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Vol.2 アーユルヴェーダの可能性 ~アーユルヴェーダは科学とどう付き合っていく?~

今回も話題はアーユルヴェーダ。アーユルヴェーダは、今後どのような可能性や役割を担っていくんだろう?科学との関係性は? いま想うところを言葉にしてみました。

まずは、科学の土俵にのる

たま: いま、アーユルヴェーダは医療としてどんな立ち位置にあるのかな? これからどういう可能性があると思う?

さき: 宗教の時代のあとに科学の時代がやってきて、ここ100年くらいは、科学優性という枠組みの中で医学が発展している状況を考えると、アーユルヴェーダが現代の文脈において「医学」と認められるためには、まずは科学の土俵に乗って、対等に言葉を交わせる状態にならないといけないんだと思う。植物の働きや、治療の内容や結果をきちんと分析して、有効性を何度も確認して、再現性を高めて、それを論文にして、さらに信頼性がある場で発表して…。

たま: 伝承医療や自然療法の中でも、アロマセラピーや中医学は、日本ではアーユルヴェーダよりなじみがあるし、一部医療の現場でも使われているよね?それは、データ収集や論文発表を頑張ってきたってことなのかな?

さき: アロマセラピーは香りを化合物※1として扱っていて、化学としての言語をもっているし、中医学では、鍼や生薬の治験データをたくさん集めたり、科学に必要な「反証性」※2を示している。そういうことを、長い時間をかけてたくさんやってきたんだよね。もちろん、伝統的な医療を科学的なフレームに押し込めることで、こぼれ落ちてしまうものがあることは認識しつつも。

 アーユルヴェーダは、神話からスタートしているところが、科学と相性がよくない一因になっている気がする。あと、東洋医学自体が、東洋の哲学や思想と切り離せないものだから、そこを「わかりにくい」「非科学的」とする近代以降の医師も多かったみたい。

 インドやスリランカのアーユルヴェーダドクター※3は、「別に科学的に評価されなくてもいい」というスタンスが強めだったけど、いまの科学優性な時代のなかで、「アーユルヴェーダも、このまま科学というフレームを無視し続けるわけにもいかない」という雰囲気にはなっているよね。

※1 いわゆる亀の子(甲)と呼ばれている化合式

※2 科学の定義。反証、つまり「他の人が同じ実験をしたときにも同じ結果がでる」ことによって科学と非科学は区別される。

※3 ちなみに、インドやスリランカでは
アーユルヴェーダドクターも西洋医療の医師と同様、国家資格が必要。

たま: どんなものでも、時代の流れに合わせて選択を迫られることはあるよね。良い悪いよりもまず、生き残りをここで掛けないとっていう。

 聞いてて思い出したのが、歌舞伎の話なんだけど、江戸時代の歌舞伎って、いまとはだいぶ違っていたんだよね。奇抜ないでたちで、まがまがしさや猥雑さも感じさせるような演技や立ち回りをする、ザ・エンタメ、ザ・ショービズ、という雰囲気だったらしいの。それが明治維新後の近代化の中で、政府の指導が入ったり、文化的な価値を高めていこうという役者たち自身の意思もあって、高尚なものの方向に舵をきった。その流れの中で、「江戸の歌舞伎こそ歌舞伎の真髄だ」とこだわった人たちは淘汰されていった、という。まあ、何を一番守りたいのかっていう美学の話にもなっていっちゃうんだけど。

さき: sauve qui peut ~ソーヴ・キ・プ~「生き延びることが出来るものは、全力で生き延びよ」の世界だね※。

※船が沈没するときに、船長が部下に向かって行う最後の命令、とのこと。

たま: 存続さえしていれば、大切にしていたものを再現するチャンスはあるはず、と信じてしたたかに生きていくか、自らの信念に従って滅びていく方を良しとするか…。ごめん、ちょっと話ずれちゃったね。

さき: いや、ずれてないよ、まさにだよね。歌舞伎で生き残っていった人たちも、100のうち100受け渡すなら、きっと別のことをやったと思うんだよね。でも、「1しか残らないけど、それを残せるなら」ってトランスフォームしていったんじゃないかな?

アーユルヴェーダの「定量化」

たま: 最近は、遺伝子検査でも、自分に合う食べものとか、かかりやすい病気とか、向いてる運動とか、つまり、体質や性格をかなり細かく解析してくれるじゃない? これから、そういうデータがどんどん集まってきて、さらに精度が高まって、アーユルヴェーダの真髄ともいうような「熟練の先生の診立て」に相当するものを、AIが出してくるようになるかもしれないよね。そういうことをアーユルヴェーダ関係者は、どう思ってるのかな?

