見出し画像

ショパン「ソナタ変ロ短調作品35」考 Part3

・余談
 標題音楽を嫌ったショパンだが、このソナタの明らかな描写性からは、ある種の物語的なものを感じずにはいられない。第1楽章は、一人の男と死神との戦いを描いている。楽章全体に反抗的精神が漂い、劇的な展開の末、男は死神に打ち勝つ。第2楽章は死神の逆襲だ。それも猛烈な勢いでもって、男に襲い掛かる。トリオは一時の小康状態を表すが、再び死神の反撃が始まる。嬰ヘ短調で頂点に達した後、興奮が静まり、小康状態のトリオの主題が再現されるが、これは男が死を免れたことではなく、苦痛から解放されたことを意味する。最後に低音のオクターヴで静かに打ち鳴らされる変ニ音と変ト音は、彼の最後の鼓動、呼吸を表す。変ト音の後に右手の和音が数小節の間鳴り続けるのは、鼓動が止まった後も数秒間は意識が残ることを暗示しているかのようだ。そして男の葬送が始まる。美しい中間部は、男の死を悼む人々の涙と愛の表現、または過去の回想である。フィナーレは、男の埋葬された墓の上をケタケタと笑いながら旋回する死神の描写だ。最後は、嘲笑することに飽きた悪魔が、次の獲物を探しに飛び立つ様を表す。よって、ここの低音変ロと、それに続く変ロ短調和音は、イン・テンポで弾くべきなのだ。

4・葬送行進曲のルビンシテイン流解釈をめぐって
 1930年のラフマニノフによる録音で広く知られることとなった第3楽章「葬送行進曲」における大胆なデュナーミクの改変を施した解釈―遠くの方から次第に葬列が近づき、トリオの静寂を挟んで、また遠のいていく様を表すーは、19世紀ロシアの大ヴィルトゥオーゾ、アントン・ルビンシテインが始めた伝統とされている。後のコルトーのように、ルビンシテインもまた、あらゆる音楽にドラマ性を見出さずにはいられなかった(彼はこの曲に「死神の詩編」という呼称を与えた。また、ヘ長調のバラードについて「このバラードの演奏家は聴衆に、強風に奪い去られたささやかなポーランドの花の不幸な運命、哀れな花のかいなき抵抗、風と嵐の抗争、花の燃ゆる悲願などを描写する必要を感じないでいられようか」とコメントした)。ハンスリックが批評の中で「彼自身による素晴らしい革新」として称賛しているのが、まさにこの解釈のことである。このロシア・ピアニズムの祖による再創造芸術の魔力に影響を受けたのはラフマニノフだけではない。19世紀から20世紀初頭までに生まれたピアニストで、このルビンシテイン流解釈を採用している著名な演奏家はほかにもいる。ラウル・プーニョ、ラウル・コチャルスキ、ギオマール・ノヴァエス、ヤコブ・ザーク、グリゴリー・ギンズブルグ、イヴ・ナットらがそうだ。(ちなみに、後半の行進曲の再現部のみに限り、このデュナーミクの改変を用いて演奏しているピアニストはもっと多い)。

 ラフマニノフ、ザーク、ギンズブルグらロシア勢の演奏が、偉大なルビンシテインの伝統(或いはラフマニノフの録音)に倣ったものであることは明白だが、興味深いのは、ロシア人以外の演奏家にもこの解釈を採用している者がいるということである。つまりこの事実は、ルビンシテインの圧倒的な演奏の影響が他国にも根付いた結果なのか、或いは、この解釈には別の出所が存在することを示しているのか、という問題を提起するのである。
 特に注目すべきは、プーニョとコチャルスキの二人だ。この二人に共通することといえば、何といっても、それぞれジョルジュ・マティアスとカロル・ミクリに学んだ、ショパン直系の孫弟子であるということだ。このことを踏まえると、ひとつの仮説を立てることができる。即ち、このデュナーミクの改変は、その弟子たちを通じて伝えられた、ショパン自身の考えであったかもしれないという説だ。
 プーニョからみていこう。彼はマティアスによるショパン作品の教授法を回想して記すなど、後々まで師の教えを大切に守っていたことがうかがえるが、1852年に生まれ、ルビンシテインが94年に死去している事実を踏まえると、プーニョがルビンシテインのパリ公演を聴く機会は何度もあったはずであり、マティアスからこの解釈を伝授されなくとも、ルビンシテインの演奏から直接影響を受けたという可能性がまだ多分に残っている。

