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【聖書】エリヤの外套を受け取ったエリシャ

茂木健一郎さんの著書『クオリアと人工意識』を読んでいて
ふと聖書とリンクした箇所がある

8 エリヤは自分の外套を取り、それを丸めて水を打った。すると、水が両側に分かれたので、二人は乾いた土の上を渡った。 9 渡り終えると、エリヤはエリシャに言った。「あなたのために何をしようか。私があなたのところから取り去られる前に求めなさい。」するとエリシャは、「では、あなたの霊のうちから、二倍の分を私のものにしてください」と言った。 10 エリヤは言った。「あなたは難しい注文をする。しかし、私があなたのところから取り去られるとき、あなたが私を見ることができれば、そのことはあなたにかなえられるだろう。できないなら、そうはならない。」 11 こうして、彼らがなお進みながら話していると、なんと、火の戦車と火の馬が現れ、この二人の間を分け隔て、エリヤは竜巻に乗って天へ上って行った。 12 エリシャはこれを見て、「わが父、わが父、イスラエルの戦車と騎兵たち」と叫び続けたが、エリヤはもう見えなかった。彼は自分の衣をつかみ、それを二つに引き裂いた。 13 それから、彼はエリヤの身から落ちた外套を拾い上げ、引き返してヨルダン川の岸辺に立った。 14 彼は、エリヤの身から落ちた外套を取って水を打ち、「エリヤの神、主はどこにおられるのですか」と言った。エリシャが水を打つと、水が両側に分かれ、彼はそこを渡った。

新改訳2017 聖書 列王記 第二 2:8-14

エリヤが天へ上がっていく時、エリヤの外套について印象的な描写がある

その外套とは、エリヤの記憶を比喩表現しているのではないかという考察に繋がった

ベルクソンの「純粋記憶」と「私」の継続性  第五章で、生物の「いきいき」(vivid)としたふるまいに関係して、「エラン・ヴィタール」(élan vital)という概念を提案したということで引用したフランスの哲学者アンリ・ベルクソンは、意識や生命に関して重要な考察を残した。この章の中で先に論じた、偶然と必然の入り混じった偶有性(contingency)を生命と結びつける上でも、ベルクソンは本質的な洞察を記している。  そのベルクソンの哲学を、とりわけ主著と言える『物質と記憶』(Matter and memory, 1896)を中心に据えて考察することに取り組んだのが、批評家の小林秀雄だった。
(略)
ベルクソンは、記憶は脳に残るのではないと考えたのだと小林は言う。記憶自体は、脳がなくても残っていて、脳はそれを引き出すきっかけに過ぎないと。もし、記憶自体を「外套」だとすると、脳は、その外套を引っ掛けておくための壁に打たれた「釘」に過ぎない。釘である脳がなくなっても、記憶そのものである外套は残る。ベルクソンは、そのように記憶のことを考えていたのだと小林は熱く語る。

クオリアと人工意識 茂木健一郎著

エリシャはエリヤの霊の二倍欲しいと言った

もし外套がエリヤの記憶を表しているのなら
エリシャはエリヤの記憶を引き継いだことを示しているのかもしれない

さらに飛躍すると
エリヤの意識をエリシャが引き継いで統合したのかもしれない

このような考察もまたあり得なくも無い気がしてならない