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七つのロータス 第23章 ナープラ

 第1章から

 ジャイヌは皇宮の回廊を、大股に皇帝の居室へと向かっていた。サッラ救援のため編成した部隊を、急遽プハラに向かわせたため、サッラをどうするべきか御前会議で早急に決めねばならない。ジャイヌとしては、最早サッラの危機は去ったものとして皇軍を引き上げることに腹は決まっていた。皇宮から指揮杖が二本も持ち出されている、すなわち皇軍が別々に二ヶ所で戦いに臨んでいる。このような異常事態は早く解消されねばならないし、帝国の都市が占領されている今、二ヶ所に兵を分散するべきではない。一方は敵の姿の見えなくなった場所だ。サッラ救援の部隊には指揮杖を返還させ、これ以上の増援は行わない。ここまではいいとして、半減した部隊を引き上げるべきかどうか…。現在サッラにいる部隊を一軍に編成しなおし、欠員の補充はしない。このくらいが、現実的なところだろうか…。
 考えがまとまったところで、取次ぎもさせず直接皇帝の私室に進み入った。ややこしい通路を迷いもせずに抜けると、突然視界がひらける。大きく開かれた部屋の正面。その向こう側に美しく広がる庭園が、目に飛び込んでくる。幾度この部屋に入ったかわからないが、その度に眩暈を覚える。この感覚をジャイヌは好んでいた。
 ジャイヌは室内に思わぬ人物を見かけ、思わず足を止めた。皇帝の傍らに侍るのは、反ジャイヌ派と言われているハジャルゴ。この重臣は慣例に従って御前に平伏するのではなく、部屋の一隅に皇帝と並んで話をしていた。ハジャルゴを見上げる皇帝ナープラの顔には、子どもらしい笑顔が浮かんでいる。
「ほら摂政殿がいらっしゃいましたよ。なにか大事なお話があるでしょうから、私めは退出致します」
ハジャルゴはジャイヌの姿をみとめると、そう言って皇帝に笑いかけた。
「えー、もう行っちゃうの。やだ、もっといてよ」
「困りましたな」
ハジャルゴはそう言いながらジャイヌを盗み見る。口元に浮かぶ笑みは、子どもに向けられた笑顔の残像だろうか、それとも…?
「また明日参りますので、今日の所は聞き分けて下さい」
ハジャルゴはそう言い残すと、にこやかな顔でジャイヌに一礼して歩み去った。

 ジャイヌは暫く無言で立ち尽くしていた。今、見たものをどう考えればいいのか、はかりかねていたのだ。沈黙を破ったのは幼い皇帝だった。
「何か用?」
「御前会議召集の御裁可を頂きにまいりました」
「そんな事、いちいち聞きにこなくてもいいじゃないか!結局、ジャイヌがやりたいようにやるんだろ」
「陛下、帝国の礎でも要でもあらせられるお方が、そのような態度では困りますな」
ナープラは無言で、床が一段高くなった場所に移り、敷物の上に横になった。
「陛下、ハジャルゴとは何を話しておったのですか?」
幼皇帝の後ろについてきたジャイヌは、優し気な口調に変えて問いかけたが、ナープラは顔を背けジャイヌとは反対側へ寝返りをうった。ジャイヌの胸の内へ苛立ちが滑りこんできた。
「ジャイヌにお話頂けないような事でも、話しておられたのですかな?」
無言。苛立ちに続いて、かすかな恐れを伴う疑念がジャイヌの心に忍び寄ってくる。長年自らの権力を固め上げてきたジャイヌにとって、皇帝の祖父であるという地位は重要ではあっても不可欠な物ではない。だが外戚の権威を欲するジャイヌによって皇位を得たナープラには、ジャイヌの後ろ盾は絶対に必要な物。しかし、こんな子どもに何がわかるだろう!
「何を話していたのか、お聞かせ願いましょうか」
ナープラはジャイヌの声音が変わったことに気づいて、身を起した。瞳には既に恐れの色が見え、年齢を考えても幼く見える顔を強張らせている。
 ジャイヌはじっと皇帝の目を見詰めた。皇帝はしばしの沈黙の後、口を開いた。
「皇帝に向かって無礼じゃないか。下がれ!早く行って会議でも何でもしてくればいいんだ」
震え、目に涙を浮かべながらとは言え、激しい口調だった。ジャイヌは思わず無言で皇帝の体に手を伸ばしていた。短くも鋭い悲鳴が耳を突く。
「お前はいったい何様のつもりだ」
ジャイヌは皇帝の腕を握り、軽々と引き上げ立ちあがらせた。返事はない。皇帝は涙を湛えた目で、摂政を睨みつけるばかりである。

