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おいしいはつくれる 2

ヤングコーンは焼くか、漬けるか
夏場ならピクルスとして漬けることのほうが多いかもしれない
暑い日が続く中、食卓でつまむ酸味と甘味は体をすっきりとさせてくれる
それにヤングコーンの口の中でプチプチとほどける食感はとてもおもしろい
これがあのとうもろこしの子どもの頃かと思うと、不思議でならない
子どもでもうまい、大人になってもうまい
どんだけ優秀なんだ

料理にうまいまずいがあるように、演技にも上手い下手はある
ただ演技の場合、あつかう素材が人間そのものなのでとても複雑だ
演出家はパワハラやセクハラに気をつかって言いたいように言えないこともあるし、役者はたいてい人から上手いと思ってもらいたいので、下手だと言われるのがきらいだ
ニンジンやゴボウは人間みたいに言い返さないけれど、どう料理したかを味そのもので如実に表現する
もし彼らが人と同じように考えてしゃべるとしたら、台所はもう大変だ
やれ見た目がよくないだの、切れ味がわるいだの、芯まで火が通っていないだの、まずいと伝えたら落ちこんで土に帰ってしまうかもしれないし、煮詰まればお互いに気まずい沈黙を過ごさなければならない
申し訳ないけど、食材はしゃべらないでほしい
面倒なのは人間同士だけで充分だ

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もちろんヤングコーンは焼いてもうまい
薄皮を残したままグリルであぶる
焼くことでホクホクとした甘味と、採れたてならではのみずみずしさが爆発的にうまい
旬を味わうだいご味ってやつだ
そのままでもいけるが、マヨネーズを忘れてはいけない
こってりとした旨味の油分が、ヤングコーンの潜在的うまさをさらに引き出してくれる

若い人の力をどう引き出すか
自分もそろそろそういうことを考える割合を増やしてもいいと思うので、年相応に考えてみる
ぼくの過去の場合、年上の、先輩方からの手ほどきのほとんどは、親身になって教えてもらうほどあまり身になっていない気がする
むしろそんなときは、マネしなくてもいい反面教師としての印象がつよい
でもそれは同時に、ためになって助けられてもいるので感謝しなくてはいけない
では、ちゃんと身についたことといえば、一方的な憧れからか、もしくは、がっちりとかみ合った相手からの影響によるほうがつよいかもしれない
教える⇄教えられるの関係のままだと伝わらないものもあるのは確かなことだろう
その場合、「相手から何かを引き出す」なんて考えはおこがましい、ということになる

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ミニトマトも漬ける
これは砂糖を使ったマリネなので、デザートにもなる
ヨーグルトに入れて一緒に食べてもいい
ひとつひとつ湯むきをするので手間はかかるが、しっかり下処理してあげれば、舌触りもよく、赤い宝石のようで見た目がいい
冷蔵庫を開けるたびに、このきれいな赤い色が目に入るとなかなか気持ちがいい
そして少しずつ減っていくのがさみしい
数多く作っても味がわるくなってしまうので、その都度、食べるぶんだけ作る
食べたら減る、また作る、そして食べる
手間はかかるけれど、この食の追いかけっこに費やす時間はけっこう楽しい

創っては壊し、創っては壊し、
舞台創造は本当に儚い
でも儚いものは世の中にはたくさんあるので、舞台だけが特別なことをやっているんじゃないと自戒をこめる
ただ、思い入れのある舞台空間ほど、終わったあとはそこから立ち去り難い
後ろ髪をひかれるように何も無い空間に立ちすくんで、無言で虚空をしばらく見つめたあとは、街へくりだす
街を歩きながら、雑踏にもまれていると、だんだん変な気分になってくる
これはいったいなんだ?と、
さっきまでの穏やかな居ごこちとこのノイズだらけの喧騒の差はなんなんだ
とまどいはするけれど、その差異にまみれながら帰路につく時間はけっこう楽しい

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餃子は水餃子が好きだ
皮から作るのでもちもち感はこの上ない
中の具材もいろいろ試してみたけれど、結局ひき肉と刻んだネギだけに落ちついている
そして豆板醤を少し混ぜたたっぷりのお酢にからめていただく
醤油はつかわない
すでに中身を醤油やオイスターソースで味付けしてあるので、お酢に泳がせるくらいでちょうどいい
これはなによりもちもちの皮を楽しむ料理だ
中身は味付けしてあればなんでもいい
春雨でも、タケノコでも、チーズでもいいかもしれない
思いつかなければ、皮だけ適当な形にして茹でればワンタンだ
そのつるりとした喉ごしがたまらない
中身がなくても充分においしいのだ

