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アートとは、美術とは

福岡アジア美術館で、あるお話を聞く機会を得て、これまで自分が探してきたこととリンクした。

お話の内容の記録と、自分の中の探し物の言語化の試み。

今回のお話の中に、美術館で集客のある展示が、必ずしもアジアの近代美術ではないことにジレンマを抱えているというのがあった。

これまでの展示会の集客数が数値化されたデータで紹介されたが、主にテレビを通して人に認知されているものや、テレビ局が広告を打ち出す展示に集客が多いということが示されていた。
(今後はそのテレビという媒体がSNSなどに取って代わられるのだろうけど。)

美術館としては、本当の美術館の目的が、数字がとれるものを展示することではないということをお話されていた。
そこで、本当の美術館の目的というものが何かということを話の中に探そうと興味深く聞いたけれど、明確な言葉として探せなかった。

明確にするのが難しいのが、ジレンマなのだろうか…。

そして、これまでなにげなく使っていた「近代」や「アート」という言葉。

「近代」とは?
「アート」とは?

これらの言葉は、明治以降の日本に主にヨーロッパから入ってきた言葉であり、概念。確かにそうだ。

それらの言葉の指すところを掘り下げて考えてみたいと思った。

「 家族や友人にアジア美術館のことを薦めるとしたら、どのように伝えますか?相手のことを具体的に想定して考えてみてください。」

という問いがあった。

こういった問を通して、自分の中の浮遊している思いを言葉の中に落とし込んでみよう。

私には大学生の子どもが3人いる。
彼らにどのようにして薦め、伝えるかを想定してみたい。

まずは福岡アジア美術館に限定せず、美術館を薦めるとして、その為に「アート」の定義を言語化し、さらにその必要性、重要性を言語化して伝えられるようにしたいと考える。

これまでも「アート」の定義とはなにかを模索してきたが、私の中の今の時点では、
「人の感情を起点として生み出されるもので、生活の中の欲求から生み出されるかたちのすべて」
と捉えるに至っている。

未来を作っていくものは、人の感情、情動という内側から生まれるものではないかと思う。

教育 ⇔ 学習
教わる(他動詞) ⇔ 学ぶ(自動詞)
お話の中でこれらのキーワードが示された。
これらの言葉は似て非なる。
「教育」「教わる」は受動的、「学習」「学ぶ」は能動的。

そして「アート」というものが、自らの内側からつくられていくもので、それに触れることができるのが、美術館なのだろうか。

現在の学校教育や受験のプロセスの多くでは、与えられたものや既に答のあるものをインプットして回答するのが主流だと思うけれど、その作業がAIにとって代わられる今後、自らの感情や欲求を起点として、主体的に思考し行動することが人間の役割となるのだろう。

今後、学校で行われる活動を美術館が牽引していくというお話があった。
能動的な活動ができる人間を育むことが学校の役割となり、それを牽引するのが美術館となるのだろうか。

それを子どもたちに伝えたいと思った。

さらに「アジア美術館」に限定して薦めるとするならば・・・

今回の話の中で、「アート」という言葉が明治以降にヨーロッパから入ってきたという点が気になっている。

言葉はその地域の文化があって成立するもの。
確かに、もともと「アート」という言葉がないところに発生していた文化がアジアには存在する。

このポイントについては、掘り下げるべき点だと感じたけれど、まだ自分の中の考えや知識が至らないので、これから探していけたらと思う。




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