さき: どの業界にも言えることだと思うけど、推進派と反対派がいるよね。「人間が人間の手でやることこそに意味がある。シロダーラ※1マシーンってなんだ。マシーンに頼った施術なんて意味がない」っていうような人もいるし、逆にもう、20年以上前から脈診はどれくらい科学的に実証可能なのか、データをとって学会で発表しているアーユルヴェーダの先生もいる。

 ただやっぱり、定量化することがみんなの納得感につながるのは、あると思うんだよね。わたし自身は、5000年前ではなく、現在を生きている人間だから、どちらも大切だと思うんだけど。

 ちなみに、定量化でわたしがやってみたいのは、「アーユルヴェーダの病気の6段階※2」。アーユルヴェーダでは、病気になるまでに6つの段階があるとしていて、そのうちの最初の4段階は、顕在化していない状態なの。

※1 額に温めたオイルと垂らしていく施術。脳のマッサージともいわれる。
アーユルヴェーダの紹介でよく見るアレです。現在、自動でシロダーラができる「シロダーラマシン」が販売されている。

※2 病気が発症する6段階(サドビックリヤカーラ /Sadhvidhkriyakala)
1.サンチャヤ(Sanchaya)蓄積:少しずつ未消化物がドーシャのそれぞれの座に蓄積していく
2.プラコーパ(Prakopa)増悪:増えすぎて悪化しはじめる
3.プラサーラ(Prasara)拡散:定座から広がって移動していく
4.スターナサーシャヤ(Sthana samshraya)定住:弱いところにくっつく
5.ヴィヤクタ(Vyakta)出現:病気の発症
6.ベーダ(Bheda)定着・慢性化:病気の慢性化
5、6は実際に病気が発症した状態(既病)で、1~4までは、症状はあるが、診断はつかない状態(未病)。未病の状態からアプローチすることが大切。

たま: 本格的に病気になるまで結構距離があるんだね。

さき: そうなの。ドーシャが溜まっていって、放っておくと5段階目で顕在化(出現)して、定着・慢性化してしまうんだけど、6段階のうちの2段目、3段目あたりで気づいてケアしたら、発症させないで済むわけ。階段5段目のぼるまで待って病気を顕在化させなくても、やれることはいくらでもあるからやっていこう、と言うのがアーユルヴェーダなの。

たま: たとえば2段目あたりではどんなことに気づくの?

さき: すっぱいゲップがでるなとか、眠れないな、とか。

たま: そこそこわかりやすいサインが出てくるんだね。

さき: そうなの。1段目は、「手足が冷えてるな」というような生理的な現象なんだけど、その段階であっても、できることはあるの。「身体が冷えてるから、今朝はグリーンスムージーを飲むのはやめよう」とかね。

 未病の状態といわれる1~4段階において、1段目はドーシャの量やタイプがこうなっていますよ、2段目はこうですよって、定量化することができたら、セルフケアでの有効な手段になると思うんだよね。確かな予防医学として。

たま: なるほどなー。感覚の鋭い人は、自分の身体の調子を敏感に感じとって、その時々で的確なケアをしていけるかもしれないけど、まあ、なかなか難しいよね。調子が悪いから感じにくくなってる場合もあるわけで。そこが定量化されたら、誰でも、「いま3段階目にいるから、このケアをしよう」ってわかるようになるんだね。病気までの6段階の定量化っていうのは、具体的にはどういうことをするの?

さき: いますでにある技術で、血圧や体温はもちろん、睡眠の質を調べたり、呼吸の深さを数字で把握したりできるよね。そういったものを、3つのドーシャにカテゴライズした上で、数字という、みんなにわかりやすいもので把握できるようにしたら、自分の現在地がより明確にわかって、自発的にライフスタイルが健やかな方向にむかうんじゃないかな、と思っていて。

コロナウイルスを含む感染症も、基本的には弱い人からかかると言われているじゃない?「弱い人」ってアーユルヴェーダの考えでは未病の状態にある人※、つまりこの1−4段階のどこかにいる人だから、そこが可視化されたら、アーユルヴェーダ的予防対策ができるかもしれないよね。