中身のある人間になりなさい、と
小さいころはよく聞いた気がする
中身はあったほうがいいのだろうか
とくになくてもいいと思う
中身は空っぽでもいい
中身なんて確かめようがないのだから
人を見るときには、外見で得た印象から、ああでもないこうでもないと誤解と曲解をくり返しつつ、どうやらこういう人かもしれないという想像でひとまずくくっておいて納得をしているのが、ぼくの人格判断だ
中身は気にしていない
中身は見えないから

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角煮がきれいにできると嬉しい
いろいろ紆余曲折してきたぶん、思い通りの柔らかさに仕上がると本当に嬉しい
圧力鍋は持っていないので、だいたい3時間くらいかけてつくる
弱火でじっくりと煮込んで待つ間は、休みの日のゆっくりした時間を味わうことになる
火を使っているのでなるべく台所から離れるわけにはいかない
コンロの前に椅子を持ってきておいて、スマホでアニメか、本を読むか、ただ待って時間を過ごす
たまに落とし蓋をのぞいて、まだかまだかと様子を見る
角煮ができあがるのをただ待っている

いろいろ紆余曲折してきた身体のことを考えると、ちゃかちゃか焦ってつぎはぎしてきた体は、やっぱりちゃかちゃかした味になる
一方で、じっくりと時間をかけて向き合った体は、それなりの味わいを醸す
ゆっくりと立ち上がったり、呼吸を数えてみたり、ただぼんやりと立ち続けてみたり、
どうなるのかわからないときは、しばらく待ってみる
まだかまだかとたまに様子を見る
身体が仕上がるのをただ待っている

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見た目はピンとしないけれど、ご飯泥棒とはこいつのことだ
柔らかい春キャベツを適当な大きさに切って、厚めに刻んだベーコンと一緒に、白ワインとビネガーでひたすら煮たおす
バターを少し混ぜればコクが増すし、好みで白胡椒を散らしてもいい
和風にするなら、酒とお酢、あと醤油をほんの少しでいいかもしれない
地味な見た目とは裏腹に、延々と食べ続けられる旨味がこいつにはある
ご飯がすすんでしかたない

見た目で判断するにも、
何をもって自分の判断の基準にするか
感覚か、経験か、統計か、神の御心か
何はともあれ、「自分を信じる」ということだけはなるべく避けるようにしている
自分が信じる自分というやつは、半径が自分サイズでできた円の中だけの話で、自分にとって都合のいい選択ばかりしてきた、自分が大好きな自分だ
そんな自分が設けた歪んでいるかもわからない判断基準を信じてあてにするなんておそろしい
自分のことをまったく信じるなとは思わないが、半信半疑くらいでちょうどいいんじゃないか
じゃないと自分以外の、知らない他人のスケールが自分に入りこむ隙間がなくなってしまう
だから判断の基準なんてあるようでないのだと思う
ぶれぶれだ

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牛肉はほとんど食べないけれど、たまに、無性に肉の塊を食べたくなる時がある
よっぽど腹が空いたときでないとそうならないが、とにかく食べたくなる時は一切合切肉のことしか考えられない
そういう時は肉を求めるせいか、顔つきがこわばりはじめ、じょじょに険しくなっていく
どんな肉でもいいからと、スーパーに買いに走り、せっかくだからと牛肉を買ってみる
塊といっても牛なので、たいそうなものは買えない
しかしながらせっかく胃袋におさめるからには、全力で調理させていただく
まず、カンカンに熱したフライパンでジャジャジャッと、肉の両面に適度な火を入れ、フライパンから下ろして銀紙に包んで休ませる
肉そのものを味わいたいので、塩は肉をカットして皿に盛ってからうつ
血色のよい牛肉にかぶりつくとき、狩猟民族だったころの血がむやみに騒ぎだす
うおっ
うおっうおっ
うおおおっ、ほっほっほっ!ほわ!は!
そしてすかさず牛乳で流しこみ、農耕民族だったころのゲップでやっとひと心地つく
うるさい食事である

