母親になることについて、31歳独身が考えていることを赤裸々にお伝えします。

とても自信がない。今感じていることを言葉に切り出せるのか、とても自信がない。でも、今書いた方がいい気がするので、書いてみる。

今年、31歳になりました。人生で迎えた誕生日で初めて、とても憂鬱でした。去年までは、口では色々言いながらも心のうちはやっぱりちょっとうきうきしてました。でも今年は、本当に、嫌だと思ったのです。

その理由を、これからつらつらと書いていこうと思います。男性の方や、すでに子供を持つ女性には、共感されなかったり、それ以上に不快な思いをさせてしまうかもしれないこと、冒頭ではありますがご了承いただけますと幸いです。

書こう。

6年前に書いたブログがあります。当時、25歳でした。

ここでわたしは、20代のうちに授かりたいと言っています。本当にそう思っていました。結婚それ自体に興味はそこまでなかったけれど、出産は絶対したいと思っていました。

なぜなら、人生において、自分が他者(人じゃなくても良い)に対して抱く愛の総量を増やせるだけ増やしたいと思っていたからです。これは今でも変わらないですけど。だから、母から子への愛は人類として最大のはずで、それを経験せずに死ぬなんて有り得ないと思っていたのです。

でも、もう20代も過ぎ去ってしまいました。明らかに、高齢出産年齢が目の前に迫ってきました。あと、たったの4年です。

しかし今、立ち止まって考えていることがあります。それは、わたしは本当に子供が欲しいのだろうか、出産を経て、誰かの母親になりたいのだろうか、ということです。

生理的欲求以外の欲求の確からしさというのは、計りかねる難しいことだと思います。わたしがずっと抱いていた「出産したい」という気持ちは、本当はどこから来ていたのだろう。女という性別でこの世に生まれてきたのだから、それが当たり前だと思っていただけではないのだろうか。女たるもの、出産してなんぼ、とでもどこかで感じていたのではないだろうか。わたしが生きる環境のさまざまな場面で、母親になりたいと社会に思わされてきたのではないだろうか。はたまた、コロナ禍以降全然彼氏ができないことの言い訳にしているのではないだろうか。

考えても考えても、分からないのです。決まらないのです。わたしは子供が欲しいのか、欲しくないのか、ということが、決まらないのです。

決まらないまま、31歳になってしまったのです。

年齢なんてただの数字、とか言ってくる人が嫌いです。そんな訳ありません。現代の人は若いだとか、心が若々しくあればいいんだとか、そんなこと口が裂けても言わないでください。確実に、卵子は老います。わたしの体も、老います。これは止められない、たしかな事実じゃないですか。40歳で初産をした人だっているじゃんとか、そういうのもほんといらないです。全部、確率論でしかないんですから。

じゃあ卵子凍結でもすれば、って思いましたよね。もちろん素晴らしい選択肢です。わたしが何がなんでも絶対に子供が欲しいと思っているのであれば、やるべきだと思います。

でも、わたしは今、結婚相談所の門を叩くなんて頭にないことはもちろん、マッチングアプリすらやっていません。絶対に子供を授かりたいのであれば、確実に取るべき行動です。というか、遅すぎます。もう30代なのですから、本気でそう思うなら、いち早く卵子凍結をして、出会いを死ぬほど増やす、そうするべきなのです。

どちらかに決めさえすれば、取るべき行動を取るだけなのに、決まらないので動けないのです。どっちつかずで行動するには、精神がすり減るし、リスクも大きいです。結婚出産をしたいテイで婚活をするなんて、わたしにはできないです。かといって、どっちにしたいか分からない、なんて言ってる31歳と結ばれたいと思う男性がいるとは思えません(まあ色んな人がいますからね、もしかしたらいるのかもしれないですけど)。

こんな風に切羽詰まって考えるようになったのは、わたしが31歳になったからだけではありません。もし、今、子供を産むことになったらどうなるのだろうと、リアルに考えるきっかけもありました。だから余計に、考え込んで、塞ぎ込んでいるのです。もう少し、うだうだ言わせてください。

上記のきっかけがあり、少し、情報を摂取しました。

まず一つ目がこちらです。

医学部に9浪した娘が、就職目前で母親を殺害した2018年の事件について、当人が刑務所にいながら記者と共同で書き上げた本です。小説だったらよかったのに、と思いました。

