ジミー・ペイジの真実を読了して②

雨後の筍状態の60年代後半から70年代のロンドンミュージックシーン

前回の感想文から大分時が経ってしまったのは、決して私の怠惰さが原因ではなく、とにかくこの頃のロンドンは兎に角後に大物になる人物が雨後の筍ごとく登場するので、それぞれに調べていたら、時間がかかってしまいました。前回までのジミー・ペイジさんは16歳でお気に入りのバンドにレコーディングを持ちかけたり、後に彼に大きな影響を与えるアリスター・クロウリーの書と出会い、生涯の友ジェフ・ベックと出会っていました。その頃と若干時系列が前後しますが、彼の休養と気づきのアートスクール時代を振り返ってみましょう。

アートスクールに通いながら週12ドルで英気を養おう

そもそもジミーがアートスクールに通うようになったのは、ツアー生活の疲労がたたっての結果でした。彼は、学校を出てからツアーやセッション・ミュージシャンをこなすことでいい稼ぎを得ていたものの、体調が悪くなってしまい、彼の音楽に次ぐ情熱であった絵画を学ぶため、アートスクールに通うことになります。そして、アートスクールに通いながら、週12ドルで暮らし、ギターを弾くという生活で英気を養うことに。その頃のジミーがアメリカのペンパルに送っていた手紙があります。ペンパルの相手ははジェリー・リー・ルイスのファンクラブの会長で、レコードを送りあったりする音楽友だったようです。(筋金入りのレコードオタクですね...。)

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この頃の彼自身の生活についてこう書いています。

アートスクールに通い始めた。そこから週12ドルもらえてそれがお小遣いになるから、今の生活には満足。でも、次の収入の予定がなにもない状態で暮らしていて、本来なら2年で完済予定のギターとアンプのローンを、僕が半年で払い終えようとしていると君が知ったら、それがどれほど大変か想像つくだろう!

本当にどうでもいいことですが、ジミーは近しい人(父親やジェフ・ベックからは"ジム"と呼ばれてますね。この手紙も"ジムより"で締めくくられています。

イギリス史上初のアメリカ人ブルースアーティストのパッケージツアー開催!

ジミーは友人と一緒に、イギリス史上初のアメリカ人ブルースアーティストのパッケージツアーを見に行くことに。しかし、前回のツアーでの車移動に辟易していたと思われる彼は、一人だけ電車で行き(一人っ子ぉ...)マンチェスターで友人と落ち合うことにしました。その友人は一人ではなく、3人の知り合いと共にロンドンを離れます。その3人とは、後のローリング・ストーンズのミック、キースとブライアン。現地ではそれぞれにフェスを堪能し、ジミーは友人やローリング・ストーンズ達と車に同乗し、ロンドンに戻りました。(帰りは乗るんかーい。)

ファイン・アートと自身の音楽に関する考え方の類似点

ジミーはアートスクールで学ぶことにより、自身の敬愛する抽象画家のほとんどが、テクニック的にも非常に優れた画家であることに気が付きます。長い間、修行を積み、古典的な構成や画法を学び、そこから独自のスタイルを確立していったことに。その手法は、自分の音楽活動にも通じるものがあると考えます。

初期のバンド活動から、スタジオ・ミュージシャンとなり、プロデューサーとなり、アート・スクールに通ったということは僕の修業時代だったと思う。いろいろなアイディアを学びながら、基礎を築いていたけれど、本当の意味で音楽をプレイしていなかった。そして、ヤードバーズに加入して、バーーーン!今まで学んだことが、全てあるべき場所に収まって、本当に面白いことが出来るようになった。そうしたことで得られた自信を、僕は飽くことなく求め続けている。

音楽好きの中でたまに聞かれる「ジミー・ペイジは下手くそ」という意見も、数々の経験を積み重ねた彼の前では、全く意味のないものに聞こえるでしょうね。そして、何においても基礎を学ぶこと、そのうえで自分なりの工夫をする。最初からギターを下げて弾いてはいけない、というジミー先生からの教えですね!

















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