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ショパン「ソナタ変ロ短調作品35」考 Part1

はじめに
 すべての偉大なピアニストたちがレパートリーとし、ほとんど弾き古されているともいえるこのロマン的なソナタについて、今更何を言っても、すでに語られていることの繰り返しにすぎないような気もしないではないのだが、とにかく、あらゆる人を魅了してやまないこの傑作について、私自身が感じていることを、率直に語ることが、多少なりとも、意義のあることなのではないかと思い、筆をとってみる。

1・需要と歴史的ピアニストたちによる演奏史
 プロ、アマを問わず、一体どれほどのピアニストたちがこの曲を演奏し、その謎に満ちたドラマに身を投じてきたことだろう。ショパン自身は、もちろんこのソナタを公的なコンサートの場で演奏したことは一度もなかったが(彼が生涯で出演したコンサートの数は30程しかなく、当時の習慣として、ソナタのような大作を全楽章演奏するようなことは稀であった)、ただ一度、晩年のイギリス滞在時におけるある貴族のサロン・コンサートで全曲演奏したことが知られている。一つの印象的なエピソードが生まれたのはこの時だ―彼はスケルツォ楽章を弾き終えると、突然その場を立ち去り、しばらくしてピアノに戻ると、何事もなかったかのように残りの楽章を弾き終えた。その不可解な行動の理由を、彼自身がジョルジュ・サンドの娘ソランジュに宛てた手紙の中で、「スケルツォを弾いているとき、ピアノの蓋の中からかつてヴァルデモーザの修道院で見た悪魔がこちらを覗いているのに気が付いたため、心を落ち着かせる必要があったのだ」と説明している。生来の虚弱体質故に、ピアノから十分な力強さを引き出せなかったといわれる優雅なショパンが、この男性的でデモーニッシュなソナタをどのように演奏したのか、興味は尽きない(特にこの晩年のイギリス滞在時は、体力の衰えが著しかったためなおさらだ)。
 ショパンの演奏を何度も聴き、後にパリ音楽院ピアノ科でビゼー、プランテ、ドビュッシーらを指導したアントワーヌ・マルモンテルの名著「著名なピアニストたち」には、1860年頃、フランツ・リストがフランス皇帝の御前で、このソナタから「葬送行進曲」を演奏した時の様子が記されている。
「ある内輪の夜会のためにチュイリュリー宮殿に招待されたリストは、皇后に、彼女のお気に入りの曲、ショパンの葬送行進曲を演奏するよう請われた。この大ヴィルトゥオーソは、たいへん深い詩的感情、悲痛でたいへん真実味ある、心に伝わりやすい表現力でもってこの作品を演奏したので、聴衆は演奏に感動して涙さえ流した。姉のアルバ公爵夫人を亡くしたばかりの皇后は、たいへん強く心を揺さぶられ、感激しながらリストに礼を述べた。皇帝もまた、この芸術家に好意を示して、美術大臣に、既に得た階位よりもいっそう高い階位の称号を授けるよう仰せ付けたのだった」(上田泰史 訳)
 偉大なロシアのヴィルトゥオーゾ、アントン・ルビンシテインもまた、このソナタの忘れ得ぬ解釈を示したひとりであった。19世紀の著名な批評家であるエドゥアール・ハンスリックが指摘しているように、彼は第1楽章を「猛烈な勢いで」演奏することで「情熱的な憂鬱の雰囲気を与え」、葬送行進曲では、「トリオの手前まで強大なクレッシェンドが続き(トリオで一旦静寂になった後、フォルティッシモで行進曲の再現を始め)、徐々に終わりに向かってデクレッシェンドしていく」という革新的な解釈をみせ、フィナーレでは、「驚異的なプレスティッシモ」と、後にラフマニノフが語った「言葉では説明し得ぬペダル効果」によって、聴衆を幻惑した。ショパンが楽譜に記したニュアンスをまったく度外視した、この葬送行進曲における「再創造」ともいうべき革命的な解釈は、後に同郷のラフマニノフやギンズブルグも従ったアントン・ルビンシテイン創始の偉大な伝統とされているが、1903年に録音されたフランスの大ピアニスト、ラウル・プーニョによる演奏からも同様の解釈を確認することができる。プーニョがルビンシテインの演奏を聴き、それに従ったとも考えられるが、プーニョのパリ音楽院でのピアノの師がショパンの有名な弟子ジョルジュ・マティアスであることを考えると、マティアスを通して伝えられたショパン自身の考えであったという可能性も否定できない。もしこの二つの可能性がどちらも真実で、ルビンシテインにショパンの弟子たちとの接点がなかったとしたら、偉大な二人の天才(ショパンとルビンシテイン)が、楽譜の向こう側に、共通する別のヴィジョンをみていたということになる。なんとも胸のわくわくするような話ではないか。
 ルビンシテインの精力的なショパン演奏は、パリのショパンの弟子や友人たちから成るグループからは称賛されなかった。「ショパンのソナタ変ロ短調のルビンシテインの解釈を記憶している人々は、あの度はずれにやかましい演奏と、マーチの速いテンポを非難した。アントン・ルビンシテインという人物は、おそらくお葬式では、ほかの人よりももっときびきびと歩くのが常だったのだろう」(ホルクマン「ショパンの遺産」)。
 ショパンと親交があり、その演奏を何度も聴いたチャールズ・ハレは、ルビンシテインを聴いて「賢いが、ショパン的でない」と評した。ルビンシテインは、19世紀から20世紀初めまで息づいていた、ショパン演奏の「悪しき伝統」(作曲家の病弱であったことを理由に、決して大きな音をたてず、青白く、繊細に弾くべしとする考え)に立ち向かい、ショパン作品の本質(シューマンのいう「花々の下に隠された大砲」)に迫ったのであった。
