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日本語教師日記83.法則がわかれば怖くない(19)よく見ればこんなに違う:「手をかける」と「手がかかる」

私ごとをいっぱい書かせていただきます。
読んでいて体が痒くなったらごめんなさい。

昨日、真夜中にふと目が覚めましたら、体の中がブルーの一色でした。
もう、たっぷたっぷに、憂鬱な気分が満ち満ちていたのです。
何も理由がないのになんだこれはと思って、目を開けてしばし考えていました。もしかしたら、目が覚める直前まで、夢でも見ていたのかなと思いまして。

そうしたら気がつきました。
そうだ、私が今過ごしているのは、あとになって何度も思い出すであろう、
子供と一緒に暮らす最後の数ヶ月なんだということです。

もちろん、それが確実に年明けには起きることは、以前から承知です。
でも、今 私が家に残った娘に対して、あれをしたりこれをしたり、
いろんなことをリアルタイムで思ったり、動いたりするのは、
長く続いて来たけれど、もう本当に終わりなんですね。

長女はなかなか就職が決まらず、
やっと仕事が決まった週末に家探し、その翌週には引越しとなり、
「ああ、一緒に暮らすのはこれが最後だな」と思うのは、
2週間もありませんでした。
そのためか、そのあと気を引き立てるのがなかなか難しかったのです。

半年以上も幻肢痛のような、不思議な痛みがありました。
これは、11年前に東京から名古屋へ引っ越した時の感覚と同じでした。

もう巣立った子供、もう後にしてきた故郷は
もう終わったもので、もう手が届かないはずなのですが、
どうも、自分がまだ彼女と暮らしているような、
自分がまだ東京のU R賃貸の狭い部屋にいるような、とでもいうのでしょうか。
表現できない妙な心地がしました。

朝になれば、「おかん申し訳ない珈琲淹れてちょ」という言葉が聞こえそうな、
朝になれば、混み合った小田急バスと小田急線を乗り継いで、
ちゃんとお別れをしてきた生徒たちのオフィスに、入っていきそうな。

道は分かれ、もう違う環境にあるのに、
過ぎていったものをもう一度手に入れられるような気がする。
そんな変な気持ちが何ヶ月も続いたのです。

次女の方は本当は、1年間の交換留学の予定がありました。
コロナがなければ、それを終えて帰国し、
今はとっくに社会人として働いていたはずです。
姉妹二人とも、卒業したら一人暮らしをすると言っていましたので、
そこは理解していたつもりでした。
次女にとり、今親の家にいること、まだあと数ヶ月いることは不測の事態で、
ままならぬ就職活動を続けながらも、一種不本意な気分があるのではないでしょうか。

一方未練な親としては、本当は英国に行っていたはずの次女の
その一年を共に暮らし、まだあと少し一緒に暮らすことは、
想定外のボーナスだったはずです。

それなのに、1日ずつをちゃぁんと大事にしてきたかしら。
してないしてない!
いけませんねぇ。

夜半の目覚めは、それを私に直訴しにきたもののように感じたのです。

朝になって改めて考えてみました。


赤ん坊が生まれてからしばらくは「手がかかる」。

自動詞の「手がかかる」は、それに携わる人の意思に関わらず、
いろいろ必要なことが起きてきて、世話をしなければならないことです。

これが、主語が人である「他動詞」では、

(誰々は)何々に手をかけた。

と言い、そのことを大事に思ったり、
必要のために十分な時間やエネルギーやお金を投入することになります。

(ここでは、世話をする、人手を費やすという方に限ってお話ししていますが、
「手をかける」には、「メイドに手をかける」(手を出す)
「人のお金に手をかける」(盗む)の意味もあります。ここではここまでにしておきますね)

日本語学習者にとり、変化の法則がほぼないと言われている「自動詞」「他動詞」の、本当に大変なところです。言葉のほんの1部と助詞が違うだけで、大きな違いができてしまいますので。

自動詞の「手がかかる」の後に来るのは、「子」や、育てている植物やペットでしょうか。老親なども、手がかかるのは普通です😅。

確かに夜泣きが激しいとか病弱だとか、
次々課題を発してくる幼い子供は、「手がかかる」と言って自然です。

他動詞の「手をかける」 のほうは、本人の意思でそれをしているわけですから、使いようによっては、「お前にはこれほどのことをしてやった」という、ちょっと恩着せがましい表現にもなりそうですね。

これがまあ恐ろしいことに、「手かける」というと、人をあやめることになります。
たった一つの助詞の違いで。

手がかかる
手をかける
手にかける

ちゃんと準備して授業に臨まないと、ぐらぐらしてきそうです。

そうそう、「手をあげる」というのがありました。
さきほどの「メイドに手をかける」「手をつける」、「人のものに手をかける」も、この「手をあげる」と同じで、実際の行動を言いません。この遠回しな言い方は、ぼかして言うことで自己防衛をしていることが感じられると思います。
政治家の「誤解させたのなら謝る」と同じぐらい、好きではない表現です。

そうそう、必ず「手がかかる」赤ん坊の世話ですが、必ずご褒美もありました。それがいわゆる、「ままだいい〜」期です。
ご参考までにくっつけておきますね。



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