 しかし、コチャルスキの録音の存在はこの仮説をかなり確信に近いものにする。彼は1885年にポーランドに生まれ、ルビンシテインが死んだ時はまだ9歳。神童で、4歳から演奏会に出演し、その評判はヨーロッパ中に鳴り響いたというが、1892年には、早くもミクリに師事し始めており、このロシアの大ヴィルトゥオーゾの演奏を聴く機会はあったかどうか。彼のショパン演奏は、ミクリ直伝の装飾を施した有名なノクターンの録音をはじめ、ショパン本人やその周辺にいた人々の伝統を忠実に守ったものだと云われている。彼自身、ミクリの教授法を口を極めて賞賛する文章を残している。それが、葬送行進曲に限って突然、ロシア・ピアニズムの大巨匠の解釈に傾くなどとは、到底考えられないことではないだろうか。

 ルビンシテイン本人に関しては、彼がショパンの演奏を聴いたか、或いはショパンの弟子たちから成るサークルと何らかの接触があり、そこでこの秘伝の解釈を知り、自らの演奏に取り入れたとも考えられる。しかし、彼のショパン演奏が、パリのショパンの知人グループからは称賛されなかったという事実も無視できない。彼が弟子や知人の誰かを通じてこの解釈を知ったという可能性は限りなく低いだろう。
 いずれにせよ、私はこの解釈がルビンシテインの発案ではないことを証明したいのではなく、ルビンシテインの偉大な再創造の才が、彼を偶然作曲家本人の秘められた別の解釈との一致へと導いた、つまりショパンとルビンシテインという二人の天才が、書かれた楽譜の奥に共通する別の姿を認めたのであれば実に面白い話だと思うのだ。(追記 コチャルスキは少年期にルビンシテインを聴いている。よって彼もプーニョも、その師を通じた作曲家本人からというよりは、やはりルビンシテインの伝統の影響を受けたと考えた方が良さそうだ。)
 ついでに、これより後の世代の二人にも触れることにしよう。ナットとノヴァエスはともにパリ音楽院で教育を受けている。彼ら二人の、この改変を採用した録音が意味するものは、ラフマニノフ録音からの影響か、はたまたショパン自身による伝統が、密かにフランスで息づいていたという証か。
 ナットはルイ・ディエメに師事した。ディエメはルビンシテインとも個人的な付き合いがある一方、彼がパリ音楽院の教職に就いていた期間はマティアスのそれとも重なる。またディエメのピアノの師は、ショパンの演奏を何度も聴いたマルモンテルであった。ナットがこの解釈を、パリにおけるディエメのもとでの勉強から得たものだと仮定した場合、このような系譜を辿ることができるが、ショパン由来のものか、ルビンシテイン由来のものかまでは断定することができない。コルトーやカサドシュなど、葬送行進曲の録音を残したほかのディエメの著名な弟子のなかで、この改変を採用しているものはほかに確認できなかった。ナットの世代のピアニストであれば、ラフマニノフの録音または実演からの影響ということも十分に考えられる。

 ノヴァエスはマティアスの弟子であるイシドール・フィリップに師事した。ということは、ショパン直系の系譜に連なることになり、彼女の解釈がパリ仕込みだとすると、これがショパン由来だという可能性が高くなる。前述のピアニストたちと少し違うのは、ノヴァエスの演奏では、前半の行進曲は譜面通り静かに終わってそのままトリオに入り、再現をフォルティッシモで始めて、終わりに向かって次第にデクレッシェンドしていくというやり方をとっているところだ。因みに同じくフィリップの弟子であるニキタ・マガロフの演奏はこの解釈に拠っていない。

 最後にネルソン・フレイレの素晴らしい録音にも触れておこう。偉大なブラジルの巨匠は、ラフマニノフの録音から多大な影響を受けたと語っているが、同郷の先人ノヴァエスへの敬慕も、少なからずこの録音に影響していると思われる。2000年に録音されたこの演奏は、ヒストリカル・ピアノ録音を一度も聴いたことのないような若い世代、楽譜至上主義の真っ只中で育った若者たちの、再創造芸術への扉を開く第一歩となりうるだろうか。フレイレの勇敢な行動と、自発性に満ちた見事な演奏は、より多くの称賛に値する。

 デュナーミクの大胆な改変によって強く印象に残るこの解釈の出処が、ルビンシテインなのか、ショパン自身なのか、確定的な証拠は未だ見いだせてはいない。しかし重要なのは、長らくルビンシテイン由来とされてきた、この印象的な解釈が、ショパン直系のピアニスト、或いは、フランスで学び、ショパン本人やその周辺にいた人物と何らかの接触のあったピアニストの録音からも、はっきりと聴くことができるということと、明らかにこの改変が、作品の新たな側面に光をあて、多くの聴衆に強烈な感動を与えたという事実であろう。

