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「書くこと」について

この記事が公開になる日、それは僕の舞台初日で、今は俳優として、その初日に向けてバタバタと慌ただしい日々を過ごしている。毎度のことながらこのnoteを書くときは、あまりにバタバタとしている。なぜだ。


書くことがあまりない。


というのも、演劇に身体と脳みそをがっつり持っていかれており、既にアウトプットをし続けている日々なので、特に他に語りたいことがない。他にアウトプットなんてしたくない。そんな状態になる。
なんなら、あらゆる連絡系統をシャットアウトして、お芝居と息抜きのみに集中したい。速度を上げたい。速度を上げるほど、急カーブを曲がれなくなる。

このnoteも、あと数ヶ月でひとまず終わる。そして今年ももうすぐ終わる。

今回何回目だろう?8回目ぐらい?

突然だけれど、僕はこの記事を半年ぐらい書いた段階で、「ああ、もうもたないな、半年たってキリがいいので、ここで辞めたいです」と言おうかとか、そんなことを考えた時期もあった。しばし本気で迷っていた。

「書く」時間がとにかくない!
それはひとつの単純な事実であると同時に、「書く」ことは、僕にとってとてもエネルギーを消費することだからだ。


特に僕は、このnoteの中で、「僕が何を書いたらいいのか」しばらくよくわからずにいた。だから、しんどかった。毎回何を書くか(厳密には「書けるか」)に、やや苦心した。

自分にとって何か少しでも「はみ出すもの」があればいい。少しでも「踏み込んで」書ければいい。そう思いながら後半は書いていて、それは、「書くこと」で自分自身が数ミリでも書く前と変わってしまうような、そんな体験をしたいという、そんなことなのだと思う。

別に文才がある訳でもない(と思っている)僕にとって、なにか「書くのも読まれるのも恥ずかしい、怖い」ぐらいの場所に踏み込まないと「面白くない」と僕はきっと思っているのだ。(そもそも文才ってなんだ。)

だからと言ってそれが読み手にとって「面白いか」どうか、そこは僕には分からないし、僕が僕に対して勝手にかしている枷で、別にそんな恥ずかしい思いをしながら書く必要は本来ない。たぶん。
けれど、なぜだろう。それがしたいというか、それならできる、あるいは、その工程になら興味がもてる。そんな風に思って、ここ数ヶ月は書いていた。(もう少し言えば、「そこになら価値があるかもしれない」という、そんな思い。)

そのほとんどは、きっと読む側にとっては、「べつにスラスラ読めるし、なにが恥ずかしいのか分からない」というようなことなのだと思う。けれど、僕にとっては、「こんなこと書いてしまっていいのだろうか」そんなことに若干踏み込んで書いていた。

言葉のプロフェッショナルではない人間が言葉を扱う時、またそれが「読まれる」ことを明確に目的とする時、当人の、書き手の体重が、筋肉や内臓や血液の体重がぐっと乗った言葉を少しでも書ければ、はたまた、書き始める時には想像もしなかった言葉(自分)に、ひとさじでも出会えれば、そこには、その文章には少しでも価値がある、そんな風に僕は思っているのだ。たぶん。「書く僕」にとって。

たあいないことは、ブログでいい。
(最近めっきり更新してないなあ。)


この数ヶ月、「なんとか記事を書く」過程を経て、おこがましくも感じたのは、「文章を書く」ということの一端に触れる心地がしたことだ。僕は「書くことで、書いている当人の人生がほんの少し変わってしまうような」そんな文章に惹かれるのかもしれない。(あるいは「書く」ことに、そんなことを期待しているのかもしれないし、それは、「書く」に限らず、「つくる」の本質はそんなところにあると思っているのかもしれない。)
そしてまた、書いていて思ったのは、「僕は結局、僕のことしか書けない」、そのことから出発するしかないし、その場所以外から出発なぞしたくないと僕が思っていることに気づいたことだ。

他人の言葉は、僕の言葉として語れない。そこには僕の全体重が乗らない。
その、体重が乗り切らないことへの違和感に敏感になったこと、あるいは自分自身のそんなセンサーに気づけたこと、それはこの数ヶ月の宝だと思う。記事、つづけてみてよかった。

ブログではなく、記事であること。
つぶやきでもなく、記事であること。
そこに向き合うと、自分がなんとか提出できる「面白さ」はなんなのか、そんなことに向き合うことになる、なった。

ひとつの記事を書いて、自分自身の体重ががっつり乗るような言葉は、ほんの一文ぐらいだし、僕が思いもよらぬ言葉が生まれるのもせいぜい1〜2文。でも、1つでもあれば上出来だと思っている。

で、あーー、創作活動って、
でも全部そうだよな。
作る前と後で、その人が変わっちゃわなきゃ嘘だよな。
そんなことを改めて思ったし、自分が文章を書いてその体験ができたのも、嬉しい。
ブログでも、それに近い感触はあったけれど、「読んでも読まれなくてもいい場所」に言葉を転がすのと、「読まれることを前提」とした場所に言葉を紡ぐのはやっぱり体験として違った。そんな感触。

感覚的には、どんなに「やりたい!!」と思っても、締め切りがないと、案外、人はがんばれないことに、やや似ている。

ん?感触は近いけれど、若干違うか。

俳優は本番で1番鍛えられる、人の目に晒されることで鍛えられるということと似ている。


のんびり言葉を紡げばいい、別に「自分が少し変わってしまうような文章」を書かなくたっていいとは重々思うけれど、なんかせっかくの機会だ。多少の緊張の糸を張った方が面白いと僕は思っているのだと思う。


さて

とは言え先に申し上げた通り、今月はもうすぐ本番だ。今回は深掘りはさっさと諦めてこのぐらいで。


どうかみなさまお元気で。

よいお年を。


焼肉食べたい。温泉行きたい。


↓もうすぐのお芝居

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藤尾勘太郎の記事はこちらから。
https://note.com/beyond_it_all/m/m065061bc1fa1


読んでくださり、ありがとうございます。 このnoteの詳細や書き手の紹介はこちらから。 https://note.com/beyond_it_all/n/n8b56f8f9b69b これからもこのnoteを読みたいなと思ってくださっていたら、ぜひサポートをお願いします。