 この偉大なロシア人がモスクワとサンクトペテルブルグで開いた有名な歴史コンサートシリーズ(バロックから現代までのあらゆるピアノ作品を網羅した、膨大な量のプログラムから成っていた)を少年時代に聴き、そのショパン観に感銘を受け、生涯その音を心に留め、変ロ短調ソナタの記念碑的録音を遺したのが、セルゲイ・ラフマニノフであった。ショパンの演奏法について、彼はアメリカでのあるインタビューでその思い出を語っている。
「これは私たちがロシアで学んだ演奏法です。ルビンシテインはサンクトペテルブルクとモスクワで有名な音楽史コンサートを開きました。私はそれを聴くことができて本当に幸運でした。彼は舞台の前に歩み出て一言「ショパンの音はすべて純金です。しっかり聴くように!」と言いました。 それから演奏が始まり、私たちは耳を傾けたのです」。
 また1932年のインタビューで、彼はショパン演奏とルビンシテインの影響についてこう述べている。
「ショパンに関しては最近、特定の音楽家の間で私が観察したある傾向があります。彼らはショパンの手紙と彼の同時代人の証言を引き合いに出し、彼にはほとんど力がなく、そのためすべてをメッザ・ヴォーチェで繊細に、決してフォルティッシモをだすことなく演奏したと主張しました。従って、彼の作品はすべて控えめな方法で、繊細さをもって、決して頑強さを伴わずに演奏する必要があると述べています。この意見に私は賛同しません。私はショパンの音楽をこのように理解することはできません。私の背後、そしてより広いスタイル、ショパンを“grand manner”で演奏するすべてのアーティストの後ろには、アントン・ルビンシテインが立っています。彼はあらゆるスタイルで演奏することができ、望めば控えめなやり方でショパンを演奏することもできたでしょう。しかし彼はそうはしませんでした。当時彼のような偉大なアーティストの演奏を録音して保存する技術がなかったとは、なんと残念なことでしょう」。
 早くも1891年、ラフマニノフはモスクワ音楽院ピアノ科の最終試験で、変ロ短調ソナタの第1楽章を弾いている(不思議なことに、1918年、ロシア出国後の最初のコンサート・シーズンのプログラムに含めたのは、「ロ短調ソナタ」のほうであった。「変ロ短調」がプログラムに登場するのは、4年後の1922年からである)。彼がこのソナタを録音する3日前、1930年2月15日に行われたカーネギー・ホール・リサイタルの有名な批評の中で、「ザ・サン紙」の批評家W.J.ヘンダーソンは次のように書いた。
「彼は作曲家であるばかりではなく、本物のピアニストである—コンポーザー・ピアニストではなく。この日の三つめの曲目はショパンの変ロ短調のソナタだった。この傑出した名人は、この曲を全く独自のやり方で演奏した。彼は月並みな表現や、流行の感覚をいっさい投げ捨て、作曲者の指示を変更さえした。ここに示されたのはラフマニノフによる原作の翻訳で、独自の驚くべき所見だった。この変ロ短調ソナタの解釈は—葬送行進曲さえも違った弾き方だった—、権威ある論証に裏付けられ、聴き手に議論の余地を与えなかった。その論理はつけ入る隙がなく、計画はゆるぎないもので、解釈は有無を言わせなかった。われわれはラフマニノフと同じ時代を生き、彼の神々しいまでの天賦の才能がこの名作を再創造するのを聴くことができるという星のめぐり合わせに、ただただ感謝するばかりだ。それは天才が天才を理解した一日だった。このような力が働いている場には、滅多に立ち会うことはできない。そして忘れてならないのは、そこに偶像破壊者の関与はなかったということだ。ショパンはショパンのままだったのである」。
 ラフマニノフによるこのソナタの録音を聴く現代の我々もまた、このヘンダーソンの批評に書かれていることと全く同じ想いを抱くであろう。これはまさに「再創造芸術」の最高峰ともいうべき演奏だ。たとえ作曲家の精神から逸脱していようと、また、聴き手の個人的な感じ方と異なっていようと、それは(ゲンリヒ・ネイガウスの言葉を借りれば)「彼にはそれが許されている」と感じさせる圧倒的な個性と、作品のもつ偉大な精神とが高次元で結びついた、有無を言わせぬ演奏芸術の奇跡である。再創造行為のひとつの到達点といえるだろう。彼は、1943年2月17日、ノックスヴィルでの生涯最後となるリサイタルでもこのソナタを演奏した。これはピアニストとしてのラフマニノフのトレードマークともいうべき作品だったのだ。
 彼にとってショパンは、最も完璧で偉大な、尊敬すべき作曲家だった。
「ショパン! 私は19歳の時から今に至るまで、彼の偉大さを感じ驚嘆し続けています。彼は今日の多くの現代人よりも現代的です。彼が今なおモダンであり続けているとは信じ難いことです。彼の天才は、今日のよりモダンなスタイルの作曲家とは比較にならぬほど途方もないものであり、私にとってはあらゆる巨人の中で最も偉大な一人なのです。年間を通して演奏活動をしているにもかかわらず、その純粋な喜びのためだけに、私は自宅でもショパンを演奏し続けています。彼の作品における完璧に成形されたパッセージに指を走らせることには喜びがあります。すべての音符は、最高の効果を生み出すためにそれが属すべき場所にあり、場違いなことはありません。追加したり削除したりするものは何もないのです」。
 ラフマニノフは1930年代のインタビューのなかで、現代のピアニストの誰一人として、偉大なルビンシテインの境地に近づいている者はいないと嘆いているが、ルビンシテインの演奏を聴くことができない我々の時代のピアニストたちもまた、ルビンシテインの精神が色濃く反映された、このラフマニノフのかけがえのない遺産を聴き(技巧的な完成度においては、ラフマニノフのほうがより優れていることは確かだ)、譜面の奥にある精神を自身の個性と結びつける「再創造芸術」について深く研究し、その境地に近づけるよう努力しなければならない。ただ譜面のうえを漂っているだけの、なんの主張もない平凡な演奏では意味がないのだ。

