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『あたしとあなた』

彼はお金を使うことに恐ろしく慎重な人だった。

ケチなのではない。カチを見極めるまでに時間と労力をかける。一目惚れで買い物することの多いわたしは見ていてイライラすることもあるけれど、最終的に彼の選択は良い結果をもたらす場合がほとんどだった。

だから、わたしへのプレゼントには慎重かつ細心の注意を払って考える。考えて考えて山ほどの候補から絞り込めなくてプレゼントする時期を逃すこともよくあった。

付き合いはじめはイベント当日にプレゼントを交換できないことに苛立ち、尊重されていないと泣くこともあった。けれどもそのうち彼の習性には慣れたので、わたしはわたし、イベント毎にプレゼントを考え贈る。彼は貰ったプレゼントを家でじっくり眺めながらお返しを考える。そんな噛み合っているんだかいないんだか、よくわからない付き合い方だった。

ある年、確かクリスマスの時期だった。わたしは谷川俊太郎の最新刊の詩集が欲しかったので、クリスマスプレゼントはそれがいい、と彼に頼んでいた。谷川俊太郎の詩が好きなことは以前から話していたが、詩集の名前まで限定して頼んだのは、彼に任せていると最新刊が最新刊じゃなくなる気がしたのだ。

それでも彼は売り場まで一緒に行こう、と言った。本屋が大好きなわたしはデートも兼ねてのことかと思ったが、それが彼の気遣いだと気がつくのは後のことだ。詩集コーナーでは最新刊が面陳され、さあ手に取りなさい、とばかりにわたしに迫ってきた。考える事もなく手を伸ばしたわたしに、

「本当に、それでいいの?」

と彼は遠慮がちな声でささやいた。彼の習性からすれば当然の言葉だし、持っていない詩集も沢山ある。わたしは手にしていた最新刊を戻して、既刊の棚を眺めた。あまり真剣に見てはいなかったのに、その中の1冊に呼ばれたような気がして手に取った。瞬間、魂が吸い取られるような気がした。

それはハードカバーの並ぶ棚の中で、薄い、地味な色の背表紙だったが、表紙には布が貼られて洒落た雰囲気だった。その布地の手触りが、いい。粗くもないが滑らか過ぎず、ほっこりと手に馴染む。

本の帯もいい。わたしは帯で買う本を決める事もある。推薦文などは無く、この詩集のメインテーマを少しだけ見せていて、早く本を開きたくなる。谷川俊太郎の詩集を買おうとする谷川俊太郎ファンに、推薦文は要らない。

ドキドキしながら開くと、その本は空色の紙が使われていた。紙の手触りや印刷に使われているフォントが、独特の世界観を作っている。

「やっぱり、こっちにする!」

わたしは数秒で心変わりした。けっこう大きな声だったようで、詩集のコーナーで大声を出す客はあまりいないし、何人かの客がこちらを振り返った。

「本当に、それでいいの?」

先ほどと同じ質問を彼は繰り返した。今度は少し苦笑が混じっていた。彼に新聞広告の切り抜きまで渡して最新刊を欲しがっていたのに、アッサリと心変わりしているわたし。まるでおもちゃ売り場の子どものようだ。

「うん、こっちが、いい」

欲しかった方はどうするの?と口の中で呟いて、彼はわたしから本を受け取りパラパラとめくった。そしてわたしの顔を見て、

「もう、目の色が違うね。じゃあレジに行ってくるよ」

レジに行く前に、彼は最新刊の方を手に取ってちょっと眺めてから戻し、歩いて行った。最新刊の方が分厚くてでも値段は布張りの小さな本より安かった。彼の習性として、その差額を目の端に入れたのだろう。

こんな時にも数百円の差額が気になるのか。わたしはムッとした。後ろ姿にそっぽを向いた。

本は、値段と中身に関してとても不思議な特性を持つ商品だ。値段にもよる場合も確かにあるけれど、本の価値は手に取る人によって決まる。

彼を待つ間新刊の詩集を読んでいた。いくつか、ちょっと難解な詩があって、それも味わい深いのだけれど、わたしは2人の間のクリスマスプレゼントには、心変わりして決めた方がピッタリだと確信していた。『あたしとあなた』なのだから。彼はわかってくれるだろうか?

平日の昼間。クリスマス前とは言ってもレジは大して混んでいないはずなのに、妙に戻りが遅い。彼の本好きはわたしを遥かに超えていて、変人の域に達していたからどこかで気になる本が見つかって寄り道しているのかとも思った。

わたしの関心は詩集の棚に戻り、気になる詩集をハシゴし始めた。心の奥のやわらかな部分に染みてくる、谷川俊太郎のことば。でもやはり一目惚れで気に入った『あたしとあなた』が早く読みたくて、棚の在庫を手に取って、でも開く前にそっと戻した。彼がお金を払って、わたしのために買ってくれる、その1冊が読みたいのだ。それに気付いたから。

そろそろ心配になるほどの時間をかけて、本屋のレジ袋を下げて彼は戻ってきた。そんなに混んでたの?との問いかけに笑顔で応えて、

「いい、本だね」

の言葉と一緒に手渡された。レジ袋の中にはクリスマスのラッピングがされた包みが入っていた。こういった過剰な包装は彼の嫌うところなのだが。

訝しげな顔をするわたしに、レジを待ちながら本を開いて読み、いちど支払いを済ませてからやはりラッピングを申し出たのだと説明した。きみにこの本を贈るのにはその方がいいと思って、とニコニコしていた。

少し、泣きそうになった。

わたしは彼という人を読み違えていたのかもしれない。もう少し彼の考えを肯定的に受け止めようと思った。

別々の人格なのだから、全くの同じテンポでは歩けない。でも少しずつお互いを気遣うことでピタリと寄り添う瞬間も現れる。ズレている部分に目を向けるのは簡単だ。そこは不快な音がするだろうから。

けれど、わたしはピタリと合う瞬間を2人で温めていきたい。エレベーターのボタンを押す彼の背中を見ながら、わたしはちょっとタイミングのズレた笑顔を彼に向けていた。






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