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『悲しみよありがとう』 まばたきの詩人
最近、まばたきの詩人と呼ばれる水野源三さんの妹・林久子さんが書いた『悲しみよありがとう』という本を大変興味深く、かつ感動しつつ読みました。
源三さんの詩が27編、美しい写真とともに掲載され、詩の背景や源三さんの日常が久子さんの視点から語られています。
源三さんは、9歳の時、町に発生した集団赤痢に感染し、脳膜炎を併発したことがもとで、脳性まひになり、体の自由と言葉を発する能力を失いました。
医者から、目をつむって意思を伝える方法を教えられ、それがヒントとなって、やがて五十音表を使い、まばたきで一字ずつ家族に拾ってもらうことで、コミュニケーションができるようになったそうです。
12歳の時、町の牧師からプレゼントされた聖書を熱心に読んだ源三さんは、心が喜びで満たされ、クリスチャンになりました。
18歳の頃から作り始めた詩には、苦しい心の叫びもありますが、生きていることの素晴らしさや感謝の気持ちをうたったものが多いようです。そのいくつか紹介したいと思います。まず、書名にもなっているこの詩から。
「悲しみよ」
悲しみよ悲しみよ
本当にありがとう
お前が来なかったら
つよくなかったなら
私は今どうなったか
悲しみよ悲しみよ
お前が私を
この世にはない
大きな喜びが
かわらない平安がある
主イエス様のみもとに
つれて来てくれたのだ
生後19か月で視力と聴力を失ったにもかかわらず、社会福祉活動に生涯を捧げたヘレン・ケラーも、これと似た言葉を残しています。
私は、自分の障害を神に感謝しています。なぜなら、そのおかげで、私自身を、私の仕事を、そして私の神を見つけられたのですから。
二人とも、病気により重い障害を負い、大きな苦しみ悲しみを味わいましたが、それによって神を見いだせたことを何よりの祝福とみなしていたことがわかります。
悲しんでいる人たちは、さいわいである、彼らは慰められるであろう。
源三さんは聖書の言葉に神の慰めを見いだし、日々の何気ない出来事にも神の愛と恵みを感じとることによって、体は不自由であっても、魂は喜びと感謝にあふれていたのでしょう。
「今日一日も」
新聞のにおいに朝を感じ
冷たい水のうまさに夏を感じ
風鈴の音の涼しさに夕暮れを感じ
かえるの声はっきりして夜を感じ
今日一日も終わりぬ
一つの事一つの事に
神さまの恵と
愛を感じて
本書にも掲載されている「生きる」という詩に関連して、数年前の新聞に、こんなエピソードが紹介されていました。
聖書に救いを見いだした水野さん。47歳で亡くなるまで、生きていることの喜びと感謝を詩につづった。ある日、一人の男の子が水野さんを訪ねてきた。病気で片方の目が見えなくなり、もう一方も失明寸前だった。
光と共に希望も失いかけていた男の子に水野さんは言った。「他の人と比べないように生きてください」。その後にできた詩が「生きる」だった。
おそらく、源三さんも、初めは「どうして自分だけがこんな目に合わなければならないのか」と感じたことがあるでしょうし、この少年の悲しみを、かつての自らの悲しみと重ねたのではないかと思います。
まばたきによって一字ずつ少年に語りかける源三さんのまなざしは、きっと優しさに満ちていたことでしょう。
「生きる」
神さまの
大きな御手の中で
かたつむりは
かたつむりらしく歩み
蛍草は
蛍草らしく咲き
雨蛙は
雨蛙らしく鳴き
神さまの
大きな御手の中で
私は
私らしく
生きる
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