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色眼鏡 | weekly

「気になっていたお店にようやく行くことができた。味は言うまでもなく、期待を裏切らないものだった。ただ、そこは完全に趣味でやっているお店であり、次にいつ開けるかも分からないというものだった。通信手段の発達している現代なのだから、お店を開ける時には教えて欲しい、というお願いをしたが、誰が来るか分からない、誰も来ないかもしれないというドキドキが好きなので、来て欲しいわけでもなく、ましてや予約なんて以ての外だということだった。家の近くにこんなに美味しい料理屋があるのであれば通いたくなるのが人情というものだけれども、店主いわく、そういう人がいるとしばらくお店を閉めたくなってしまうのだそうだ。閉めている間何をしているのか、と尋ねると、世界の珍しい料理を食べ歩いたりしているという。食べるのが好きで、作るのも好きなので飲食の道を目指したこともあるのだけれども、どうにも決まったものを作ることができず、また、顔馴染みになってくると人間関係が嫌で嫌でたまらなくなるのだという。確かに、私も人付き合いのいい方ではないけれども、これほどひどくはない。そもそもそういうことは面と向かって言わないものであろう。とはいえ、お店を維持していくにはお金が必要だろうと凡人が考えそうな質問をしたところ、こういう説明はあまり好きではないのだけれど、と前置きをした上で話しをしてくれた。

 曰く、先祖代々の土地があり、このお店の場所もその土地の一つである。お金の心配は生まれてこの方したことがないので、いまも好きな時に世界を放浪し、好きな時にお店を開けているのだという。ただ、こういう話をすると、もっとちゃんと生きたほうがいいとか、もっと貪欲に投資をしたり拡大をしたりといった話をよくされるのだけれども、そういうことをしてこなかったから先祖代々の土地が残っており、いまこうして自由に生きていられるのだ、と。まあもっと世の中の役に立つようなこともできるのかもしれませんが、どこで道を誤ったのか、もともとその道に繋がっていなかったのか、世の中というものがよく分からないんです、と手際よく片付けをしながら言う。話しながらも手は止まらずに、いつ開けるとも分からない次の営業のための仕込みを始める。自分勝手というわけでもないはずなのだけれども、何が人の役に立つのか、というのが分からなくて、と繰り返す。土地には地回りのようなものがつきもので、小さい頃から堅気ではないような人もよく出入りしていたという。いわゆる社会の外にいるような人というのが担っている役割というものも、幼いながらに見て育ってきた上で、じゃあ役に立つっていうのはどういうことなのだろうか、というのが分からなくなってしまったのだ、と。私は食事の際には難しい話をあまりしないように気をつけているのだけれども、店主がさらりと言っていることが、社会の分断を如実に表しているように感じられたので、思わず居住まいを正して、話を始めてしまった。」

彼女は音読を止めると窓の外を眺めて、月、と言った。かつて月は一つで、それが満ち欠けしていると思われていた。しかしそれも昔の話で、月はいま19,874個確認されている。理論上はもっとあるそうだけれども、全てを確認するのにはまだ何万年かかかると言われている。計算機の発達によって、地球上の大気の動きや、さらに遠く、そして複雑な天体の動きも計算できるようになった。天体の動きというのは、シクリカルなものであっても、その周期はかなり長い。それゆえ、仮説を検証するのにも時間がかかるのだ。シミュレーションにおいてはそうなるというだけで、その長い間に別の影響が出てこないとも限らず、時間を早回ししてみたらそうなるだろうという話だ。

今も昔も変わらないのは、確率的にゼロでないことは長い目で見ればいずれ起こりうるということで、それは全サンプルを検証することができない人間にとっては感覚的には理解できないことなのかもしれない。

彼女や私のような人類の子孫と呼ばれるような存在にとって、だからこそ過去の人類がどのように感じていたのかを記録してある書物というものを探し出してきては拾い読みする、というのは有限な認知の世界の中でどのように人が感じ、生きていたのか、ということを垣間見ることに他ならず、正気を保つ上では欠かすべからざる行為なのだ。

労働というものが実は一部の人間の正気を保つために不可欠であったということが実証されて以降、労働の価値は変わった。対価を得る、というのが方便であり、労働やそれにまつわる諸活動が暇つぶしに最適であったということを認めてからは、社会的な役割や、先ほどの本に出てきた役に立つ云々という話はされなくなった。単純作業の価値も見直され、その種の労働は一種の治療行為になった。作業療法というものがあったことはよく知られているが、それに労働というラベルを付けることがそれこそ社会的に認められたのは革命的であった。

社会の変革は言ってしまえば思想の革命である。社会を構成する人々との価値観を変えるための方法はいくつもある。暴力というのもその中の手段の一つである。プロパガンダというのもそうだろう。またメディアを通じて、湾岸エリアに住むことはいいことだ、という話を繰り返したり、それ以外の地域との利便性の差や住民の質について話すのも同様だろう。今は亡き湾岸のタワーマンションの廃墟は、革命に失敗したものの末路を示している。

ある考え方が革新的である、と言われている間はまだ革命は道半ばである。それが常識になり、広く受け入れられてこそ、社会の真の変革がなされたと言えるのである。人はしばしばそこを見誤る。目新しい価値観ではなく、人々が受け入れ、それを当たり前だとしていることこそを疑うべきなのである。

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キノコです。

配信の感想は特に求めていないのですが、ご寄付はいつでも歓迎です。
よろしくお願いいたします。

さて、意図せず顔が見える形になってしまっておりますが、なぜキノコが書き文字にこだわっていたのかを理解していただけているのではないでしょうか。あまり話をするのは得意ではないのですよね。え、言い訳はいいからボイストレーニングをしろ?そんな時間はありません。
まあまあ見ていただけているようなので、ゲストなどをお招きしつつホゾボソとやっていければと思います。キノコはボソボソ喋ります。

配信では映っていないのですが、まだまだ本棚に収まっていない本が30箱近くありまして、開梱のアルバイトも募集中です。バーコードリーダーでデータベースに登録できるやつももっているのでできたら登録もしていきたいですね。5年計画くらいでやっていこうと思います。その頃までWindowsOSで動くバーコードリーダーが機能していれば、の話ですが。
図書室の整備、当初の本を置く場所からだいぶ趣旨が変わってきてはおりますが、人々にはサードプレイスが必要だという事をよく理解しておりますので、ちゃんとやっていきたいです。

というわけで、本日は色眼鏡で物を見る話です。

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