海岸で向かってくる波に対して、サーフボードを抱えて小さくなって波の下に潜り込み、波をやり過ごしたサーファーの動きから解決策を見出すことができました。二つの滑車を結んでベルトやロープを張ったループの上に、フロートを取り付け、そのフロートの上には後ろから水流を受けた時に開いて前向きの力を得て、前から水流を受けたときには羽が閉じて抵抗を減らす羽を取り付けます。これが、現在はSNB型と呼んでいる特許として認められた発電装置の考えです。

 翌年の1月になって、同じく水平流を使った別の形の小型で波頭の挙動を調べるのに適した発電装置を考案しましたので、こちらと分ける意味で前者をSNB型、後者をOLB型と呼ぶようにしました。湘南地域に住んでいる方は既におわかりかと思いますが、SNBという名称は湘南ビーチから、OLBという名称は大磯ロングビーチ(人工波があるプールの名称)に由来しています。
 そして、「サーフィン発電」という名称は、前出のサーファーが波の下に潜って、向かってくる波をやり過ごす方法を教えてくれたので、それに敬意を表して名付けました。 「サーフィン発電」と聴いてサーフィン、サーファーを観て考えついた発電の機構だからと想像される方も多いと思います。それは、その通り正解です。ただし、華麗に波乗りをする姿ではなく、小さく波の下に潜る姿に由来しています。

[6].特許出願

 週明けの11月21日の月曜日、SNB型と呼んでいる発電方式の「整流板とフロートを用いた波力・水力発電方法」の特許を書き始めました。そして、水平方向の流れに転じた波のエネルギーを使った発電方式に使う言葉として、「サーフィン発電」を商標出願することにしました。
 殆どの会社では、特許の出願は弁理士さんに介在して貰うと思います。当社は常に資金調達に苦しむ貧乏なベンチャー企業だったので、弁理士さんに払うお金も有りませんでした。そこでCAD担当の社員を特許担当に任命し、以前から特許関連のセミナーなどに出席して出願に関する知識、ノウハウを学んで貰っていました。

 その社員に特許出願、商標出願に係わる文書と、簡単なアイデアスケッチを渡し、特許庁への出願を任せました。私よりも10歳年上の彼は、特許出願に関する中小企業を対象とした費用軽減処置や、早期審査請求適用認定作業などをこなしてきた経験をベースに、特許出願を2011年12月6日に、商標出願を12月19日に行いました。
 この12月6日は、その当時の本業の半導体用フォトマスク検査装置の事業についての記事が日刊工業新聞に掲載されました。12月7日の私のブログにはその記事と一緒にサーフィン発電のことを書いています。
 単に特許出願が受理されただけで堂々とブログに書いてしまう私はうつけ者ですが、このころから半導体用フォトマスク検査装置の事業とサーフィン発電の構想が大きく絡み合って、当社の運命、そして私の生活も一変して行くことになりました。

あとがき


 ここまで、長い文章を読んでいただきありがとうございます。
 現在は2022年の7月です。あれから10年の月日が過ぎました。
 この後、波のエネルギーを使った発電に関しては2件の特許を取得し、「サーフィン発電」という名前の登録商標を取得することができました。
 でも、そのことを会社の存続に貢献させるには至らず、2013年5月にはすべての従業員にやめてもらい、関内のオフィスも解約して横浜駅に隣接したレンタルオフィスにて一人で会社の存続と再建を模索することになります。
 この記事をまとめていたのもこの頃になります。

 結局、この年の10月には会社の存続も諦めて、会社の清算手続きに入りました。
 世間ではよく、“会社は作る時よりもしまう時の方が大変だ”と言われます。全くその通りだったと思います。債務もいっぱい残ったので、督促の電話や訪問が続く中、弁護士をたてて粛々と手順を踏んでゆかなければなりません。会社はもとより、住んでいたマンションも競売にかけられ、住むところもなく、職もなく、信用もなく(銀行口座や、クレジットも使えなく)、そこからの生活の再建はこの記事に書いてある日々よりも何倍も大変でした。
 それでも何とかなるものですね。レンタカーの洗車と回送の日雇いの仕事で何とか収入の道を見つけ、渋谷に親切な不動産屋さんを探し出して、営業マンと二人で汗をかきながら横浜を歩き回って新しいねぐらを見つけました。そうして、生活を立てなおしながら破産処理を進めてゆきました。

 今思うと、あの時こうすれば良かったとか、あんなことにこんなに時間を費やさなければ良かったなど反省点は幾らでもあります。国や県からの委託事業による資金提供は非常にありがたいものですが、怖い面もあります。noteではこれら会社を興し事業を展開してゆこうと考えている皆さんに役立つ情報(資金作り、人脈作り、地雷を避ける)を提供してゆきたいと考えています。
 失敗した元ダメダメ社長の意見など役に立たないとお考えの方はスルーしてください。

 最後に会社を作って良かったと思うこと、一番の自慢話を書いて終わりにしたいと思います。

 2013年の3月ころには従業人に給与も払えない状態になっていました。雇用保険他の社会保険料はその直前までは収めてきていたので、彼らには労働基準監督署に行ってもらうことにしました。そのことで、未払いの給与と失業保険を受け取ることができるようになりました。
 但し、従業員の給与を払わないことは犯罪になります。6月ころには労働基準監督署から呼び出しが来て、月に1回の割合で取り調べを受ける身となりました。その半年後、書類送検となり検察から呼び出しを受けました。その時の気持ちとしては実刑判決はないだろうけれど、執行猶予付きの刑で処分が進められるかも知れないくらいの覚悟はしてゆきました。
 ところが検察官の口調は非常に穏やかで、労働基準監督署から送られてきた調書をもとにいくつかの事実確認がなされ、今回の件は書類送検をもって終わりとするというものでした。その後、検察官からは具体的な内容は話せないという前提のもとで、私よりも先に聴取を受けていた従業員の調書のことを話してくれました。
 それによると、“誰も社長の処分を望んではいません。社長は従業員の生活を守る為に必死に働いてくれました。社長は何も悪くはありません。社長を罪に問わないでください。”という私を擁護してくれる記述がたくさんあったそうです。通常だと従業員に給与を払えなくなった社長はボロクソに言われるそうです。“あんな放漫経営をしているから会社がつぶれる”だとか、“人の言うことに耳を貸さないからそうなる”とか、中には“あんな社長は牢屋に入れて下さい。”という発言まであるそうです。
 そして、“こんなに社長のこと思う、従業員の調書は見たことがない。”と言われました。

 みんな、ありがとう。

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