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七つのロータス 第24章 ヴァリィ

 第1章から

 プハラの城壁の上に立つと、この都市の威容が余すところなく見て取れる。眼前には広い平野が広がり、大河からの用水路が届く範囲は様々に色合いを変える緑色に染められ、遥かに下を見下ろせば、高い城壁。岩山の頂上を囲むように建設された城壁は、それ自体が目も眩むような高さを持つのみならず、その土台となった岩山の切り立った断崖に滑らかに続いてゆくことで、まったく自らが天の上にいるかのような錯覚を起こさせる。ヴァリィは足元がむずがゆくなるような、頭の中で虫が這うような感覚を覚えて、視線を元に戻した。何故、こんなにも喉が乾くのだろうか。何故、ただ立っているだけで、心臓が激しく脈打ち、息が苦しくなるのだろうか…。それが高さへの恐怖のあらわれであることに、蛮族の長は気づいていなかった。
 しばし気を落ちつけて目を転じれば、岩山の頂の限られた土地に、細々こまごまと詰めこまれた建物。その間を縫う糸のような街路。更に向こうにそびえる城壁の彼方には、もはや空しか見えはしない。
 醜悪だ。ヴァリィは思った。このように狭い土地に、肩を擦り合うようにして暮らす。それがどのようなものか、想像もつかないし想像したいとも思わない。ただそれが間違った生き方だという思いが、強く湧き上がってくるばかりである。再び、遠く東方に目を遣る。緑色が途切れた向うに広がる、砂色の大地。 草原の民本来の住家が、遥かに見晴らせる。
「遠いな」
ヴァリィは呟いた。本当の居場所から切り離された居心地の悪さが、重くのしかかってくる。早くあの土地へ戻らねばならない。ドゥルランダの考えに全面的に同意するわけではないが、いつまでもこのように狭い城壁の中に押し込められていてはたまらない。
 もう一度城壁の下を見下ろす。城壁と緑の農地との間には、とてつもない大軍が布陣している。あれをいったいどうしたものか。
「ドゥルランダならば、ひたすら突撃して退路をひらけ、などと言うのだろうな」
自然、笑いがこみあげてくる。残念ながら、俺はそこまで単純じゃない。それでも言い訳を考えておく必要はあるな。もう一度口の端を歪める。これがこの男の笑顔なのだと気づく者は、同じ部族の中にも数える程しかいなかった。

 城壁に囲われた街の中で、天幕を張る余地があったのは、練兵場の広場と市場だけであった。ヴァリィは練兵場の中央に設けられた族長の天幕に寝起きしている。蛮族の兵士たちはできる限り天幕に収容しようとしたが、結局場所が足りない。ヴァリィは街の人々から奪った家に寝泊りさせるのを、戦での働きの悪かった戦士や、臆病だとされた戦士に限ることで、部族の者が都市の生活に馴染まぬようにしていた。
 奇襲により、戦わずして降服したこの街の兵士や、『太守』とかいうこの街の支配者とその関係者らは、太守の館に見張りをつけて捕らえてある。ヴァリィは今、ただ一人でその贅沢な牢獄に向かっていた。
 都市の四辺を結ぶ道が交差する街の中心に、太守の館はある。東側城壁の方向からやってきたヴァリィは、道の途切れたところからそのまま繋がる大階段を登って、太守の館に進み入った。入口を守る男たちが、族長の姿をしばし目で追った。
「おい、アズラ」
ヴァリィは館の見張りを任せた友の姿を見とめた。館の広間で戦士たちに剣の鍛錬をさせていたアズラは、ヴァリィに向き直り剣を鞘に収めた。
「何か用か?」
「あの太守とやらに会いたいが、今どこにいる?」
「どこにも何も、お前が言いつけた部屋にいるさ。他にどこへ行くって言うんだ?」
「それならいい、連れて来てくれ」
「そこいらにいる奴に、適当に言いつけてくれ。俺はもう少し、剣を握っていたい。こんな所にいつまでもいると、調子が狂ってしまいそうだ。せめて体を動かさせてくれよ」
「わかった、邪魔したな」
ヴァリィはもう他の戦士を相手に剣の稽古を始めた友に言うと、稽古に疲れて部屋の隅で休んでいた数人の男に用事を言いつけた。

