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発泡酒

得体の知れない不吉な塊が僕の心を圧えつけていた。
長く見た人生の、ほんの短い時間。
達成しなければならない目標など何処にも見えず、ましてや今、この時、この瞬間に左手を動かさなければいけない理由さえも理解できていなかった。
焦燥というのか、嫌悪感と言うのだろうか。
左手の動かす理由を考えるよりも先に、両の足がこの部屋から出たいと訴えかけてきた。
僕は左足の靴紐が、固く結べていないことに気付かないフリをして家を出た。

僕は玉遊びは嗜まない。
いや、遊技しないと言い換えておこう。
それでも僕は遊技場へ出かけた。
入り口付近に申し訳なさそうに設置されている灰皿を借りるためである。
僕の家から一番近い灰皿がそこなのだ。
夜、それも極めて深い夜に感じそうな虚無感に、僕は白昼から襲われていた。
出入りする人々を見ながら、昼から遊技とはなんて素晴らしい人生なんだろう、煙草に火をつけながらそう思ったが、自分は皮肉で言ったのか、それとも本心から出た言葉なのかを考えているうちにフィルターまで火が届いた。

僕は何を持っているのだろうか。少しばかりの教養と、悪運であろうか。
精神的に向上心のないものは馬鹿だ、と何処かのアルファベットは述べていたが、僕は馬鹿に値するのだろうか。
ようやく左足の靴紐を固く結んだ。
すると、右足の靴紐の緩さが気になってしまった。

それ以上その場所に留まる必要も無くなったため、僕は家から北西にずれた方向へと歩き出した。
普通の人なら、家とは真逆の方へと足をむけるかも知れない。
そもそも、普通の人は虚無に襲われて彷徨う経験など無縁かも知れないが。
家に帰って暖を取りたい気持ちと、このまま何処かへ逃げたいという気持ちの軋轢であろう。
目と鼻の先にあるコンビニ、ホルモンが売りらしい焼肉屋、何年間も見続けてはいるが一回も入ったことのない喫茶店、殆どの店を通り過ぎ、足を止める事はなかった。

結局僕は「地元に根付いている」という言葉がとても似合うスーパーにやってきた。
砂糖、ビタミン、カロリー、ありとあらゆる商品に興味を持ちながらも、私はアルコールの前で立ち止まった。
いつもの麦酒を手に取ろうとしたが、下の方に置いてある発泡酒に目を奪われた。
僕は直ぐにその発泡酒を手に取り、レジまでの最短距離を歩いた。
所謂ジャケ買いというものであろうか。
発泡酒を選んだことによって生まれた五十円、これを太陽が真上にある時間からアルコールを摂取することに対する罪悪感に捧げた。

袋は貰わずに、発泡酒を煙草が入ってない方のポケットにそのまま突っ込んだ。
風が冷たい日だったので、両の手もポケットに突っ込んでいた。
右の手に触れる、その発泡酒の冷たさはたとえようもなくよかった。
風の冷たさから逃げるために引っ込めた右手に感じる、発泡酒のアルミの冷たさは快いものであった。

つまりはこの重さなんだな。
そんな言葉を吐きたくなって、右手だけ発泡酒と一緒に取り出してみたり、アルコール度数を確かめてみたり、少し強めに握ってみたりした。
忙しない右手とは対照に、両足は淡々と動き続けていた。

僕はまた遊技場の脇に座っていた。
今ここで発泡酒を開けるか、家に帰ってから開けるか、葛藤していた。
飲まずに何処かに置いて、爆弾を仕掛けた気分の高揚を味わいたいとも考えたが、あくまでもパフォーマンスの為の発想であり実行する気は更々なかった。
飲み干した缶を爆弾に見立てても良かったのだが、それは公共に置いての行儀の悪さでしかないと考えたため断念した。

太陽は少し傾き始めていた。
僕はまず煙草に火を付けて、それから片手で缶の蓋を引っ張った。
仕事してるのかなぁと思うような老人。
腰が曲がっている老婆。
僕と同じくらいかそれより少し上かと見られる茶髪の青年。
通る人殆どと目が合い、喧騒の中に吸い込まれて行く様子をただ見守っていた。

僕は遊技をしない。
昼間から競馬を嗜む事はあるが、玉遊びはしない。
それ故、昼間から遊技場へ来る人達の事を異端だと決めつけていた。
しかし、端から見たら、灰皿の前で発泡酒を開けている好青年の僕の方が異端であろう。
そんなことを考えていると、変にくすぐったい気持ちがした。
そして私は保育園から聞こえる子供の笑い声が彩っている家路を歩いた。

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