 フランスのアルフレッド・コルトーも、ショパンのソナタに名演を残したひとりであるが、公表されているディスコグラフィーを見るだけでも、録音回数は、変ロ短調が5回、ロ短調が2回となっており、彼が前者のほうを得意とし愛奏していたことは、ほぼ間違いないように思われる(戦後、ウィーンにおけるリサイタルで、1曲目のヘ短調幻想曲ではぼろぼろだったコルトーが、休憩後の変ロ短調ソナタになると、まるで生まれ変わったかのように素晴らしい演奏を繰り広げ聴衆を魅了したと、ピアニストのパウル・バドゥラ=スコダは回想している)。
 例によって、コルトーは各楽章を詩的な言葉で形容している。即ち、第1楽章は「絶望的な運命に対する悲劇的戦いの感情の反抗と哀願を表し」、第2楽章は「深い闇の中に渦巻く神秘的な荒々しい力の動きを連想させ」、第3楽章は「人間のあらゆる苦悩のエコーが含まれているかのように思える葬送行進曲の荘厳な高まりを表現し」、「幻覚を起こさせるような終楽章のさすようなざわめきの中では、死の風と墓の上の風の凍てつくような渦巻を思い起こさせうる」。彼の演奏はフランス的な明るさ、軽妙さに、ドイツ的な力強さが加わったもので、若いころの録音では特にその華やかさが顕著であるように思われる。

