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7年目の高校教諭が休職するまで①

自分はなんて無能なんだろうか。
7年目になるのにまともに行事の運営もできない。学級に対しても言うべきことが言えない。
同僚との人間関係も上手く築けない。
こんな私に良くしてくれる人も本当は呆れてるに違いない。
ずっと同じようなことで悩んできた。
それを変えようと努力をしてきたつもりだった。それなのにこの有様だ。
もう疲れた。
自分は間違っている。
ずっとこうなのか。ずっとこのままなのか。
もう無理だ。

そんなことをぐるぐると何度も浮かべては出だしに戻り、そして繰り返し頭の中で唱えていました。23年の10月のことです。


6月頃には天職だとすら思っていました。まさかこうなるとはと、絶望しました。
思春期にはしばしば感じていたものの、まさか31歳にもなって、「自分」のことでここまで絶望するとは思いもしませんでした。
上手いことやれている、自分のポテンシャルを一番発揮できるのはこの仕事だ。そうとまで思っていました。



7年目でその指導力ってやばくない?仕事できない人間は虐げられるよ。」
自分で目を逸らして、その分を愛嬌でなんとか納めてもらえないだろうかとだらけていたところをズバリ指摘されました。
その通りだ。
ああその通りだ。
私も私にそう思っていた。
集団を動かせない。見通しをもって計画を立てる力が欠けている。伸ばそうという努力も放棄していた。

変わる最後のチャンスだと思いました
ここで傷ついて泣いていては何も良くならない。笑顔でまずは前向きな返答をしなければと、見捨てられたら終わりだと、そう思いました。チャンスはピンチの顔をしてやってくると、前髪しかないと、そうやって漫画や小説に書いてあったじゃないか。



1ヶ月経つ頃には、すべてを終えてしまいたくてたまりませんでした。毎日、次の日が怖くてたまりませんでした。
今ではなく、次の日が怖かったです。明日の仕事どうしよう。つい抜いてしまう髪の毛も気になります。家に帰るとぼーっとしてスマホばかり見てしまいます。授業の計画を立てなきゃとグッドノートを開いても、計画立てて授業を作るやり方がわかりません。結局なにも伸びず、焦りと恐れが押し寄せてきました。

抜毛によるはげが気になるので、クリニックに行きました。ただ、投薬を受けてもどうにもならず、休職を勧められました。そこでカウンセリングの予約をとることにしました。

カウンセリングで、ちゃんとする方法を聞こうとました。どうしたら他の人のようにちゃんと仕事ができますか。計画的に物事を動かしていけますか。

いざカウンセリングが始まると、なにをどう話せばいいのかがよくわかりませんでした。今となっては会話の細かな流れも曖昧です。いったい自分は何をしたらいいんだろうと戸惑っていました。

自分には価値がないと思いますか?
という質問と、強くそう感じていたことと、だからこんなにつらいのかと思ったことは、はっきりと思い出せます。どっと涙が出ていました。ものすごく泣きました。

すぐ休みに入ることを勧められました。
そうだ私は今辛いんだ。そしてその辛さは人から休むことを勧めてもらえる状態なんだと、お墨付きをもらった気分でした。それでも休みに入る勇気は出ませんでした。現状を職場の人にどうやってつたえたらいいのかわかりませんでした。どうしたら角を立てずに休めるのかわかりませんでした。翌日も仕事があります。ただでさえ無価値なのに、休むなんてもってのほかです。人手があるだけでも助かるという状況もわかっていました。


家に帰る道すがら自転車を漕ぎながら涙が止まりませんでした。部屋に入って号泣しました。どうしたらいい。どうしたらいいんだ。怖い。明日が怖い。いやだ。もういやだ。

翌日は出勤しました。夜に、号泣することは、もはや普通のことでした。土曜日でした。中学生に向けての公開日だったかなんだかで生徒はすぐ帰宅する日でした。誰もいなくなった教室を箒ではいていました。

スマホに着信がありました。父からの電話です。私のことを心配しての電話です。土曜に仕事があることと、昨夜のカウンセリングがどうなったかを伝えていなかったためです。
この時に、ずっと同じことに悩み続けていて進歩がない。もうしんどい、どうしたらいいかわからないというようなことを伝えました。確かそうだったと思います。



あなたは間違ってる。すごく間違ってる。

母の不機嫌そうな低い声が、電話の奥から聞こえてきました。父と私の会話を聞いて、奥から私に向かって大きな声で伝えてきました。

体がサーーっと冷えたような熱くなるような感覚になりました。涙が一気に出てきました。

間違っている。
そう、間違ってる。
それがわかっているからもう嫌なんだ。終わりたいんだ。

なるべく相手が傷つきそうな、申し訳ないと思いそうな表現で言い返しました。大声を出せる場所なら金切り声で泣き出したかもしれません。今お前は私をこんなに傷つけた、反省しろ、後悔しろ。なぜ傷ついてる私をさらに否定するのか。優しく受け止めてくれないのか。だったらもういい。そういう思いでした。
私の言葉はもはや相手を威嚇するための道具でした。


だから嫌なんだよ。だから死にたいんだよ。もういいよ、もういい。
そんなことを言って電話を切りました。しばらく泣いていたと思います。誰か通りかかったらどうしよう。と考えながら、誰かに見つけてもらいたかったです。部活動のない生徒は帰った後です。校舎の最上階の端っこの教室です。誰も来ません。
窓を見ました。窓の内側、教室中側に耐震のための鉄骨が組まれています。その幅の分、窓辺は40センチほどの棚のようになっています。そこに足をかけ、棚の上にしゃがみ込みました。視線が高くなりました。窓の下がよく見えます。窓を開けて、外に足を下ろして腰掛けました。4階です。下は土と木でした。なかなかの高さでした。落ちたら終わると思うとすこし安心しました。これで痛くなかったら最高だなと思いました。


しかし踏ん切りがつきませんでした。誰か見つけてくれないか。誰か止めてくれないか。誰か助けてくれないか。誰か話を聞いてくれないか。


私を見つけてくれる人を待っていました。
止めて欲しかったです。死にたくありませんでした。誰かに話を聞いてほしかったです。引き出して欲しかったです。自分では無理でした。常に自分を否定していました。その分辛さを受け止め、肯定する役割を、他人を求めました。


私のこの時の行動は、注目を求めるための駄々でした。
もっともこの時は悲しい、ひどい、なんで、もう嫌だくらいしか言葉になりませんでした。
その悲しさ自体は深刻でした。その表現の仕方が稚拙でした。

どうやって悲しみを表現したら良いのか。それがわかりません。悲しみの昇華の仕方、ため方が癇癪持ちの子供のそれのままです。

誰も来ず、真下は木と土で、これじゃあ死ねないと言い訳をしながら職員室に戻ろうとしました。もう誰もいないかと思っていましたが、1人いました。


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