 この場には誰もいないとはいえ、周りの部屋には女官や皇族の女たちがいる。けれどどんな大騒ぎになるか、という考えは頭の隅で弱々しく声をたてているにすぎなかった。摂政の胸のうちから湧き上がった衝動は、その声を押しつぶしてしまっている。
 振り上げられた拳が皇帝の左頬を打つ音と、上下の歯が激しくぶつかり合う音。ナープラは踏みとどまる事もできずに、そのまま激しく切石の床に叩きつけられた。
 ジャイヌが床に倒れ伏すナープラに一歩踏み出した時、また悲鳴が聞こえた。今度は皇帝のものではない。
「お父様、なにをなさるのです!」
庭園に開かれた戸口から、衣の裾や袖をはためかせて、皇太后が駈け寄ってきた。目に痛いほどの白地に鮮やかな赤色の染模様が躍るさまは、まるで蝶のようである。付き従う女官たちは、部屋の入口まできて、そこで身動きもできずにいた。ただ一人、皇帝の居室に駆けこんだ皇太后は、息子の体の上に身を伏せ、衣が鼻血で染まるのも構わずにナープラの頭を胸に抱いた。
「ラクシャ、どきなさい」
「どきません!」
ジャイヌの言葉に、皇太后は激しく言い返した。皇帝は大量の鼻血を流しながら、母親の腕の中で泣きじゃくっている。
 やがて皇太后は無言でジャイヌの顔を見上げ、睨みつけた。ジャイヌが初めて見る強い眼差し、引き結ばれた口。しばらくの睨み合いの後、ジャイヌは抱き合う母子に背を向けた。

 廊下を歩きながら、ジャイヌは自分の右手を見ていた。まるでそんなものがあったとは、今まで全く知らなかった、とでも言うように。まだ少し息が荒い。儂はいったい何をしたのだ?心の中に疑念が浮かび上がり、冷たい風の様に体の表面を撫でていった。
「儂はいったい何をしたのだ?」
今度は声に出して言ってみる。恐れは更に大きくなる。
 日に日に扱いにくくなる皇帝への苛立ちは、確かに自覚していた。だが、あのような形で突然に噴き出すとは思ってもみなかった。年齢とともに自制心が衰えてきていることも、気がついてはいた。だが、このように致命的な形で癇癪を起すとは思いもしなかった。
 危険だ。危険すぎる。しかし、危険だというのならば、どうしたら良いのだろう。ジャイヌはもう一度、自分の手を見た。体を震えが伝わってゆくのを感じた。

 皇太后は床に座りこんだまま、泣き喚く息子の髪を撫で続けていた。幼い皇帝は母親の胸に顔を押し付けて泣き続け、高価な衣を涙と鼻水、そして鼻血で濡らして続けた。
「さあ、もう泣き止みなさい。おじいさまもいつまでも怒ってはいませんよ」
皇太后が優しく語りかけても、ナープラは泣きながら首を振るばかりである。
 ジャイヌの姿が消えると、皇太后に付き従っていた女官たちも、恐る恐る高貴な母子に近づいて、その周囲を囲むようにしてしゃがみこんだ。
「さあ、帝国の皇帝ともあろう人が、いつまでも子どものように泣いていてはいけません」
ラクシャはナープラの顔を上げさせ、女官の一人からわたされた布で、一面真っ赤に染まった顔を拭った。粘り気の強い鼻血は既に簡単には取れないほど、ナープラの顔に貼りついている。

「ジャイヌが僕をぶったんだ」
 ナープラがそう言った時、ラクシャはなかなか落ちない汚れを取り除こうと、息子の顔を強く擦っていた。
「いくら皇帝になったからといって、お爺さまを呼び捨てにするものじゃありません!」
皇太后の声は、皇帝には届いていないようだった。
「ジャイヌが僕をぶった。ジャイヌは皇帝じゃないのに。皇帝はこの僕なのに」
ナープラは再び、涙の滴を次々とこぼし始めた。今度は言葉も奔流となってほとばしり出る。皇太后が遮ろうとしても、皇帝は宙を見据えたまま。独白とも、誰かに語りかけているとも知れぬ様子で、言葉を続けた。
「臣下が君主をぶった!摂政が皇帝をぶった!ジャイヌはただの摂政なのに!僕は皇帝なのに」
両目から零れ落ちる涙を拭おうともしない息子を、高貴な女はもう一度己の胸に抱きしめた。
「一番偉いのは僕なのに。一番偉いのは僕なのにぃ!」
皇帝はいつまでも泣き叫び続けた。

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