【神奈川のこと59】鶴田真由と一緒に通学した日々(小田急線/藤沢駅)

この連休は、喜びと悲しみが交錯した。

「悲喜こもごも」というのは、こういう場合に使うのか。

そして、この暑さも手伝って、少し疲れてしまった。

よって、これを書く。

昭和61年(1986年)、高校一年生の時。中学校の同級生、テツと一緒によく通学した。

朝、6時50分ごろ、地元のバス停「西ヶ谷」で藤沢駅行きの江ノ電バスに乗り込むと、その一つ手前の「津村」停留所から乗ってきたテツが、二人掛けの席に座って、席を空けておいてくれた。当時、「赤羽」の停留所はまだ無く、「津村」の次は「西ヶ谷」であった。

藤沢駅に到着。小田急線の改札を通って、4番ホームで同駅始発の各駅停車町田行きを待つ。小田急線の藤沢駅は、今でも当時と全く同じ作りとなっている。町田市出身のウチのカミさんは、今でも、この小田急線藤沢駅が「不思議な感じ」と言う。あのスイッチバックの作りが、見慣れない人にとってはそう感じるのであろう。

やがて、電車が入線、首尾よく二人並んで席に座る。当時はまだ、冷房車ではない、扇風機の電車にもよく出くわした。でも、夏は今ほど暑くはなかったので、へっちゃらであった。

陸上部の練習で毎日ヘトヘトだったので、電車に乗ったら、すぐに眠った。テツは横でずっと漫画雑誌を読んでいた。

相模大野に着くと、「じゃあね」と言ってテツと別れ、小田原線に乗り換える。テツは、そのまま終点の町田まで行き、そこで、各駅停車の新宿行きに乗り換え、鶴川まで行く。とても自由な校風のW学園。当時から私服だった。テツの頭は一年生の途中から茶髪になった。

学ランでスポーツ刈り、校門では服装検査があった厳格な校則の我が母校とは、対照的だ。

1年間はこのようによく一緒に通ったが、2年生以降はお互いの時間が合わず、一緒に通った記憶があまりない。やがて、高校を卒業し、会う機会も無くなった。

そんなテツとは、30代後半に再会する。お互いに仕事やプライべートの相談をしたりして、助け合った。

その時テツがこんなことを言った。

「びっくん、覚えてる? 高校時代一緒に通ってた時さ、いつも藤沢から(小田急に)乗ってくるすんげぇ可愛い娘がいたの。二人でよくさ、『あの娘、可愛いよね』って言ってたじゃん。覚えてない? あの娘さ、鶴田真由だよ」。

よく覚えていない。いや、全く覚えていない。

しかし、中学3年で転校してきて、わずか1年間しかいなかったのに、クラスの可愛い娘のことは鮮明に覚えているテツの、その分野における記憶力は確かなものがある。

まんざら嘘ではなさそうだ。

調べてみると、鶴田真由は同い年で鎌倉出身。成城学園に通っていた。

ですから、朝、江ノ電で藤沢まで来て、小田急線に乗り換えていた可能性は、非常に高いのであります。学校までの距離からして、同じ電車に乗っていた可能性も高いと考えます。そして、あの美しさに、テツが反応しないわけがないのであります。加えて、テツの証言によると、その娘は町田まで一緒で、その先は急行に乗り換えていたらしいのです。ほぼ間違いなく、それは、鶴田真由と考えて良いのであります。

朝7時20分藤沢発の小田急線。白地にブルーのラインをまとったあの扇風機車両。みずみずしく上品な輝きを放つ鶴田真由が、少し眠たそうな顔をして同じ車両に座っている。

そんなことを想像すると、何だか、当時の海からの心地よい風が、潮の香りと共に、車内を吹き抜けるのをありありと思い出すのであります。

いつか鶴田真由と巡り合える予感がするのです。

そしたら、思い切って聞いてみたいのです。昭和61年、お互い高校一年生の時分、藤沢駅から小田急線に乗って通学していましたかと。そして、同じ車両に、茶髪で私服姿とスポーツ刈りで学ラン姿の男子高校生がいたことを覚えていますかと。

きっといつか、巡り合える気がする。






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