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コードネーム金の蛙

平泳ぎの体勢から身体を捻り、波のない海に身体を十字型に浮かべた。白く細長い雲が一筋、頭から足先に向けて長く伸びている。それ以外は赤や黄色を内包する眩しい青色が視界の全てである。ときどき遠くを通るボートが、少しだけ大きめで、それでも崩れる気配のまったくない水塊のような波を押し出してきた。その度に少しだけ頭を起こし、手をひらひらと動かして体の揺れを安定させた。

砂浜には、日光浴や読書をしている人たちが疎らに見える。
真冬の日曜日の午前中。ヌーサビーチで海に入っているのは、行ったり来たりとゆっくり泳ぐ年配スイマーか、このビーチで夏に行われるトライアスロンに向けてひたすらに泳ぐ逞しいアスリートだけのようだった。若者はビーチではない他のところで夕べからの宴の余韻に浸っているか、(多分こっちの方が多勢だろうが)夕べのばか騒ぎにベッドで過ごすことを余儀なくされているのだろう。遠く正面では、今駆け出したチビスケがすぐに転び、母親らしき女性がその子に何やら叫んでいるのが見えた。近くには、二人組の裕福そうなご婦人がゆったりとビーチタオルに体を横たえていた。

私は、年配のスイマーでもないし、トライアスロン選手でもないが、もう30分以上も行ったり来たりと平泳ぎをしている。こうしてターゲットがやってくるのを待っているのだ。
金の蛙。それが私のコードネームで、クライエントもリエゾンも私をそう呼ぶ。彼らが私の顔も私の本名も知らないように、今では私自身も遠い昔に置いてきた名前もオリジナルとして持っていた顔すらも思い出せない。

本日のターゲットは、スクーバダイビングでこのビーチから海へと入ることになっている海洋学者Dr.ハズナガンである。ハズナガンの研究対象は、ヌーサビーチと外海との境界付近にあるとされる海底遺跡である。この海底遺跡については関連学会でもまだ知るものはなく、Dr.ハズナガンのチームに属する極少人数が知るのみだ。コモンウェルスが厳しい情報統制を敷いているらしい。彼らの情報網たるや凄まじく、ある日突然やってきて、莫大な資金提供を申し出たかと思うと、研究者が面倒事と感じていること一切合切を彼らが取り仕切るようになったという。しかしながら皮肉なもので、裏世界とは均衡維持が自然と保たれるようにできている。凄まじい情報網を持つものは彼らだけではなかった。それこそが今ここに私の平泳ぎを導いてきた組織である。「よくある利権を巡る対立」と組織のリエゾンは顔を寄せてきてニヒルに笑った。
ところで、私は勿論クロールもバタフライも得意だ。しかし、やはりターゲットを待つのに一番相応しいのは平泳ぎなのだ。

泳ぎ始めてから1時間が過ぎたとき、ターゲットがやってきた。色が褪せ、袖口が伸びたようなウェットスーツを着込み、酸素ボンベを2本背負って手にはフィンが握られている。波打ち際まで来たときにフィンを足に付け、じゃぶじゃぶと海へと入ってきた。近くに同行者はない。その後、ターゲットはリップカレントに乗ってゆうゆうと沖へと出て行った。私も直ぐに同じリップカレントに乗った。

流れが緩くなったところで、辺りを見渡し、ハズナガンの立てたダイビングフラッグを探した。そうしながら手探りで腕時計のボタンを幾つか押してビーチ北側にある河口続きに係留したジェットスキーを遠隔操作した。数分でこちらに走り来るだろう。

幸いにもハズナガンのブイに固定されたフラッグは直ぐに見つかり、ブイから延びる細いロープを頼りに海へと潜り始めた。流される砂の終点であるのか、海底にはところどころ砂山の盛り上がりが見えた。外海の方を向くと10mほど先だろうか、幅の狭い海溝が見えた。そこまで確認したとき、ジェットスキーが頭上へと到着したようだった。海面へと戻り、ジェットスキーから小型酸素ボンベとマスクを取り出して装着した。ジェットスキーから小型の錨を下ろしてから、先程見えた狭い海溝の方へと潜っていった。海溝は狭く両壁の間は3m余りであった。左右を見渡すと、暗がりに赤い光が一つ、一方の岩壁に点滅していた。その光の方へと降りていく。海は見通しがよく、偶に魚が目の前を横切っていった。
赤い光のところまでくると、それは、壁に取り付けられた小型の電灯だった。そっと触れると、目の前の岩盤の一部がゆっくりと横方向にスライドし、人が通れるほどの穴が口を開けた。内側から柔らかい光が漏れる。両手を掛けて内部へと進むと、そこはプールの底のようであった。びりりびりりと震える海水をゆっくりと泳ぎ、水面に頭を出す。そこは大音量の音楽が響く洞窟だった。
薄暗がりの中で地響きがする。目を凝らすと、洞窟の奥の方に沢山の影が地面を踏み鳴らしながら揺れている。突然、天井からの一筋のピンスポットが、薄暗かりの中で重なり蠢く大勢の人影の中心へと放たれた。その光の中には、薄い羽衣をひらりひらりと振りながら一人の女性が踊り狂っていた。それは、Dr.ハズナガンその人であった。
やがて、割れるような音楽が止み、激しく踏み鳴らされていた足音も止んだ。一呼吸あってから、曲はゆったりとした煽情的な曲へと変わった。ハズナガンは着ているものをゆっくりと全て脱ぎ捨てた。恍惚の表情で踊る。次第に薄暗さに目を慣らしていくと、ハズナガンの周り踊る大勢の絡み合う影も全て裸であることが分かった。そして、陶酔して踊るそれらの顔はみな同じで、どれもがDr.ハズナガンの顔であった。

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