自分の遠い祖先はなんだったのか
うちの家系を見ていると、獣を追ったり、計画的に作物を育てたり、商売を盛んにしたりするような人たちではなかったと思う
たぶん木の実を採集して、魚をとって、その日暮らしにひっそりと明け暮れるような、ごく一般的な原始の人だったんじゃなかろうか
もし舞台表現のようなことをやっていたとしたら、それはちょっと嬉しいけれど、あの時代にそういうことをやっている人たちは、変わり者として集落の外れに住まわされたか、あの世とこの世をつなぐ者として重宝されたか、どちらにしても波乱な人生だったにちがいない
気になる

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パスタは簡単だ
とくに悩まなくていい
食べたい食材と味つけを決めたら、フライパンの上のソースと茹でたパスタを合えればいい
以前はパスタといえば、一緒にからめる食材をひきたてるわき役くらいにしか思っていなかったけれど、最近はパスタ料理はパスタそのものを食べるもんだと考えるようになってきた
水と塩と粉
この3つが要だと思うが、これについて考えるとパスタの沼にハマることになる
だからとても悩んでいる
手を出してもいいものだろうか

わき役も主役も、役割をふまえればどちらもおもしろい
それぞれにかかる楽しみと苦労は座組みや演出によっても変化するので、どちらがいいというものでもない
そういえば幼いころ、友だちとヒーローごっこで遊ぶときはいつも悪役を演じることが多かった
ヒーローたちが苦労して公園の遊具を攻略し、アリンコの雑魚敵をけちらしてたどり着いた先、最後に立ちふさがる悪の帝王としてぼくはいつも君臨していた
ぜったいにヒーロー役はやらなかった
だっておもしろくないから
良いことをして、良いことを言うだけのやつに何の魅力があるんだ、と
それよりも怪しい動きをしながら、広大な公園の遊具を自在にあやつり、正義づらして平和を語るやつらを苦しめる、そんな帝王でいるほうが楽しかった
そして、最後はヒーローたちに追いつめられ、呪いの雄叫びをあげながら消滅していく
しかしその口もとは、なぜか嬉しそうに笑っているのだ

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鶏肉が好きだ
煮ても焼いても、茹でてもうまい
でも焼くのがいちばん好きだ
パセリが余れば、細かく刻んでパン粉と混ぜ、チリペッパーをかるくふる
焼いた鶏肉の上に乗せてトースターで表面をこんがりさせれば、サクサクとジューシーが一緒に手をつないでぼくの食欲をノックする
コンコン
どなたですか?
鶏肉です
一人ですか?
いいえ、パン粉とパセリも一緒に来ました
そうですか、どうぞお入りください
口の中でサクサクとジューシーががっちりと握手をした
また一緒にやろう
ああ、もちろんさ
サクサクと、ジューシー、ぼくらはともだちさ

友だちは100人もいらない
そんなにいてもしかたない
2〜3人話の合う相手がいれば充分楽しい
でもそれは昔の話で、SNSにおける友だちは100人でも足りないくらいかもしれない
そんなのは仮想世界の友だちであって、本当の友だちっていうのは、生身で会って話せる相手のことさ
この金言が通じるのはどの世代までだろう
「相手と会う必要を感じない」というリアリティを背負って生きる世代が、相手を必要とするときってどんな時だろう
やっぱり2〜3人なんだろうか

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オートミールは乾煎りして水分をとばしておく
フライパンで必要量の砂糖を溶かし、ぶくぶくと茶色くなりはじめたら火を止めて、バターを少し入れ混ぜる
そこにオートミールを加えてカラメルを全体にまとわせる
それをキッチンペーパーの上にあけて、スプーンなどで平らにならす
十分に冷めて固まったら、お好みの大きさに割って瓶に保存しておく
市販のものもおいしいけれど、手作りは格別においしい
甘さや塩分を自分で調節できるので、その日の気分や体調に合わせて適当に作るのだ

手作りの手間を、面倒ととるか贅沢ととるか
その感触はその日によってころころと変わってもいい
たまにはカップラーメンとポテチで済ましたいし、そういう時に食べるジャンクフードは最高にうまい
オーガニックなものばかり食べても、健康でいられるかどうかはちょっと別のことかもしれない
何を食べるかも大事だけれど、どう食べるかも大事なことだからだ
戒律や修行の制限がないのなら、何がおいしいかはその日によってちがっていていいし、誰とどう食べるかも決めなくていい
おいしいはつくれる
とにかくうまいものが毎日食べられればこの上ない


小菅紘史



小菅紘史の記事はこちらから。
https://note.com/beyond_it_all/m/m1775a83400f9


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