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若きサムライのために

サムライのように生きられたらどんなに幸せだろうかと思う。いや、実際のサムライの生活なんて、今とはかけ離れ過ぎているから、そんなことを考えられるのだろう。辛くて、退屈な生活に決まっている。現代から見れば刺激のない、それこそ封建的な毎日を送り、単純で愚鈍で、飛びきり純粋な日々を過ごすことに違いない。

憧憬と継承

それが、どうして、これほどまでに羨ましく思ってしまうのだろうか。我々は、サムライを見殺しにした新政府の末裔じゃないか。どの口が申すか。闘う権利を徴兵令で一般市民にも付与し、秩禄処分でサムライの生活の基盤を破壊し、廃刀令で新政府以外の帯刀は禁じられた。


アイデンティティの崩壊じゃないか。我々は刀を振り回す、高潔なる蛮族の末裔であったはずなのに、いつのまにか西洋の価値観にとことん毒されてしまったようだ。当時を生きていた、時代感覚に敏感なサムライたちは、当然、反乱するしか手段がなかった。

佐賀だ、神風連だ、秋月だ、萩だ、そして遂には西南戦争だ。誇り高きサムライたちを、ぐしゃぐしゃに踏み潰したのは、黙認したのは、他ならぬ我々の先祖ではなかったか。


時代の流れだ、仕方がない、それは帝国主義の始まりを告げる狼煙だったのだ。古き愚かなサムライたちを滅ぼし、自由民権運動に繋がるこの一連の流れは、日本の近代化にとって必要な痛みであったのだ。

彼の物語、His Storyはそう記述するだろう。
しかし、本当にそうだろうか。自らの文化を、西洋と比較して一方的に恥入り、当時、世界最先端技術を誇る多色刷りの浮世絵を破いてひた隠し、輸出陶器の緩衝材として船で運ばれ、発見されるまでは、過去の遺物として処理しようとしていた事実。

西洋人の目によって評価を得ると、手のひらを返すがごとく拾得を始め、活躍の場はゴミ箱から博物館に移った。こんなことでは審美眼なんて、全く存在しなかったのではないだろうか。いっそ、西洋の目をそのまま移植してしまえば良かったのではないか。森有礼が提案していた通り、平仮名も片仮名も漢字も全てを捨てて、アルファベットで和歌を書けば良かったのではないか。


それこそ、文化を抹消したのだ。紙ならば放置しても劣化を見逃せば生き延びることもあるだろうが、サムライは生き物である。西洋的見地という全くの空想上の観点から、江戸幕府の遺産を一蹴しようとした試みは、皮肉にも実在する西洋による評価という形で止められる。それでもサムライは間に合わなかった。生物の死は不可逆である。文化もまた担い手や風俗という形で生きているのだ。我々はそれを決して忘れてはならない。

亜墨利加もまた複雑怪奇


幕末に横浜を訪れたサスケハナ号は、九十一年後の夏に、この国を占領した。

彼らの移民大国としてのアイデンティティは、もちろん程度にもよるが、滅ぼされた側の先住民に対して、強い郷愁を感じるとされている。自らにネイティブアメリカンの血が混じっているとカミングアウトすると、好感度が上がるらしい。土地への感情、自然崇拝と多神教、弾圧された彼らは、アジア人にも同じルーツを持つモンゴロイドの遺伝子を継ぐ者たちであった。キリスト教的価値観とは相入れない要素でありながらも、アンビバレントな思いを抱く現代の米国人は、不思議とサムライに対する我々の感情と似た部分があるのかもしれない。歴史の勝者は、いつの時代も自らに都合の良い夢を見たがるのだ。


サムライの場合、滅ぼした側も同じルーツを持つが、我々の祖先は過去の誇りを捨て、一方では維持しながら、西洋文明に活路を見た。

対抗手段としての武士道

東京女子大学初代学長の新渡戸稲造は著書『武士道』の中で西洋に対抗すべく東洋の高潔さを打ち出した。こちらもアンビバレントな精神を持っている。騎士道に負けたくないがために、自ら滅ぼした武士道に役割を頼み込んだのだ。

さもあれば、滅ぼされた文化側に、我々の本質なる道徳観はあるのだろうか。歴史の全体性、否定された側である被害者の精神に、ヒントがあるのかもしれない。


新渡戸稲造の『武士道』は、西洋社会に紹介するため、英語を原文として書かれた。日本国に逆輸入されたのは、第二十六代アメリカ合衆国大統領セオドア・ルーズヴェルトが既に一読した後であった。日本の魂をBushido: The Soul of Japanとイングリッシュで説明し、様々な立場はあれども、我々の倫理観は、日本人はそれに立脚している。

また、同じようなタイトルを持つ英文が、それかれら四十五年後の春にThe Constitution of Japanとしてダグラス・マッカーサーの指示で起草された。日本国憲法、国家の根本的な基本的条件を定めた最高法規である。

動的平衡且つシリアルエクスペリメンツな日本語


ひょっとすると自分は日本語を書くことができないのではないか、と不安に思うことがある。義務教育を受けた際に、国語としての日本語と、英語を並列に学んで来た弊害で、英語の構文が日本語の構成に悪影響を与えているのではないだろうか。

日本語の言葉が使われていても、国語的におかしいという場面は多々存在する。「私は」とか「僕は」とか、主語を必ず付けて文章を始めようとしてしまう、主語がないと不安になる自分に、ゾッとする。


考えてみると、教育の過程で日本語の文章を作成した機会のうち、そのほとんどは英文の翻訳であったのではないだろうか。夏休みの課題である読書感想文、入試に必要な小論文、それらの練習を除き、われわれの日本語は、英語と並列していたのではなかったか。

今、この瞬間に書いている文章も、正直、正しい日本語が書けているという自信はない。余計な主語がついていないか、関係代名詞で連結した複文になっていないか、そもそも正しい日本語とは何か。それらの原因は、ひょっとすると武士道と日本国憲法にあるのではないだろうか。

死に様とは生き様である


だからこそ、サムライのように生きたい。
自分が正しいと思うものに賭け、オール・インを宣言し、一世一代の大勝負に出る。

勝てばそれで良い。問題は、負けた後に潔く死ぬのではなく、敗者のまま生き延びてしまうことにある。もし叶うならば、全てを賭けた後に、そのまま結果も知らず、事切れることはできないだろうか。

オール・インを宣言したのであれば、未練もなく退場することが望ましい。勝負所を見極めることができるか。その後、後腐れなく消え去ること、それが理想とするサムライの生き様である。

ハンバーガーを喰らい、世を憂う若者へ

三島由紀夫は『お茶漬ナショナリズム』の中でこのように語っている。

「私の言いたいことは、口に日本文化や日本的伝統を軽蔑しながら、お茶漬の味とは縁の切れない、そういう中途半端な日本人はもう沢山だということであり、日本の未来の若者にのぞむことはハンバーガーをパクつきながら、日本のユニークな精神的価値を、おのれの誇りとしてくれることである」

文明開化の亡霊に苛まれながらも、これらの過去を我々の血肉に出来てこそ、きっと新しい価値観が生まれ出るだろう。

その担い手こそが時代を牽引するまで。若きサムライの出現を信ずる。

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