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1個目の記事を書き終えて

ブログを書くことへの認識が変わりました。
記事を書き初め、推敲し終えて、公開した瞬間の気持ちは、想像と全く違いました。

やったぞという興奮と、話を聞いてもらえたという喜びが沸き上がりました
相手の表情や適切な相槌を気にすることなく、何かに遮られることなく、外に向かって最後まで言い切ることができました。記事を公開した瞬間に、背中が熱くなりました。首と肋骨はむしろひやっとしました。
ああ、できたんだ、やったんだ
そう思う度に、熱いのか冷たいのかよくわからないものが背骨のあたりを何度も通って行きます。とても気持ちがよかったです。一気に新しい血液が体内を巡るほどの喜びと開放感でした。


今までは日記を書いていました。自分の考えを整理するためにたくさん書きました。2023年の1月にA4ノートに書きたいだけ書くことを始めてから7冊ほどになっていました。
日記を書くことは気に入っていました。誰かに読まれることがない私だけのもの。客観性も整合性もいらず、その瞬間思いつくことをどんどん書いていくことがきもちよかったです。そうするうちに、ぐしゃぐしゃとこんがらがって転がっていた思考がほどけ、今私は何をやりたいのかがわかりやすくなりました。


しかし、こうなってしまってからはそれがだるくて、面倒になりました。ペンを持つのも、書きやすい姿勢を保つことも、気が済むまで頭の中のことを書くのもすべてがとてもだるかったです。何かを何重にも考えているような気がするのですが、そのどれにも焦点が合わず、何から書きだしたらいいかを決めるのも面倒でした。

もうひとつ深刻なのことが字でした。書きぶりが荒々しく、見返すことが苦痛でした。何冊も何冊も書いていました。しかしそれらのどれも見返すことができません。荒れた字は感情が生々しく、辛くなってしまいました。それならばと、Wordを使って書いてみました。これはすぐに嫌になってしまいました。パソコンの電源をつけ、少し待ち、ログインして、ファイルを開き、やっとかけるころにはもう面倒で嫌になっていました。また、日記は基本的に推敲をしないのでごちゃごちゃした文章です。それが字や行間だけは整っているということに恥ずかしくなりました。

noteに書くことにして、初めて読み返すことができました。もっと的確に表現できるような言葉を探しました。すると当時の自分の気持ちが、より深く理解できました。外に開くためにnoteを選びました。内側を掘り下げる効果があったことは嬉しい誤算でした。


一つ目の記事を書き終えた今気が付いたことがあります。私は人に話を聞いてほしかったということです。やっとわかりました。ずっと求めていました。私の話を聞いてほしい受け止めてほしい、その一心でした。そして相手から、私の望むような態度を引き出すために、ぶるぶるとおびえた姿を見せてきました。

不安だ、怖い、だから誰かそばにいて、話を聞いて、どうしてわかってくれないの、つらい。
これらの気持ちにウソは一つもありませんでした。また、親や友達やカウンセリング、話を聞いてもらう場面はたくさんありました。しかし足りない。量ではなく、話す内容に物足りなさを感じていました。いつも話しきれていない不満がありました。もっと引き出してほしいと、もっと深く掘り下げてほしいと願っていました。しかしそれをリクエストする方法がわからない。

今私はようやく一つのやり方を見つけたのかもしれません。自分が思うままに話をする方法です。それも何度でも話す方法です。誰よりも話の内容を引き出し、掘り下げ、共感してくれる相手。それはnoteを書く自分にこそみいだせるのかもしれない。今までの私は回復への道筋がわかりませんでしたが、自分の気持ちを自分で扱えるようになった先にこそあるのかもしれません。他人に求めるのではなく自分で癒す。そのあとに、正しく学ぶ、問いを持つ、表現するというステップが待っているのでしょう。ますはここから始めていこうと思います。



記事を書いて本当によかったです。


前の記事にはーとをつけてくださった方々へ
ハートの通知をもらったことで、より強く「外に向けてすべてを出すことができた」という実感が強まりました。「話を誰かに聞いてもらえた」という感慨が深まりました。ありがとうございました。


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