 ショパンの祖国ポーランド出身のピアニストでは、イグナツィ・ヤン・パデレフスキ、ヨーゼフ・ホフマン、イグナツ・フリードマン、アルトゥール・ルービンシュタインらが、このソナタの名演を残した。しかし、パデレフスキとフリードマンの録音は「葬送行進曲」と「フィナーレ」のみで、全曲録音されなかったことがつくづく悔やまれる。パデレフスキの弾く葬送行進曲は、淡々と進む行進曲とたっぷり歌われるトリオとの対照が鮮やかで、行進曲の再現で追加される低いバス音は、遠くから鳴り響く地鳴りのような効果をあげている。フィナーレにおける最後の低音変ロの衝撃は、後のホロヴィッツにも匹敵するほどの劇的効果がある。

 フリードマンによる葬送行進曲は、デュナーミクの見事なコントラストが印象的だ。適時バスの音が追加され、低音の効果を最大限活かしている。フィナーレの演奏には、絶妙な緩急の匙加減、一瞬の濁りもない明晰さがあり、シューマンがこのフィナーレを評して言った「一種独特な精神の香気」が漂う。フレーズの始まりや区切りとなる音を引き延ばし、束の間、流れに停滞を生み出すことで、猛烈なプレストの勢い、推進力がより強調される。その見事なコントロールと自然さ。フリードマンはルービンシュタインとともに出演したショパン生誕100周年の記念演奏会で、彼が「変ロ短調」、ルービンシュタインが「ロ短調」と、ソナタの演奏を分かち合ったらしいが、彼の膨大な全リサイタルプログラムを眺めると、どうやら「ロ短調」を取り上げた回数のほうが多いようだ(ウィーンでのデビュー・リサイタルでも取り上げている)。

 ジョルジュ・シャンドールとルース・スレンチェンスカは、それぞれのインタビューの中で、彼らが実際に演奏会で聴いたホフマンの弾く「葬送ソナタ」を絶賛している。シャンドールによると、ホフマンは第一楽章の繰り返しを、最初と全く違うやり方で演奏し、どちらも見事だったという。ホフマンによるこのソナタの演奏がピアノ・ロールでしか残されなかったことは残念としか言いようがない。もちろんそこには素晴らしい瞬間やアイディアがあることも確かだが(特に第1楽章展開部や終楽章)、ピアノ・ロールにありがちな不揃いな音の粒、生気のない和音のアタック、響きの貧しさ、パッセージの歯切れの悪さなどは、とても全盛期のホフマンの演奏を忠実に再現しているとは思われない。(このロールは、ホフマンがアルコール中毒によって演奏に破綻をきたすようになるずっと前、全盛期真っ只中の1919年から1920年代のいずれかで記録されたものだ)。魅力的な和音のアルペジオ化、内声の強調、第一楽章展開部での興味深いデュナーミクのコントラスト、フィナーレの見事な張りとペダル効果など、シャンドールらを魅了したその至芸を味わうには、このピアノ・ロールに聴かれるわずかな特色から想像を膨らませるしかない。黄金時代におけるモダニストの筆頭ともいえるこのルビンシテインの弟子は、葬送行進曲を師と同じやり方で演奏することを避けているほか、リピートを厳守(第2楽章のトリオを除く。その代わりスケルツォの前半を繰り返しているが、そういう版があるのだろうか?)し、第1楽章最後の下行するバスの変ロ音を、多くのピアニストのように1オクターヴ低くとらず楽譜通りの音で弾き、葬送行進曲の再現でもバスにオクターヴ低い音を加えたりはしない。もちろんフィナーレの最後でも低い変ロ音を足してはいない。
 一方、テスト録音という形で幸運にも残された、「ロ短調ソナタ」の第1楽章の演奏は、かのラフマニノフに、自分のレパートリーからこの曲を外したほうがよさそうだと言わしめたのも、おもわず納得してしまうほどの圧倒的名演だ。初めから終わりまで、これ以上ないほどの自然な流れとテクニックに支えられおり、彼が全楽章録音していれば、ラフマニノフの「変ロ短調ソナタ」の録音と並ぶ、ショパンのソナタ録音史に輝く金字塔となっていたであろう。