※乳幼児は除く。また、持病があって感染の恐れが高い人は5-6段階の人とカテゴライズされる。

たま: 健康とか、身体のことって、感じていない、見えていない時にはスルーしちゃていたのに、見えることでやる気にスイッチが入るっていうのはあるよね。

 前に行ってたジムがね、毎回、各パーツの筋肉量を測定してくれてたの。すごく歩くことが多かった週があって、そうしたら、その週は脚の筋肉量がかなり増えてたの。たった1週間でだよ。びっくりして。でも、その後、座ってばっかりの日が続いたら、次の測定時には減っていた。

 体感としては、脚の筋肉が増えたり減ったりした感覚はないの。でも、感じていなくても、変化は起こっているわけで、そのままずっと座っりっぱなしの生活を続けていたら、ある時ふと、歩くのがすごく億劫になってたりするんだろうなって思ったの。

 体感がなかったものが見える形で提示されることで、急に「現実」になるんだよね。それで「あ、いまこの状態だったらこれやろう」って行動につながる。

さき: そうだよね。そうやって数値化、定量化して示していくことで気づけることって絶対にあるよねえ。それと同時に大事だなと思うのが、真理は科学という手法では解明できないかもしれないと、サイエンティストですら言っているのを知っておくことじゃないかな。

 「科学がどこまで進歩しても世界の真理の95%までしか辿りつけなくて、最後の5%はいつも未知が残る」という話を、あるサイエンティストがしていたんだけど、科学のフロンティアにいる人がそれを言うことにびっくりしたんだよね。すべてを知りたいと思って研究に打ち込んでいる科学者たちでも、絶対たどりつけない5%があるとしたら、アーユルヴェーダはそこを安住の地にしてもいいんじゃないかと、非常に不遜かもしれないけれど、思ったりもするの。

とはいえ、「わからないことがある」を前提とする

さき: 科学者たちも言っている通り、現状でも今後でも、科学でわかることもあるし、わからないこともある。科学で証明できなかったとしても、治ったという結果があることも、実際の現場では多い。だから、それはそれでいいのかな、とも思うところもあるし、そこを大切にしたいという思いもあるの。常にエビデンスを求める謙虚な気持ちは、今のところはもちつつね。

たま: 「科学」とか「伝承医療」とか、生真面目に分けなくてもいいのかもね。科学は当然使いつつ、西洋医療、伝承医療、あるいは自然療法やバイオレゾナンスなどなどの良いところを、相殺し合わないように取り入れていけばいいんじゃないかな。

 実際、生きているうえで、わからないことの方が多いと思うんだよね。人の感情なんかも、瞬間瞬間に移ろっていてとらえどころがなかったりするし、宇宙でも植物でも、まだまだよくわからないことが多い。そのわからない部分の情報量って、実はわかっているところよりもずっと多いんじゃないかな。わたしたちが未熟だから、それをわからないだけで。わからない部分とか、論理的に説明できないふわっとした部分を、見えないからって、すべて切り捨ててしまうのはもったいないよね。

さき: 人が得ている情報の80%は視覚情報※といわれているから、きっとやっぱり可視化するって大事なんだろうなと思う。

 でも、視覚以外の20%も大切かなって個人的にはずっと思ってるの。アーユルヴェーダはその20%を衰えさせず、進化させてくれるものだとも思う。少なくともセラピストは自らの手で触れる肌の感覚、触覚から得る情報をすごく頼りにしているんだよね。だから、アーユルヴェーダの実践者が増えれば、見えることでわかる80%以外に注意を向けつつも、科学の公平性を大事にしていくっていうバランスをとることができるのかなって。

 実際、目には見えないけれど、クライアントさんに触れたらわかることって多いんだよね。「卵管がつまっている」とか「いま本当は悲しんじゃなくて怒ってるんだな」とか。

※感覚の種類とそれぞれの情報能力の割合は上から
「視覚(目)87.0%、聴覚(耳)7.0%、嗅覚(鼻)3.5%、触覚(皮膚)1.5%、味覚(舌)1.0%とのこと。
『産業教育機器システム便覧』(教育機器編集委員会編 日科技連出版社 1972)より。

たま: 触ってわかることについては、科学がおいおい証明してくれるんじゃないかな?「ほら、やっぱり触ってわかってたね」って。証明の仕方はわたしには全然わからないけど。「〇〇と以前から思われていましたが、ついに科学的にも証明されました」ってよくあるじゃない?

photo by Satoshi Osaki

Vol.3へつづく

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