変わりゆくものと変わらないもの、釜山にて ~光州への旅の記録10
光州から福岡へ帰る途中の、トランジットとなる釜山。
釜山で再び訪れたい場所があり、その地を訪れる時間をKeepできるように、釜山発→博多行の船便のスケジュールを組んでいた。
私たちは、義祖父の生まれた、その場所を再び訪れた。
長女は、2023年釜山の大学を卒業し、いったん福岡へ戻った。
その時訪れた福岡アジア美術館で山内光枝さんの作品に出会う。
その作品中の日韓併合時の釜山の住宅地図に見つけた、私たちの苗字。
長女はこの2024年の春から、再び進学のために釜山へ渡った。
そして進学先の学校から、日本語を教えるアルバイトを紹介された。
派遣されたのは、はからずしも、義祖父が生まれた場所に隣接する小学校だった。
当時の地図の「蓬莱小学校」と記されたその場所には、今も「ほうらい小学校」が存在していた。
義祖父の生誕地とされるその場所には、今は学童保育の看板が掲げられ、ほうらい小学校は近代的な校舎となってそこにあった。
時空が交差するような、不思議な偶然が、続いている。
そして私たちは、その古い地図を片手に、時間の許す限り、その周辺の釜山港近くの町を散策した。
建物や街の風景はすっかり変わっていようとも、道の配置は当時のままであることに気付く。
変わりゆくものと、変わらずにそこにあるもの。
それらが共存していることに、気付く。
時は満ち、博多行きのフェリーカメリアが出発する時間。
虹色に光る釜山港大橋の下をくぐり、夜の海に揺られながら一晩を過ごすと、そこは朝日の昇る博多港。
その日は、韓国と日本、共通認識の、暦の上での小満の日。
万物が次第に成長し、満ちてくる時。
フェリーカメリアから下船した時、あるプロジェクトへのお誘いが、ふわりとLINEのメッセージに入ってきた。
この流れに乗って、この偶然の行きつく先に行ってみよう。
そう思って、受けることにした。
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