 エチュードを除くほぼすべてのショパン作品を録音したアルトゥール・ルービンシュタインもまた、コルトーと同じく両ソナタでは「変ロ短調」のほうを得意としていたと思われる。録音点数もリサイタルに取り上げた回数も「変ロ短調」が多いはずだ。特にライブにおける演奏で、彼はこのソナタの奥底に秘められた反抗的精神を炙り出すような情熱(彼のいつもの演奏にみられる健康的で明るい熱気とは異なる)をこめて弾き、聴くものを圧倒する。64年のモスクワ・ライヴはその頂点であろう。彼はいつも冒頭のGraveの序奏を短く切り上げる。興奮は始めから最高潮に達しているかのようだ。

 ウラディミール・ホロヴィッツも生涯にわたって「変ロ短調ソナタ」を演奏し続け、素晴らしい名演を残した。彼のみが楽器から引き出すことのできた、轟く低音の凄まじさを聴けば、聴き手は地獄の深淵を垣間見たような気分になるだろう。彼は第1楽章で驚くほど遅いテンポを採用するが、緊張感、ブラヴーラは少しも失われていない。おそらく第2主題にショパンがさりげなくsostenutoとしか書いていないことに注目し、あからさまなテンポの変化を避けるためにそうしたのだろう。フィナーレに横溢する、背筋の凍るような不気味な雰囲気、妖しさ、不安と恐怖の感情は、ほかに類を見ない。それはまるで、地獄に引きずり落した男の墓の上を、嘲笑しながら旋回する死神の様を表しているかのようだ。彼が生み出す最後の低音変ロの一撃ほど衝撃的な音を、ほかに聴くことはできないだろう。そこにはコルトーが言うように「いかなるラレンタンドもなく」、嘲りに飽きた死神が、地獄へ引きずり落す次の獲物を探しにふっと飛び立つような、不意に訪れる衝撃、恐怖を与える。前の部分との、音色、強弱、緩急すべてにおける、素朴でありながら見事なコントラストによって生み出された、素晴らしい音楽的効果のお手本といえるだろう。

 すべての演奏を挙げるときりがない。このソナタは1925年、ベルギーのアルトゥール・デ・グレーフによる世界初の全曲録音以来、数え切れぬほど録音されてきたのだから(葬送行進曲は、単独でそれ以前にも録音されている。ラウル・プーニョ(1903)、ウラディミール・ド・パハマン(1912)、アルトゥール・フリードハイム(1912/1913)など)。

 フランスのロベール・ロルタの数少ないディスコグラフィーにもこのソナタは含まれている。稀にみる快速なテンポで走り抜け、全体の演奏時間はなんと16分台だ。しかし洗練された技巧と精力的なスタイルによって、決して軽々しい演奏とはなっていない。

 「ロ短調ソナタ」を1925年に世界で初めて全曲録音したパーシー・グレインジャーは3年後の1928年に、ようやく「変ロ短調ソナタ」を録音した。細部まで丁寧に弾かれた端正な演奏だが、彼特有の活力は失われず、洗練された技巧と美しく澄んだ音が印象的だ。グレインジャーは「ロ短調ソナタ」の方を愛し、音楽史における最高のソナタ作品にこの曲を挙げている。