そして二つ目。

出生率3.0、女は子供を産むのが当たり前のイスラエルにおいて、実際に母親になったけれどそのことを後悔している、と打ち明ける数名の女性のインタビュー本です。感情が重たくて、ページを捲る手が全然進まなかったです。

それからさっき『母性』も観たりしましたが、やっぱり『母親になって後悔してる』が、わたしにとって感じるものがありました。

この本では、「後悔」という言葉の意味(宗教的な意味も)の説明から始まり、さまざまな角度の質問に対して、三者三様の状況に置かれている子を持つ女性たちが回答しています。

色々な言葉をここで引用したいのですが、改めて本を手に取って開くことすら気が重いので、一つだけ明確に覚えていることを書きます。

それは、「子供のことは愛している、ただ、母親になりたくなかった。」という旨の言葉です。獲得してしまった「母親」というアイデンティティが一生自分に付き纏う、というのです。それが不自由なんだそうです。

なんだそうです、なんて語尾で書いていますが、正直なところ、そうだろうな、と思ってしまいました。わたしも多分、そう思ってしまうんだろうな、と思ってしまった。

すみません、もう少し説明します。

諸悪の根源は、風潮なんだろうなと思います。母親たるものほにゃらら、みたいなやつです。子を愛して当然、子を最優先にするのが当然、みたいなやつです。広末涼子の不倫でも「こんな母親を持った子供が可哀想」なんて意見も散見されましたけど、そういうことです。社会が作り上げた母親像が、理想像すぎるのです。文字通り「理想」なのではなく、実際にはそれが標準値のように認識されてしまっているのです。だから、不自由なのです。子を産んでしまったら、子供が巣立とうが、もしくは養子に出そうが、どうなろうがその呪縛から逃れられない、というわけです。

そんなの、勝手な思い込みだ、という意見もあると思いますし、結局はそうなんだろうと思います。思います、思いますけど、でも、本当に気の持ちようでどうにかなるようなことなのだろうか、と思ったりもします。

起業して失敗したとしたら、会社を潰せばいい。何かやってみてうまくいかなかったとしても、引き返せます。またゼロに戻ることができます。むしろ経験値だけがいい感じに溜まっているなんてこともあるんだろうなと思うわけです。

でも、出産はどうなんでしょう。ちょっと試してみるなんてこともできなければ、やっぱり、引き返せないと思うんです。
もうそんなに迷っているなら、子を持つ選択をしてみれば、という意見もたくさんあるんだろうなと思うんですが、ちょっと起業してみたり、転職してみるのとは、やっぱり訳が違うと思うんですよね。

わたしは仕事が大好きですし、小さい頃から自由に憧れてきました。誰にどんな些細なことですら指図されたくないですし、自分の納得のいかないお金の使い方は100円でもしたくないですし、他人に何かを決められることが心底嫌いです。
今は、大好きな仕事をして、好きな時間に好きなものを食べて、好きな音楽を聴いて、好きな人と夜中まで遊んで、好きな国に行って、好きに、とにかく好きに生きてるんです。正直、最高です。誰にも何にも縛られずに生きることが、かなり心地よいです。

だったらそのまま独身でいいじゃんって、思いますよね。わたしも思うんです。でも、今この選択をすることが、これから先も長く続いていくであろう人生にとって最善か分からないんです。分からないまま、卵子も老いていくし、女としてのレベルも下がっていくんだろうな、と思うと怖いのです。ほんと泣きそうです。辛いです。

いっそのこと、わたしとの子供が欲しいと懇願してくるようなやつがいたりだとか、なんか知らんけど子供を授かってしまった、なんてことが起きてくれたりだとか、もしくは、こんなことを考え込んでしまうほど暇のない忙しい状況だったらよかったなとさえ思います。将来振り返ったときに、でもあの時はそんな余裕がなかったから仕方ないか、と思えた方が楽だと思います。

色んな角度からの情報を摂取して、このわたしの気持ちに終止符を打つことを期待していたのに、結局何も変わらなくて絶望しているんですけど、ただ、ただ、一つ言えるのは、選択肢のある現代に生きられていてマシだったな、ということです。どの選択をしようと、後ろ指刺されるほどの時代ではなくなってきていると感じられているからです。それだけは、良かったです。

結局、どうして子供が欲しいのかも分からなければ、どうして母親になりたくないのかも分からないんです。こういうのって、理由なんてそもそもないんですかね。

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のんにゃん
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