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誰もが誰かの人生の脇役
周りに振り回されることなく、自分の責任で自分のために自分の人生を生きるという意味で、「あなたは自分の人生の主役」という言葉があります。
でも、一人一人が自分の人生の主役であるということは、私たちは皆「他人の人生の脇役」ということでもあります。
どんなドラマや映画、演劇でも、脇役の存在は非常に重要であり、互いの人生ドラマにおいても、それぞれがいい脇役となることは幸せの鍵です。
そのためには、相手の気持を思いやらなければいけないし、何らかの代価が自分にかかる場合もあります。
聖書はそれを、「自分を愛するように、隣人を愛する」「愛をもって互いに仕える」などと表現しています。
愛をもって互に仕えなさい。律法の全体は、「自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ」というこの一句に尽きるからである。
イエス自身、このことは、神を愛することと同じように、律法(戒め)の要となるものだと言われました。
「心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ。」「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ。」 これらの二つのいましめに、律法全体と預言者とが、かかっている。
この隣人とは誰のことなのか尋ねられたイエスは、こんなたとえ話をされました。
「ある人がエルサレムからエリコに下って行く途中、強盗どもが彼を襲い、その着物をはぎ取り、傷を負わせ、半殺しにしたまま、逃げ去った。
するとたまたま、ひとりの祭司がその道を下ってきたが、この人を見ると、向こう側を通って行った。同様に、レビ人もこの場所にさしかかってきたが、彼を見ると向こう側を通って行った。
ところが、あるサマリヤ人が旅をしてこの人のところを通りかかり、彼を見て気の毒に思い、近寄ってきてその傷にオリブ油とぶどう酒とを注いでほうたいをしてやり、自分の家畜に乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。
翌日、デナリ二つを取り出して宿屋の主人に手渡し、『この人を見てやってください。費用がよけいにかかったら、帰りがけに、わたしが支払います』と言った。
この三人のうち、だれが強盗に襲われた人の隣り人になったと思うか。」
[イエスに質問をした人]が言った、「その人に慈悲深い行いをした人です。」 そこでイエスは言われた、「あなたも行って同じようにしなさい。」
神殿の仕事をし、民衆から尊敬されていた祭司とレビ人は、自分が主役である自分の人生において、自分の都合だけを考え、負傷者を助けずに行ってしまいました。
しかし、歴史的・民族的・宗教的な背景からユダヤ人に嫌われていたサマリア人は、手間とお金がかかっても、傷を負っていた人を助けました。
こうして、強盗に襲われた人の人生ドラマにおけるよき脇役となったサマリア人は、この有名なたとえ話の主人公となったのでした。
イエスはこの話を通して、私たちが愛すべき「隣人」とは、どんな立場とも関係なく、誰でも助けを必要としている人だと示されたのです。
それが友人であれ、家族であれ、見知らぬ人であれ、また、このたとえ話の状況ほどではなく、些細なことであっても、何らかの助けを必要としている人を前にした時、私たちはその人のドラマにおいて、どんな脇役となるでしょうか。
祭司やレビ人のような脇役になるのでしょうか。
あるいは、いくらかの代価がかかったとしても、その人を思いやって助けたサマリア人のような脇役になるのでしょうか。
イエスは、「あなたも行って(サマリア人がしたのと)同じようにしなさい」と言っておられます。
そうやって、愛をもって互いに仕え合うことができるなら、主役としても脇役としても、どんなに素晴らしい人生ドラマになることでしょう。
◆ ◆ ◆
何事でも人々からしてほしいと望むことは、人々にもそのとおりにせよ。これが律法であり預言者である。
おのおの、自分のことばかりでなく、他人のことも考えなさい。
与えよ。そうすれば、自分にも与えられるであろう。
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