 本来、太守が来客に会うための広間に、後手に縄をかけられた主人が引き出されてきた。招かれざる客であるヴァリィは、太守の座として設けられた一段高い場所から、初老の男を見下ろした。
「太守殿、ご機嫌はいかがかな?不自由な事があれば、何でも申し付けてくれよ。希望に沿えるとは限らぬが」
草原の言葉と帝国の言葉を解する商人が、通訳をする。この街の人間でもないのにたまたま居合せたのは不幸だったが、この男は通訳を勤めることで身体にも商品にも手をつけられずにすむ、という幸運を享受してもいた。
「礼儀正しい振りをするくらいなら、まずこの縛めを解く事だな」
太守は怯える様子もなく言い放った。大胆不敵な太守の様子に、ヴァリィは口元がほころぶのを感じる。
「ご老人、お言葉はごもっともだ。通訳、縄を解いてやれ」
通訳は頷き、太守の縄を解く。太守の周囲を囲む戦士たちが一歩ずつ、太守との間を縮めた。
「さて、これで話しやすくなったな」
「蛮族が何を話そうというのだ。おぬし等にはもはや話し合う必要などないであろう?」
「まあまあ、そう嫌うな。無礼な真似をしたのは、我らとて本位ではないのだ。我らも糧食が尽き果て困り抜いていたのでなければ、このような所業には出なかった」
ヴァリィは作り笑いを浮かべながら言う。知らない者には笑顔とは思えぬような本物の笑顔とは違う、わかり易い作り物の笑顔だ。
「口先だけならなんとでも言えよう」
太守の反抗的な態度にも、ヴァリィの笑顔は崩れない。
「信じてもらえぬのも無理は無い。だがな、俺は無駄な血を流すのが嫌いなんだ。味方だけでなく、敵の血もだ」
大嘘だ。
「配下の者どもにも、必要な物資の徴発だけは命じたが、無制限の略奪は許していない。なんなら、人をやって見てこさせるがいい」
戦士たちに略奪を許さなかったのは事実だ。情けをかけたわけではなく、城の内外の敵への備えのためには、勝手な事をさせておく人間の余裕はなかったのだ。
「ところで、聞きたいのはこの城を取り巻いている軍隊のことだ。太守殿もどうせ誰かから聞いておられるのだろう?この街は全て占領したのに、我らに敵対する軍隊があれほど現れた、というのはどういうわけだ?この街の軍隊はどこかに遠征でもしていて、慌てて戻ってきた、とでもいうのか?」
太守の顔に笑いが浮かんだ。
「偉大な帝国の力を知らぬと見える。七つの都市を統べる皇帝の力、その領域の広さ、民草のおびただしさを知れば、お主とて恐れおののき、己の軽挙を呪わずにはおれまい」
ヴァリィは身を乗り出した。
「面白い話だな。その帝国やら皇帝やらとはいったい何の事だ」
「私はもう喋り疲れた。そんな話なら誰か別の者から聞いたらよかろう」
太守はそう言い、口をつぐんだ。
 ヴァリィはこの無礼な態度にも笑顔を崩さず、通訳の商人にその笑顔を向けた。
「通訳、お前は帝国について、どの位のことを知っている?」
「帝国と一言で言っても、広うございます。私めは、草原の民でありながらも、帝国との交易で生きてまいりました。いざ何を知っているかと問われましても、何から話せばいいものやら」
通訳は困り顔で、言いにくそうに一語一語を搾り出すように答えた。
「そも帝国とは何だ?」
「大河に寄り添う七つの都を統べる、諸王の王たる皇帝の国です。この街もその七つの都の一つにすぎません」
「なるほど、一つの都を陥としても、他の都から兵がやって来るというわけか」
ヴァリィは少し考えて、また問いを発した。
「皇帝というのはどこに居るのだ」
「ここより大河を南にさかのぼった、グプタの都です」
「皇帝は兵をどれだけ持っている?」
「数え切れぬほど。それはもう、何十万という数でございます」
にわかには信じがたい話だ。だが確かに、街を取り囲む軍勢は一万ではきかない。これからなおも増え続けるとなれば、逃れるのは容易ではない。

 街の人々から、時には脅したり逆に敵意をなだめたりしながら、話を聞くうちに夜中になってしまった。寝床を求めて自分の天幕へ向かう足取りが、すでにあやしい。自分の体をまるで引き摺るようにして天幕をくぐった時には、寝床の中へもぐりこむ事しか頭にはなかった。
 だが、松明の灯かりの中に燃える、殺気に満ちた眼差しを目にして、眠気は一瞬にして飛んだ。
「なんだ、まだ眠っていなかったのか」
ほんのひと刹那とは言え、気圧されたのを悟られまいと、何気ない口調で言っては見たが、心の乱れを気取られなかったという確信はなかった。
 天幕の隅から、ただ黙って蛮族の長を睨みつけるのは女だった。自由にならぬ両足をもてあましながらも、両腕で敏捷な獣のように身を支え、隙あらばひと掻きしてやろうと狙っているのである。
「そう身構えるな。力ずくでどうにかしようというのならば、もうとっくにやっている」
ヴァリィは革の椀に水瓶の水をすくって、女の手の届く場所に置いた。女はヴァリィが近づくと天幕の隅に退いて身を縮め、ヴァリィが手の届かぬところまで遠ざかると、足を傷めているとは思えぬ勢いで飛び出して椀を取った。水を一息に飲み下す間にも、ヴァリィから視線を外す事はない。
「そんなけだもののような振舞いは、いいかげんにしたらどうだ」
ヴァリィの言葉に女はただ睨みつけている。
「もう一杯水が欲しいのなら、器をこっちへよこせ。地面の上を滑らせればいい」
勢い良くわたされた椀に水を汲み、先ほどの儀式をもう一度やりなおす。女はけしてこちらから目をそらさない。目をそらしたのはヴァリィの方だ。視線は自然、女の傷ついた両足に引き寄せられてしまう。左足は槍で貫かれ、右の脹脛には矢傷を受けている。汚れた包帯が痛々しい。女はそのせいで、未だに立ちあがる事もできずにいる。配下の男たちに嬲り者にされようとしているところを救い出したのはヴァリィだったのだが、女は何日たっても警戒し続け、手当てをさせようともしない。
 突然、忘れていた眠気が甦ってきた。手に持ったままだった松明を中央の炉に置くと、炉を挟んで女と反対側に敷いてある毛皮の上に横になった。俺を殺したって、状況が悪くなりこそすれ良くなる事など無い事くらい、この女にもわかっているだろう。その考えが言葉にまとまりきらぬうちに、蛮族の長は牛の毛皮の眠りの中に落ちていった。

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