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春に酔う

 これは、初老の男が、春の満月の日に一人で酒を飲むだけの話である。

 月に一度来る満月の夜には、必ず酒を飲むと決めている。春の月は特別だ。
 夜。春の花たちの間に男は座り、深呼吸をして、春の陽気を肺へ、体の隅々にまで送り込んだ。ふぅと吐く息に、冬の間に溜まっていた寂しさを乗せて、体の外へと解き放つ。自由となった想いは春風に溶けて、前向きな想いに変わるだろう。
 心を整え終わった男は、さあ酒だ!酒!と揚々として酒を杯に注ぎ始める。とくとくと音を立てて杯の中は満たされる。それを見て、男も満面の笑みである。男は酒で満たされた杯を満月へと掲げた。乾杯の合図に代わり、男はある詩を諳んじた。

 花間一壷の酒
 独酌相親しむ無し

酒好きだった故人に、青白く光る満月に、想いを馳せながら、男は詩を諳んじ終えると、静かに酒を飲み始めた。

 人と一緒に飲む酒は美味い。酒の肴を持ち寄って楽しい話に花を咲かす。とても良い時間を過ごすことができるだろう。しかし、一人で飲む酒は美味いだろうか。それはこの男が証明してくれるであろう。

 飲み始めからしばらくして、男は口を開いた。
「月よ、月よ、もう少し近くに」男は月に語りかける。
「月よ、どうしてお前は酒が飲めないのか。お前は杯の中に入り込むが、それで飲んだと言えるのか。月よ、白い面を色明るくさせねば、次の月に元気に会えぬではないか。おっと、毎月会っているのに我が素性を知らぬかと申すか、こりゃ失敬」
 月はぼんやりと光っている。その光は男を照らし、地に影を落とした。次に男は自身の影に語りかける。
「おっと、こんな所に居たのか、我が友よ。君には毎日会っているような気がするが、なかなか見つくる暇がない。それよりも君よ、君は私の真似をするばかり。それどころか無口だ。無理にとは言わないが、何か面白いことを話しておくれ。たまには君から話を聞きたい。それと、満月の夜にはいつも、私の話を聞いてくれていることに感謝しよう」
 影はぼんやりとして、永く黙ったままである。この男のしたことを幸せそうだと思うか。それとも愚かだと思うか。その判断は読者に任せよう。

 春の宵花間に滲む三つ影と
 祝い酒満つ紅の杯

 酔い気味のいいことに、男は歌を詠んだ。

 野の花よ夜風が誘う春宴
 酒を片手にいざと参らむ

 夜が深まっていく。月が西の空に傾きつつある頃、持ってきた酒が切れたので、宴はお開きとなった。
 男は月の明かりを頼りに帰路へ着いた。その途中だった。揚羽蝶がひらひらと道を横切ったのである。男はそれを見て大変に喜んだ。こんな夜中に蝶が飛ぶとは。きっと先の宴を見ていた天女が差し向けたに違いない。良いものを見た。この後もきっと良いことがあるだろう。そう思いつ、ふと月のほうを見た。青白く輝く月が微笑んでいるように見えたのは、酔いのせいだろうか。なんにせよ、今宵もとても良い宴であった。

 一人で酒を飲む時。その時には花を一輪飾って飲むのも良いだろう。この男は一人で飲む酒を、月と影と共に飲んだのである。花と飲んでも楽しいだろう。その時は、花に語りかけるのが良い。もしかしたら、その花から楽しい話が聞けるかもしれない。
 春はまだ始まったばかりである。

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