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心を洗い流して、最期に残るもの

国境の島、対馬。

私の長女は、高校の3年間をこの国境の地で過ごした。
私が最後に対馬を訪れたのは、彼女が高校を卒業した日。
あれから4年が経つ。
ずっと、対馬にやり残したことがあるような気がしていた。

私は4年ぶりに、再び対馬を訪れた。
旅の友は、私たち親子を対馬へと導いてくれた友人だ。

行きたかったけど行けなかった場所へ行くために、島の南部に位置する厳原港から、レンタカーで北上する。

海に点在する鳥居から繋がる美しい神社、その緑に囲まれる社の奥には森がある。
そびえたつ木々に光も遮られる、苔むす場所に祀られる墳墓。
開けた美しい海からの景色をたどった先にある、少し不気味にも感じる森の中の墳墓は、人の表層と心の奥深くを垣間見るような気分になる。

360度の絶景の展望台では、複雑に入り組んだリアス式の海岸線や無数の小島を臨む。
長い時間をかけて浸食された海岸線は、悠久の時間を思い起こさせ、自分が小さな小さな点になり、消えてしまいそうだ。

宿泊したゲストハウスでは、日本人のマスターと、韓国人のマダムの温かいもてなしを受け、韓国の文化の話もたくさん聞かせてもらった。
自分の中に刷り込まれ、自分では当たり前に思っていることが、実は当たり前ではないということに、文化を比較して初めて気づく。


旅の最後に、不思議なワークショップに巡り合った。

縁に導かれ、港近くの高台にあるお寺へと向かう。
不思議なワークショップは、そのお寺で行われていた。

人やもの、事象などから、自分の大切にしているものを15ほど書き出す。
まずは無数のものの中から、自分にとって大切なものをすくい上げていく作業だ。
そして、自分が末期の癌と宣告されたとイメージする。
最期の時が一刻一刻と近づく日々、自分の大切にしているものの中から、ひとつづつ、捨てるものを選んでいく。

自分が最期まで残したもの。
そこで初めて、自分のいちばん大切なものを知る。

私が最期まで残したのは、「夫」だった。

心を洗い流し、捨てていくことで分かるものがある。
思えば、夫との縁から繋がる引っ越しや出会い、そこから動いた運命があった。
彼とのあいだに授かった命から、網目のように繋がった縁もある。
はからずしもなのか、見えない縁で繋がれていたのか。
それらの縁の先端に、今の私はいる。

近くにいすぎて、当たり前すぎて、気づかなかった大切なものに気付くことになった旅の最後。

またこの島との縁があるかもしれない、そんな根拠のない予感が走る。

この4年間、やり残したと思っていたことを、あえてまたやり残して、
帰りの博多行の船に乗り込んだ。



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