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ポジティブでもネガティブでも

ポジティブという言葉にどこか尻込みをしてしまう自分がいます。
たぶん、どこかひねくれているのだろうと思うのですが。

私が学生の頃、ネクラという言葉が流行りました。今で言うところの陰キャというやつでしょうか。

いま書いていて、ふとこの“ネクラ”と“陰キャ”は、はたして同じなのか?と思ったのですが、どうなんでしょうね。
“ネクラ”は“根が暗い”の略なのに対して
“陰キャ”は“陰気なキャラクター”の略なので、
「ネクラは中身がネガティブで、陰キャは外見がネガティブ」というような気もしてきました。

まあ、深く考えだすと、どっちでもいい気がしてくるので、横に置いておいて。

えっと、そうそう。
私が学生時代、自称・ネクラだったという話がしたかったのでした。学校では陽気なフリ(もしくはフツウのフリ)をしていたけど、家ではムスッとしてみたり、小さなことでいつまでもウダウダ悩んでいたりして「ああ、もうこんな自分、キライ」って感じの。

で、なんとかソレから逃れたくて(今から思えば、自分ともっと仲良くなりたくて)、そのヒントがほしくて哲学や自己啓発系の本を図書館で借りて、読み漁っていました。
もし、その頃にYouTubeがあったら、それ系のチャンネルを見漁っていたかもしれませんが、当時はなかったので。

今にして思えば、それ系の本にはわりと偉そうなことが書かれていたなぁと思います(笑)。「何様だよっ!」と著者にツッコミを入れたくなるような。

でも学生だった私にとっては「大人、すげぇー。やっぱ違うわ」と感心したものです。でも同時にかなり凹んだりもしたんですよね。
当時の流行りというのもあったのかもしれないけど、ポジティブ・シンキングをやたらと勧められている気がして。
「ああ、そんな風になれないよ、私」、「ああ、もうほんとごめんなさい」って。

もちろん、簡単に別の自分になれるものなら、そんな本に手を伸ばさなくてもいいわけですよ。でも、
手を伸ばす→「自分を変えたいなら…」みたいな説教臭い文章を浴びる→でも変われない→そんな自分に凹む
というサイクルを延々と繰り返していました、当時は。

もしかすると、あの当時、私に一番必要だったのは「ありのままのあなたでいいんだよ」、「十分、よくがんばっているよ」という言葉だったのかもしれません。そして、実際にはそういうことを書いてる本も他にたくさんあったのかもしれない。でも、当時は「自分に納得していない」のだから、そういう本やセリフは自動的にスルーしたんでしょうね。

とにかく「ネクラな自分が嫌い。でも、ポジティブ・シンキングとか言われるのもちょっと無理。で私、どうするよ」のぐるぐるの渦の中にいました。まあ、数年単位くらいで。

その後遺症でしょうか。
今でもポジティブを押し付けられると、ちょっと腰が引けてしまう自分がいます。「あ、間に合ってます」とか言いそうになる(笑)。

なんかね、中年になるまでしぶとく生きてきて思うのは
「ポジティブが偉くて、ネガティブはダメみたいなことはないんじゃないかなぁ」ってこと。
どっちが優位(有利)とか、どっちがすごいとかいう問題にすると、ややこしくなる。

なので、ネガティブと親和性が高いのなら、それはそれとして生きていけばいいじゃん。ってところに今は落ち着いています。

私にとって着心地の悪い ポジティブというドレスをあえて選ぶ必要はなくて、ネガティブを着ている自分のほうがリラックスできるなら「じゃあ、それにしときます。別にとくに気に入っているわけでもないけど」という感じでいいかな。

究極はたぶんポジティブでも、ネガティブでも、もはやどっちでもいい。
誰かに何かを押し付けられるんじゃなくて、
それよりも自分の感覚を大事にしたいってことかもしれません。

で、何が言いたいかっていうと、ネガポジ変換みたいなワークはちょっと苦手なんですよね。おもしろいなとは思うけど。
で、どうして苦手なのかなぁって考えてみると、こんなことが私の中にあるせいだな、と気づきました…という話でした。

ああ、ネガティブ寄りになってんなぁ、今。
そんな時もある、ある。人間だもの。

って思えると、ちょっと楽になるということはそれなりに学習しました。

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