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闇を照らす光

早いもので、クリスマスまで1ヶ月足らずとなりましたね。

昨日は、待降節(アドベント)が始まりました。

アドベントはラテン語で「到来」を意味する言葉から来ており、「キリスト(救い主)の到来」を指しています。
つまり、待降節は、イエス・キリストが2千年前に人間の姿で到来されたことを祝うクリスマスの準備期間であり、やがて終末にもう一度到来されることを待ち望む期間でもあります。
(『待降節の希望』)

アドベントにもクリスマスにも、光のイメージがあります。

聖書には、イエスが光として到来されたことが書かれているからです。

わたしは光としてこの世にきた。それは、わたしを信じる者が、やみのうちにとどまらないようになるためである。(イエス・キリスト、ヨハネ12:46)
すべての人を照すまことの光があって、世にきた。光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。(ヨハネ1:9,5)

光と闇は反対語ではありますが、対等の関係にはありません。

闇がどれほど暗くても光を消すことはできないけれど、光には闇を一瞬で消し去る力があるのです。

闇が光に勝つことはありません。

ただ、私は最近、憎しみや利己心に満ちた事件の数々をニュースなどで見聞きして、気分が沈むことがありました。

この世界には闇がたくさんあり、まるで闇のほうが光よりも強いかのように見えることがあるのです。

でもそれは、イエスの光が照らしたのは、目に見えるこの世界というよりも、その光を受け入れた人の内側だったからです。

この世界に存在する闇をすべて消し去るという意味ではありません。

聖書には、メシア(救済者)について多くが預言されていますが、そのあるものは、イエスの最初の到来の際に部分的に実現し、二度目の到来(再臨)の際に完全に実現します。

たとえば、メシアが地上に実現すると言われていた神の国について、イエスはそれがすでに「あなたがたのただ中にある」(ルカ17:20-21)と言うと共に、将来実現するものとして「御国がきますように」(ルカ11:2)と祈りなさいとも言われました。

他にも、平和や永遠の命、そして、光に照らされることなども、イエスを信じる人の内に、目には見えない形ですでに実現していますが、それが完全に実現するのは、「やがて終末にもう一度到来される」時です。

終末とか終りの日というと、人類滅亡を想像する人もいるかと思います。

しかし、聖書が告げる終末とは、人間が自分勝手にこの世界を支配する時代の終りのことを言います。

終りの日には大変なことも起こりますが、闇が最も深まった時に、光であるイエスの再臨によって夜が明け、新しい日、新しい時代が始まるのです。

たとえば、こんな預言があります。

終りの日に次のことが起る。主・・はもろもろの国のあいだにさばきを行い、多くの民のために仲裁に立たれる。こうして彼らはそのつるぎを打ちかえて、すきとし、そのやりを打ちかえて、かまとし、国は国にむかって、つるぎをあげず、彼らはもはや戦いのことを学ばない。・・さあ、われわれは主の光に歩もう。(イザヤ2:2,4-5)

この素晴らしい「終りの日」が来れば、私たちは真に平和と光にあずかることができるのです。

今はまだ、闇があちこちに存在しますが、イエスを受け入れた人の心には、人生を導き、暗闇に打ち勝つ光があるので、すでに「主の光に歩む」ことができます。

わたしは世の光である。わたしに従って来る者は、やみのうちを歩くことがなく、命の光をもつであろう。(イエス・キリスト、ヨハネ8:12)

また、その光を外側に輝かせることによって、その人自身も光の存在となります。

あなたがたは、世の光である。あなたがたの光を人々の前に輝かし、そして、人々があなたがたのよいおこないを見て、天にいますあなたがたの父をあがめるようにしなさい。(マタイ5:14,16)

この夜の時代に終わりを告げる再臨の日が来るのを、忍耐と希望を胸に、楽しみに待ちましょう。

あなたがたの眠りからさめるべき時が、すでにきている。なぜなら今は、わたしたちの救が、初め信じた時よりも、もっと近づいているからである。夜はふけ、日が近づいている。(ローマ13:11-12)

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