誘われない保留2/230929
とにかく友達に求められない人生である
それに思い苦しみ、悩んだ先に保留が見つけたものの話
▼その1はこちら▼
必要なくなってしまった人たち
結局「みんな忙しいんだからやりたいのはわかるけど」みたいな言い方のLINEが一人書いただけだった。
おそらく私が怒ったのは「断られたこと」と認識するだろう、しただろう。
浅はか、もう浅はか
私が大嫌いな浅はか
▼それについてブチ切れる保留▼
08:40より
違うに決まっている
そんなことでは怒らない
私が心から絶望したのは、「尊重されなかったこと」だ。
私が動き、集め、調整することを当たり前、むしろ保留が暇で寂しいからやっている、私がそう思わせてしまったのだろうからそれは反省している。
それが当たり前なら誘われる方は「誘われてあげている」と思うのも当たり前だし、好きでやっているのだから「ありがとう」のひとつすら出なくもなるのだろう。
当たり前なんだから
でも、当たり前ではないのだ
その当たり前は、失った時にわかるのはいつも書いている皮肉な話
私も忙しい時間の中で時間を作って動いていた。
それを「暇で寂しいから」と認識され、感謝も労りの言葉も無いのであれば、私の居場所はそこではない。
単純に私が「みんながすごい」と勝手に期待して勝手に裏切られただけの話であるけれど、私の行動言動に、価値を感じられない人と関わる必要が無いと思ったのだ。
お互いに時間の無駄である
言えなかった怒り
怒ったところで全く通じないだろう、とそれまでの10数年間で既に理解していたからだ
当時、まだ自分が傾向としてギフテッドであることは気づいていなかったけれど、実際に同窓会で話してみて明らかに自分は違うとわからされてしまった。
優劣は関係なく「私はやはり異質だ」と気づいてしまったのだ。
それが一番悲しかった
みんながすごくてかっこよくて、尊敬していたのに、そうではなかったとわかってしまい、それも自分の勝手な思い込みだとわかったからだ。
それまでもこういう出来事は形を変えて沢山あった
みんな私に付き合ってくれたのだろう
その時に違和感を感じても「みんなすごいから」で対処できてきた。
でも、それがなくなってしまったら?
私が違和感を対処する必要がなくなったら?
「別れ」を選択しなければならなくなったその瞬間が、一番悲しかった。
私のためにも、みんなのためにならない関係性となってしまったからだ。
いやむしろ、最初からそうだったのかもしれない。
誰がどう言おうと私は傷ついたし、一緒にいる意味を失くしたのが、一年半くらい前のその時だった
他人の機嫌を伺いながら生きてきた私が自分の責任のもと、別れを決意、実行することは容易ではなかった。
しかし、そうしないと私はまた崩れてしまうと思ったのだ。
そしてそれは言葉で説明してもおそらく理解できないと既にわかっていたし、何より、説明する必要性を既に感じなくなっていた。
「理解」というものは知能だけではなく、知性と素直さが求められるとても難易度の高いことだ。
単に受容すればいい話ではない
何よりも、いない者がいなくなるのは、結果おなじである
その頃から「説明が必要になる関係の人とは関わらない、関わっても適当で良い」と決めた
私はそこまで真面目なのである
「ちゃんとした場所に自分を置け」
その時仲良くしていた年上の友達が私の発達障害に疑問を持ち「どう考えてもASDには思えない。IQもそんなに低いわけないから(110)ちゃんと知能検査をもう一度受けろ」そう言ってくれた。
そして「良くも悪くも俺たちみたいな者の生き方」を丁寧に教えてくれて「ただ違うだけなんだからあれこれ考えるな」とも言われ「見つけてもらえなかった理由もあるんだろうけど、それは相手が悪いだけでなく、保留も自分をわかっていなかったのも悪い」とも言われた。
ちなみにその人はIQ150で、感謝と同時に賢さはIQだけではないとも理解するようになった。
ただIQが高い=ギフテッドならギフテッドに溢れている。
そこらへんはまた別の機会とする。
「どんなに能力を持っていても、それが評価される場所に置かない限り、ゴミと一緒なんだよ。どう考えても保留は間違った場所に置いてきてるから、それをちゃんと探せ」
とよく言われ、そのおかげでその直後にデザイナーになったという流れだ。
そしてそれを証明するかのように、今に至る。
彼らも間違いではない
私が私を甘く見て「みんなと一緒になりたいから」という安易で愚かな気持ちで自分を間違った場所に置いてきてしまった。
別に頼まれてないのにやっていただけだ
今、昔と同じことを言うと「やっぱそこ思いつくのすごいよね」「そこまで気を回せるから仕事できるんだろうな」「その話の組み立て、良いよね」と言われる。
そして「色々やってくれてありがとう助かった」「忙しいのによくこんな時間作れたね」とも言ってもらえる。
昔は何をしても言っても流されていたので「ちゃんと伝わって理解して反応が来る!」ということに今も一々感動してしまう。
私が言っている言葉も行動も変わっていないから
なんせ大学時代から病んでやっと社会復帰した2年前も「あーよかったねー」で終わりだったから、「あれ、私ってもっとすごいことしたんだけど、まぁこの反応が正解なのか」と思ったほどだ。
ただ単に価値観が違う集団に憧れて、自分もそうであろうと思っただけなのだ。
どちらが優れてるとかではなく、ただただ、違っただけなのだ。
もし仲間内に私のような人生を送っている友達がいたら、私はほっとかないし、時間が無かったらできた時に何かを問いかける。
単純に「私ならするけどそれをしない人」に興味がなくなり、そして、そもそも「私ならするけど」の求める能力なども高いとやっとわかったのだ。
だとしたら価値がある能力よね
それなら、お金にしないとね、である
▶︎その3につづく
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