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道中の念仏~読誦正行と観察正行 善導大師と弁栄上人に学ぶ~

移動中の念仏は助業中心

 私の普段の移動手段といえば、徒歩を除き圧倒的に鉄道移動が多い。その次にバス、時折原付スクーターといったところである。
 上記公共交通機関を中心とした移動では、乗車中の時間の過ごし方をどのような事に使うかはとても重要事項であるが、私の場合は基本的には仏教書を読むことがほとんどである。浄土仏教の信仰者であれば、行住坐臥において口称念仏することが一番望ましいことは言うまでもないが、さすがに多くの方々と共用している鉄道やバスの中で声に出して称えることは憚る。我が法然上人にも念仏に熱心なのは良いが周りには配慮が必要であると仰せである。

五種正行①(読誦正行)

 そうなるとやはり仏教徒にとっては仏教書を拝読することが、電車の中での最も良い過ごし方であるように思うが、浄土門では善導大師が定めたる五種正行という考え方がある。
 善導大師云わく、
「正行といふは、もつぱら往生経の行によりて行ずるは、これを正行と名づく。何者かこれなるや。一心にもつぱらこの『観経』・『弥陀経』・『無量寿経』等を読誦し、一心に専注してかの国の二報荘厳を思想し観察し憶念し、もし礼するにはすなはち一心にもつぱらかの仏を礼し、もし口に称するにはすなはち一心にもつぱらかの仏を称し、もし讃歎供養するにはすなはち一心にもつぱら讃歎供養す、これを名づけて正となす。またこの正のなかにつきてまた二種あり。一には一心にもつぱら弥陀の名号を念じて、行住坐
臥に時節の久近を問はず念々に捨てざるは、これを正定の業と名づく、かの
仏の願に順ずるがゆえなり。もし礼誦等によるをすなはち名づけて助業となす。」

 つまり、読誦・礼拝・観察・称名・讃歎供養の五つの行法であり、称名念仏を正定業として最も重んじ、残り四つを助業として念仏信仰を増進させる行法とするのである。
 先にも述べたように、いくら称名念仏が正定業であるとはいえ、鉄道やバスなどの車中においては周りへの配慮を考えるとなると、大っぴらに称えることはできない。そうなると善導大師が仰るところの助業が最適であろうし、特に読誦と観察の二行が行じやすいと考えられる。
 読誦正行は本来善導大師が云うように、「浄土三部経」の経典読誦であるが黙読することもその一端であるから、「三部経」が載っている典籍を車中で読書することも当てはまる。

 弁栄上人などは読誦正行の範囲をさらに拡大させて次のように云う、
「救世の福音なる聖典をよみ如来の聖徳及び浄土荘厳等を識り以て信念を修養す。」
 
つまり、仏やその福徳、荘厳等が説かれており、信仰を増長させる典籍であれば良いというお考えである。
 信仰を起こさせる仏教書の拝読は要するに読誦正行となる。

五種正行②(観察正行)

 五種正行中の観察正行も車中では適した助業といえる。
先に善導大師の言葉にあったように観察正行は、
一心に専注してかの国の二報荘厳を思想し観察し憶念し」
と云って、仏・菩薩とその浄土の有様を観察憶念することであるから、黙して行ずることができる。
 
 弁栄上人がこの移動中における観察正行をいくつかお示しくださっているので大変参考になる。というのも、弁栄上人の時代は既に鉄道省が置かれ鉄道が走っていたので、弁栄上人が全国に布教に行く際は鉄道中心の移動で全国を巡錫しておられていたという。そのため、鉄道の車中や駅での待ち時間の時も様々な工夫をしておられたというのである。

 弁栄上人云わく、
「もし如来様の御顔がはっきりと憶い浮かばねば、御月様に目鼻をつけた様なものでもよいから断えず御顔を心に浮べて居る様に、又汽車の中や道を行く時等向うに山が見える時その山一ばいの如来様を憶念せよ」

 この説示はとても良い教えである。弁栄上人のお言葉から次のような工夫ができよう。
 電車の中で座っていても立っていても構わないが、窓の外眺めている時には何となく見ているのではなく、遠く山が見えれば「山越えの弥陀」を憶念し、空を見るときには「来迎の弥陀」を憶念していくのである。なかなかイメージできない人は、弁栄上人が仰るように「御月様に目鼻をつけた様なものでもよいから断えず御顔を心に浮べて居る様」に漠然とした形でもよいから憶念するのである。
 これは実際に行ってみると車中の過ごし方が一変する。読誦正行としての仏教書の拝読も良いが、観察正行は心を内的な方向から外的な方向へ転換でき、読書中の「理釈」を憶念中の「事釈」へと具体的に観ていくことができるので、読誦正行と観察正行が相互に補完することが期待できるのである。


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