 レオポルト・ゴドフスキの1930年の録音は、この当時としては珍しく、第1楽章提示部の反復を行っている(40年代までの初期の録音で、彼同様に繰り返しを行っているのは、デ・グレーフとホロヴィッツくらいであろうか)。また彼は、葬送行進曲のトリオで、興味深いバスの改変を行っている。彼自身はこの録音に不満をもっていたようだが、その美音は魅力的である。

 ゲンリヒ・ネイガウスのレパートリーには両ソナタとも含まれていたが、彼にとって、すべての音楽作品の中での最高の理想は「ロ短調ソナタ」の方であった。この1949年のライヴ録音には、珍しく葬送行進曲の後に拍手が起こっている。

 エミール・ギレリスは、後年「ロ短調ソナタ」をレパートリーに加わえるまでは、いたるところで「変ロ短調ソナタ」を演奏していた(1938年のブリュッセルのコンクールでも、1次予選で弾いている)。彼のこのソナタの演奏は不自然さのかけらもない、ひたすら作品に奉仕するようなものである。彼はいつでも、私利私欲を排した敬虔な姿勢で作品と向き合い、自らの偉大な才能と個性を、自身をひけらかすためではなく、ただ作品の音楽的効果を高めるためにのみ捧げ、その飾らない自然な演奏は、結果的に作品そのものの偉大さを浮き彫りにする。

 アルトゥーロ・ベネデッティ=ミケランジェリは、このソナタにエレガントで気品あふれる雰囲気を与えた。彼の独特のアゴーギクは常に洗練された印象を与え、その完璧に組み立てられた揺るぎない構成は、聴く者に反論の余地を与えない。磨き抜かれた美音と微動だにしない構成は、時として聴き手に身の毛もよだつほどの戦慄を覚えさせる。

 サンソン・フランソワもこのソナタを十八番とし、コルトーに似て、調子の悪い時でも(彼には珍しいことではなかった)この曲になると途端に天才を発揮してしまうほどであった。彼の独特の崩し方や歌いまわしは、音楽がたった今、その指の下から生まれたかのような錯覚を起こさせるほど、即興的かつ完璧に堂に入ったものであった。

 ヴィルヘルム・バックハウスの堅固な演奏。細部に拘らずザクザクと進んでいく無骨な感じは、このソナタの演奏史に異彩を放っている。淡々と、あらゆる感傷を取り払って奏される行進曲のトリオには新鮮な感動がある。作品の生身の姿を提示しているかのようだ。

 グレゴリー・ギンズブルグやゲザ・アンダ、ヴィトルド・マルクジンスキの白熱したライブ録音、ヴァン・クライバーンの輝かしい演奏なども忘れ難い。
 ウラディミール・ソフロニツキーはこのソナタをレパートリーとしていたのだろうか(彼には「ロ短調ソナタ」のライブ録音が終楽章なしという形で残ってはいるが)。彼のもつ聴く者の心臓に突き刺さるような悲劇的ピアニズムは、まさにこの曲にこそふさわしいもののように思える。録音を残していたら、ラフマニノフやホロヴィッツ、ギレリスのそれと並ぶ、ロシア・ピアニズム最高の遺産のひとつとなっていただろう。「変ロ短調ソナタ」の録音がないピアニストについてほかにも記せば、フェルッチョ・ブゾーニはその巨大なスタイルで圧倒的な演奏を聴かせたであろうし(彼は葬送行進曲をルビンシテイン流に弾いた)、ベンノ・モイセイヴィッチの切れ味抜群のテクニックと抒情性で弾かれたこのソナタも、ぜひとも聴いてみたかった。ホロヴィッツがそのフィナーレの演奏を絶賛したアルトゥール・シュナーベル、貴族的なオシップ・ガブリロヴィッチ、奔放なマーク・ハンブルグ、完全無欠のピアニズムを誇るヨーゼフ・レヴィーンなど、失われた名演奏はあまりにも多い。

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