奈良時代(歴史)

 奈良時代はあまり明るい時代では無かったそうです。というのも、奈良時代の国民にとって、710年の大宝律令及び718に制定される養老律令という、現在の法律(令)と刑法(律)に当たる法律が大変厳しかったとのことです。島国の性質上、異民族が居ないため、律令の中で令が重視されたのが日本の政治の特徴でした。

 国民にとって厳しい負担だったのは全員に租、成人男子に調・庸・雑徭・兵役((軍団兵士・衛もり・防人)がかけられたことでした。特に大宰府(九州)の防人(さきもり)に任命されることは、大変厳しい兵役であり、任命されると3年ほど兵役につかなければなりませんでした。また、班田収授法により戸籍にもとづき、6歳以上の国民に口分田が与えられ、それに応じた納税(祖)が課せられました。

そのような悲哀を込めて、当時の歌人である山上憶良(やまのうえのおくら)は以下のような貧窮問答歌を作りました。

【原文】

風雑(ま)じり 雨降る夜の雨雑じり 雪降る夜は術(すべ)もなく 寒くしあれば 堅塩(かたしお)取りつづしろひ 糟湯酒 うち啜(すす)ろひて 咳(しは)ぶかひ 鼻びしびしに しかとあらぬ 髭かきなでて 我除(われお)きて 人はあらじと ほころへど 寒くしあれば 麻襖(あさぶすま) 引きかがふり 布肩着ぬ 有りのことごと きそへども 寒き夜すらを 我よりも 貧しき人の 父母は 飢え寒(こご)ゆらむ 妻子(めこ)どもは 乞ふ乞ふ泣くらむ このときは 如何にしつつか ながよはわたる
 天地(あめつち)は 広しといへど 吾がためは 狭(さ)くやなりぬる 日月は 明(あか)しといへど 吾がためは 照りや給はぬ 人皆か 吾のみやしかる わくらばに 人とはあるを 人並に 吾れもなれるを 綿も無き 布肩衣の 海松(みる)のごと わわけさがれる かかふのみ 肩に打ち掛け ふせいおの まげいおの内に 直土(ひたつち)に 藁(わら)解き敷きて 父母は 枕の方に 妻子どもは足の方に 囲みいて 憂へさまよひ 竈(かまど)には 火気(ほけ)吹きたてず 甑(こしき)には 蜘蛛(くも)の巣かきて 飯炊(いひかし)く 事も忘れて ぬえ鳥の のどよひ居るに いとのきて 短き物を 端切ると 言えるが如く しもととる 里長(さとおさ)が声は 寝屋戸(ねやど)まで 来立ち呼ばひぬ かくばかり 術なきものか 世の中の道 世間を憂しとやさしと思へども 飛び立ちかねつ鳥にしあらねば

【訳】
風交じりの雨が降る夜の雨交じりの雪が降る夜はどうしようもなく寒いので,塩をなめながら糟湯酒(かすゆざけ)をすすり,咳をしながら鼻をすする。少しはえているひげをなでて,自分より優れた者はいないだろうとうぬぼれているが,寒くて仕方ないので,麻のあとんをひっかぶり,麻衣を重ね着しても寒い夜だ。私よりも貧しい人の父母は腹をすかせてこごえ,妻子は泣いているだろうに。こういう時はあなたはどのように暮らしているのか。

 天地は広いというけれど,私には狭いものだ。太陽や月は明るいというけれど,私のためには照らしてはくれないものだ。他の人もみなそうなんだろうか。私だけなのだろうか。人として生まれ,人並みに働いているのに,綿も入っていない海藻のようにぼろぼろになった衣を肩にかけて,つぶれかかった家,曲がった家の中には,地面にわらをしいて,父母は枕の方に,妻子は足の方に,私を囲むようにして嘆き悲しんでいる。かまどには火のけがなく,米をにる器にはクモの巣がはってしまい,飯を炊くことも忘れてしまったようだ。ぬえ鳥の様にかぼそい声を出していると,短いもののはしを切るとでも言うように,鞭を持った里長の声が寝床にまで聞こえる。こんなにもどうしようもないものなのか,世の中というものは。この世の中はつらく,身もやせるように耐えられないと思うけれど,鳥ではないから,飛んで行ってしまうこともできない。

この歌を見た時と今のコロナウイルスに苦しめらる中小企業の人たちの現状と重なる部分を感じました。

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