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神の愛のしるし

先日、ある出来事があって、神の愛のしるしについて考えさせられました。

話は一昨年の秋にさかのぼります。私が近所の内科でしてもらっている定期的な胃カメラ検査で、声帯の端に結構大きな突起ができていることがわかりました。

耳鼻咽喉科の医者は、いくつかの原因を疑い、それに合わせて薬を処方してくれたものの、1ヶ月試してもいっこうに改善しません。

薬はそれでやめて、ただ経過観察のために何度か通いましたが、9ヶ月の間、大きさが変わらなかったため、医者から「少なくとも悪性の腫瘍ではなさそうなので、また1年後に来てください」と言われました。

つまり、変化の兆しがまったくないのに診察を続けてもしょうがないけれど、1年待てば、いくらか小さく、あるいは大きくなっているかもしれないので、それに応じて対処できるということです。

ところが、それから数ヶ月後(最初の胃カメラから1年後)、また内科での胃カメラ検査をしたところ、声帯の突起が消えているように見えました。

そこで先週、耳鼻咽喉科へ行って確認してもらった結果、突起は跡形もなく消えていて、声帯が正常な状態に戻っていることが判明したのです。

医者は驚き、「何か特別なことはしましたか」と尋ねてきたので、何もしていないと答えたのですが、そんなことは信じられないという様子でした。

「何もしていないのに、あれがなくなるとは、考えにくいです。何か薬は飲まなかったですか。いつも飲んでいる薬を変えませんでしたか。本当に何もしていませんか。」

私は、お祈りしただけですと答えました。本当にそうなのですから。

わずかな変化を期待して1年待つはずだったのが、ほんの数ヶ月後の検査で完全に治っていたことには、とても励まされ、神の愛を感じました。

その時、ふと思ったのです。「自分の願いがかなったから、神の愛を信じるのだろうか。」

たしかにそれは神の愛のしるしの1つではあるけれど、神の愛の一番のしるしはイエス・キリストがこの世に来て、私たちのために生き、死なれたことであると思い出しました。

預言者イザヤは、イエスの誕生について、こう語っています。

主はみずから一つのしるしをあなたがたに与えられる。見よ、おとめがみごもって男の子を産む。その名はインマヌエルととなえられる。
(イザヤ7:14)

イエスの誕生は、イザヤの言葉が神からのメッセージであるというしるしであり、神の力のしるしでしたが、神が私たちを深く愛しておられるというしるしでもありました。

神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。
(ヨハネ3:16)

イエスは、私たちが罪のために滅びないで、永遠の命を得られるようにと、あがないの供え物になるため、つまり、私たちの罪を代わりに背負って死ぬために、地上に来られました。

わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して下さって、わたしたちの罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわしになった。ここに愛がある。
(1ヨハネ4:10)
正しい人のために死ぬ者は、ほとんどいないであろう。善人のためには、進んで死ぬ者もあるいはいるであろう。しかし、まだ罪人であった時、わたしたちのためにキリストが死んで下さったことによって、神はわたしたちに対する愛を示されたのである。
(ローマ5:7-8)

それは、イエス自身もこう言われたとおりです。

人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない。
(ヨハネ15:13)

十字架上でのイエスの死は、これ以上にないほど大きな神の愛のしるしです。

自分がどれだけ罪深い人間であるかを自覚している人にとっては、たとえ日々の生活で神の愛のしるしがほとんど見つけられなくても気にならないほど、美しく輝かしいしるしと言えます。

でも、それに加えて、愛の神はご自分が作られた自然を通して、また日常生活に起こるちょっとしたこと、あるいは大きなことを通しても、私たちへの愛を示してくださいます。

イエスの誕生と死によって示された神の愛を信じ、日々の生活に愛のしるしを見つけて神に感謝できることは、なんと幸いなことだろうと感じた一日でした。

わたしたちは、神がわたしたちに対して持っておられる愛を知り、かつ信じている。神は愛である。
(1ヨハネ4:16)

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