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七つのロータス 第21章 ジャイヌ

 第1章から

 ジャイヌはサッラからの報告に絶句した。
「三万だと…。間違い無いのか」
「斥候に出た兵の報告では、確かに三万を下らぬ敵がサッラを包囲している、と」
グプタの皇宮に駆けつけた兵士が答えた。体にも衣服にも、草原の泥と砂埃がこびりついたままの姿だ。草原を馬で駆け抜け、体を清める暇も惜しんで皇宮に駆けつけたのだ。
「信じられぬ…。草原の民がそれほどの兵力を蓄えられるとは」
部屋の正面に座す皇帝と摂政、両脇に並ぶ貴族たちの間に沈黙が下りた。
「援軍を出さねばならぬだろうな…」
ジャイヌの口から自信の無さげな言葉が、漏れ出るように発せられた。
「勿論です!」
伝令の兵士が力強く頷く。ジャイヌは疎ましい気持ちでその兵士を下がらせた。
「さて」
ジャイヌは周囲に居並ぶ人々を見まわした。
「緊急にサッラへの援軍を編成しなくてはいけない。鎮東軍が留守にしている以上、一軍を丸ごと動かすわけにはいかぬ。各軍から部隊を選抜する必要がある」
摂政が言葉を終えても、誰一人口を開く者はない。ジャイヌは自分に一番近い場所に座っている近衛将軍が、居心地悪そうに身をゆすっているのを見逃しはしなかった。
 だが、誰もが頭上を嵐が通り過ぎるのを待っているわけではない。あえて言葉にせずとも、戦いの場を、将軍としての功名を望んでいる者も多くいることはジャイヌも承知している。
「ガズニ将軍、近衛軍から五千、鎮南軍、鎮北軍、征西軍から各二千、水軍から千の計一万二千を選抜してサッラへ。マライ将軍と合流したら、指揮杖を受け取るように」
壮年の武将が、静かに頷いた。精強なる帝国軍である。一万二千に先発した五千五百の兵を加えれば、三万の蛮族など圧倒できる筈だ。その場にいたほとんどの者がそう思った。だからジャイヌの次の命令に、人々は思わず声をあげた。
「プトラ将軍は、一万五千の兵を徴集。近衛・鎮南・鎮北の各軍に千ずつ補充し、残り九千で新たに三軍を編成せよ」
「君命であるならば」
プトラの返答を受け、ジャイヌは皇帝に目をやる。幼いナープラは小さく頷いて見せた。
「そこまでする必要があるのでしょうか」
若い書記がおそるおそる発言した。だがそれは、その場にいたほとんどの者の思いでもあった。
「それ程の正丁せいていを農地から引き離せば、明くる年の糧食の不足は必至。他の地域から兵を移動させることで、何とかならないものでしょうか」
「平和が長く続きすぎたようだな」
ジャイヌは大袈裟に溜息をついてみせた。
「田畑が焼かれて、あるいは踏みにじられれば、結果はなお悪かろう。シャタ、お主には、いや、この場にいる若いものたちには、帝国の国土を夷狄に荒らされる事など思いもよらぬのかもしれぬ。事実、初代皇帝ジョグジャンタの覇業より、そのようなことは絶えてない。だからと言って、いつまでも安穏とした日々が続くとは限らぬのだ」
ジャイヌが言葉を切っても、誰も発言しようとはしない。
「敵について、わからぬ事が多すぎる。敵はおそらく草原の民であろうが、それすらも定かではないのだ。用心してしすぎという事はない」

 部隊の編成作業はその日のうちに始められていた。ガズニ将軍は会議が終わるやいなや、配下の隊長たちや、皇宮の官僚たちに指示を与えた。一方、プトラ将軍も皇宮の文書庫から膨大な粘土板を運び出させ、書記たちとともに各集落の徴兵の割り当てを決める作業にはいった。
 一日、二日と日が経つ。サッラ救援の軍勢は、空になっていた鎮東軍の駐屯地に集結しつつあった。その間、ジャイヌは自ら、帝都から徒歩で1日の距離にある駐屯地に詰めて作業を指揮した。
 更に数日を経て集結は完了した。その間にも行われた訓練によって、サッラ救援の軍はもともと一つの部隊であったかのように、あらゆる命令を整然とこなせるまでになっている。出陣の命令を正式に伝えるために赴いたジャイヌは、大権を与えた将軍の成果に満足した。これならば、蛮族など恐れるに足らぬ。
「限られた時間でよくぞここまで」
「おそれいります」
ガズニは静かに頭を下げた。
「明朝には出陣可能だな」
「勿論」
帝国軍にとっても、これほどの大軍を動員するのは二十年ぶりの事態。ガズニ将軍にとっても、一軍・三千兵を越える部隊を指揮するのは初めてである。だがジャイヌが大部隊を託した将軍には、迷いも不安もないように見えた。
「よし、後は全て任せる。何かあれば夕餉の際に報告せよ」
ジャイヌはそれだけ言うと、将軍を残して立ち去った。