・終わりに
 ショパンに関する文献を読めば読むほど、本当にこのような人間が存在したのだろうかという想いが強くなっていく。無類の天才。彼は音楽史上、ひょっとすると人類史上まれに見る最高の天才のひとりだったのかもしれない。
 一体ほかの誰が20歳になるかならないかの若さで、演奏と作曲における独自のスタイルを完全に身につけ、天から授かった才能の導くままに、2つのコンチェルトや、後のピアノ演奏技法の可能性のほとんどすべてを集約したかのような、作品10に含まれるいくつかのエチュードをはじめ、今日まで数え切れぬほど演奏され続けてきた傑作を書き得ただろうか。偉大なバッハ、モーツァルト、ベートーヴェン、早熟のメンデルスゾーン、サン=サーンスらが、この年齢で、これらに匹敵するような傑作をはたして書いただろうか。十代のころに書かれた諸作品には、当然、後に書かれた傑作のような完成度はないかもしれないが、明らかな個性、シューマンの言葉を借りればどの曲にも「フレデリク・ショパンという名刺を掲げている」。若年の彼に影響を与えた先人の作品(フンメル、カルクブレンナー、モシェレス、フィールドら)を聴けばすぐに解るように、ショパンが彼らから参考にしたものは、作品の型、構成、リズムやフレーズのパターン、雰囲気に過ぎず、主題、展開、ピアノ書法のどれをとっても、それらは比較にならぬほど独創的で、人の胸を打つ魅力にあふれているのだ。
 今日世界中で親しまれている大作曲家の作品で、頻繁に演奏される曲というのは、悲しいことに彼らの全作品中ほんの一握りにしか満たないというのが現実だが、ショパンの場合は、演奏される機会が少ない作品を挙げたほうが早い。彼の遺した作品のほぼ全てが、あらゆるピアニストたちのレパートリーに含まれ、演奏会でも録音でも聴く機会は多い。モーツァルトとともに、世界中の人にこれほどまで愛されている作曲家というのも、彼をおいてほかにいない(バッハやベートーヴェンは、彼らに対するどのような批判でも一種のタブーとなっているほど「崇められている」作曲家だ。もし、若い音楽家で、バッハ、ベートーヴェン、ブラームス、ブルックナー、マーラーを好きになれない人がいたとしても、決してそれを口にだしてはいけない。言ったとたんにその人は精神的に未熟だとか、不真面目だとか、勉強不足だとかいう馬鹿げたレッテルを貼られることになるだろうから)。
 何故私はこれほどまでにショパンの音楽に惹かれるのかというと、ショパンこそ、本当の意味で、ピアノという楽器のためのピアノ音楽を書くことができた、音楽史上ほぼ唯一の作曲家だと思うからだ。彼の音楽は、どんなに叙情的なものでも、実際の人間の声を連想させないし、どんなに雄壮、華麗であっても、オーケストラの響きを思い起こさせるということもない。それはどこまでも、ピアノというひとつの楽器から人間の手で紡がれる器楽的な歌であり、ピアノから生まれる豊潤な音の戯れであり続ける。
 彼の作品のほとんどは、広範囲に渡る左手の波打つ伴奏、或いは密集を避けた和音の上に、右手が高音域で朗々と旋律を歌い上げるという、手に自然且つピアノがもっとも美しく響くスタイルを基本として書かれている。そのため、どこを切り取っても、耳障りな響きをたてることはなく、「鍵盤と両手が完全にコーディネートされた」(ワイセンベルク)ピアニスティックな書法となっているのだ。必要な音域にしっかりと音があてがわれ、和音の配置も含め、すべての音があるべき場所、もっとも手になじむ場所、もっとも美しく響く場所に置かれるため、聴覚的にも、両手の弾き心地にも、これ以上ない満足感を与えてくれる。つまり「追加したり、削除したりするものは何もないのである」(ラフマニノフ)。(ショパン自身や著名な演奏家たちによる様々な異稿が存在するのも事実だが、それらは作品の響きや書法の別の可能性を示すためのものであって、楽譜に書かれた作品の音楽的完成度をより高めることを目的としたものではない)。
 彼の作品は、何か不具合が起こればすぐにそれとわかる、一切のごまかしが通用しない音楽であって、まさにピアニストの実力が如実に表れる作品といえるだろう。偉大なピアニストたちは皆、それぞれに個性際立つショパン演奏を残し、彼らのピアニストとしての天才的な実力を証明することに成功している。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?