 グプタからの伝令が到着したのは、その夕刻だった。
「サッラより伝令がありました!サッラを包囲していた敵は囲みを解き、いずこかへ立ち去ったとのことです!」
ジャイヌとガズニが食事を共にしている一室に若い兵士が駆け込み、息もつかずに叫んだ。続いて、サッラから馬で駆け続けてきた使者が入室する。
 ジャイヌは思わず立ちあがりかけ、再び敷物の上に腰を落とした。息を切らせて床に倒れ伏した使者を抱き起こすのは、ガズニの方がふさわしかった。それは帝国の全てをあずかる摂政のすべき事ではなかった。
 将軍に抱えられた使者は、激しく喘ぎながら一巻きの麻布を差し出した。本人は未だに口がきけない。ジャイヌは使者を案内してきた兵士たちに、連れていって休ませるように指示すると、麻布の書簡を開いた。
「何てことだ…」
言葉を失うジャイヌの背後から、ガズニも書簡を覗きこむ。ジャイヌはそれに気付いて、巻物を床の上に広げた。
「マライ将軍は戦死。皇軍は半数を失う。特に騎兵は全滅に近い。敵はサッラの攻略を諦めただけ…。まだ相当な大軍が残っているのに、その敵がどこにいるのかも、なお帝国の領域を侵そうとしているのか否かもまったくわからない…」
ジャイヌは言葉を詰まらせたが、思考までが止まったわけではなかった。頭脳はむしろ激しく働き、書面から読み取れる情報から、可能な限り敵の動きを推測しようと試みていた。
「なんだ、勝ったんじゃないですか」
のんきな声をあげたガズニを睨みつけ、すぐに目を書面に戻す。手持ちの駒の中で最善の武将だったから、この男に軍を任せた。しかしこの男にその場その場の合戦以上のことを考えろと言っても無理な事は、最初からわかっていた事ではないか。それを改めて思い知らされたとて、怒りを覚えるべきではない。
「引き上げた敵はどこに行ったのだ」
「やって来た所へ帰っていったんでしょう。そう考えるのが普通でしょう」
ジャイヌはガズニの言葉を無視して考え続けた。だがあまりにも情報が不足していた。
「せっかく部隊を編成したのも無駄になりましたか。戦闘での消耗分は、補充せねばならんでしょうが…」
頬を叩かれたような気がした。帝都に残った連中も、同じように考えたらどうなる。ジャイヌは考えるよりも早く、命令を口にしていた。
「早馬を用意しろ。帝都のプトラまで、命令を伝えさせる」
ガズニにも疑問を口にするより、命令を伝える方を先にするだけの分別はあった。大声で従者を呼び、騎兵隊長に命令を伝えさせる。その後でようやく、ジャイヌに質問を投げかけた。
「いったいどうしたと言うのです?」
ジャイヌは固い表情で、将軍に向き直った。
「敵が撤退した事を知ったら、プトラは軍の編成を中止して、編成済みの部隊も解散してしまうかもしれぬ」
そうだ。プトラ自身、必ずしもこの大量の徴兵に積極的ではなかった。そして明確に反対していた文官たちが、やかましく騒ぎ出すのは、目に見える様ではないか。危険は少しも減ってはいない。だが、それをわきまえている人間が、何人いるだろうか…。
「ガズニ殿、くれぐれも言っておくが、明日は予定通り出発してもらう。ただし、目的地は変更だ。空になっている征東軍の駐屯地に入れ。そしてあるだけの騎兵をもって、索敵にあたれ。敵は帝国の本土を狙うかもしれぬ。草原の国境を全て見て来い」
「待ってください、敵は食糧の不足で撤退したらしい、とサイス将軍が伝えてきているではないですか。それ以上の征服を続ける余力など、あるはずがない!」
反論するガズニの目を、ジャイヌの視線が捉えた。その目にこめられた力に、将軍は言葉を失った。
「儂は長い間、草原の民と戦ってきた。若い頃は兵士として、その後には将軍として、そして摂政として。連中は食い物や酒や、それ以外にも必要な物なんであれ、溜め込む事を嫌う。不足に備える事を、恥だと考えている。何故ならそれは、手に入れるための力に不安がある事を意味するからだ。連中は食糧が不足しても、本拠地に戻ったりしない。予備の食糧など残っていないからだ。物が無くなれば奪う、それが奴らの考え方だ」
「敵は帝国の領内に押し寄せてくる、と?」
ジャイヌはガズニの目から視線を外した。
「安心しろ。奴らだって、弱そうな相手を選ぶくらいの知恵はある。必ず帝国に向かってくるとは限らぬよ。だが何事も用心だからな」
ジャイヌは笑顔さえ浮かべて見せた。だが心の内では、現実は常に最悪の予想を上回るものだという想いが渦巻いていた。

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